閑話 「どこまでやればいい」
### 閑話 「どこまでやればいい」
社員Aは、
ずっと不安だった。
明日、
首になるかもしれない。
その感覚が、
十年間ずっと消えなかった。
だから安心できなかった。
人は、
安心できる場所なら力を抜ける。
今日は七割でいい。
失敗しても、
またやり直せばいい。
そう思える。
だが社員Aには、
それがなかった。
少しでも気を抜けば、
切られる気がした。
だから常に全力だった。
重い物を運ぶ。
人の嫌がる仕事を先にやる。
頼まれる前に動く。
ミスを減らす。
怒られる前に謝る。
どこまで頑張れば、
「いていい」
になるのか分からなかった。
だから、
止められなかった。
最初の頃は、
まだ感覚があった。
これくらいやれば十分。
ここから先は無理しすぎ。
その線引きができた。
だが、
少しずつ壊れていった。
頑張っても、
評価されない。
やって当然。
失敗だけ怒られる。
出来たことは消え、
ミスだけ残る。
それが何年も積み重なると、
心が擦り切れていく。
そして、
段々分からなくなる。
どこまでやればいいのか。
何をすれば認められるのか。
どこなら安全なのか。
社員Aは、
いつからか、
限界の感覚が壊れていた。
疲れていても、
まだ動こうとする。
熱があっても、
休めない。
「足りない気がする」
その感覚だけが残る。
周囲には、
真面目に見えていた。
頑張り屋にも見えた。
だが実際は違った。
怖かっただけだ。
止まった瞬間、
価値がなくなる気がした。
だから動き続けた。
ある日。
若い職員が言った。
「Aさんって、
何でそんなに頑張るんですか?」
社員Aは、
答えられなかった。
昔なら、
言葉にできたかもしれない。
だがその頃には、
自分でも分からなくなっていた。
頑張る理由ではなく、
頑張らない恐怖で動いていたからだ。
帰宅後。
社員Aは、
暗い部屋で座っていた。
静かだった。
何も聞こえない。
その時ふと思った。
――自分は、
一度でも安心して働いたことがあっただろうか。
思い出そうとした。
だが、
出てこなかった。




