「言わなかった言葉」
### 閑話 「言わなかった言葉」
社員Aにも、
好きになった人はいた。
自分には縁がないと思っていた。
元。武士の子、信じてくれなかったけど
軽度知的障害。
作業所勤務。
世間的に見れば、
結婚相手として歓迎される側ではない。
だから、
誰かに好かれるなど、
考えたこともなかった。
その女性は、
よく話しかけてきた。
仕事の段取り。
考え方。
人への接し方。
妙に話が合った。
社員Aが、
「こうした方が作業が安定する」
と思っていた基準を、
ほとんど同じように考えていた。
不思議だった。
こんなに考え方が似る人間がいるのか、と。
ある日、
その女性に言われた。
「好きだよ」
社員Aは、
頭が真っ白になった。
冗談だと思った。
だが違った。
「結婚しようか」
そうまで言われた。
社員Aは、
初めて人生で、
自分にも普通の幸せが来るのかもしれない、
と思った。
独身だと思っていた。
だが後になって、
少しずつ話が見えてきた。
子供がいた。
しかも、
支店幹部社員の妻だった。
経営にも参加していた。
だから仕事の基準や、
物の見方が似ていたのだ。
現場だけではなく、
運営側の視点を持っていた。
社員Aは、
何も言えなくなった。
その頃、
ある宗教団体で見ていた話を思い出した。
同じくらいの能力の男が二人いた。
一人は、
独身女性と結婚した。
家庭は安定し、
仕事に集中できた。
結果、
支店長まで昇った。
もう一人は、
人妻と離婚騒ぎを起こして結婚した。
周囲は割れ、
人間関係は崩れ、
仕事でも信用を失った。
能力は同じだった。
だが、
積み上げるはずの力が、
全部争いに消えていった。
結局、
中堅で止まった。
社員Aは、
その光景が頭から離れなかった。
だから、
言えなかった。
「一緒になろう」
その言葉を。
自分の人生だけならいい。
だが、
子供まで巻き込む未来が見えた。
支店の空気が壊れる未来も。
だから、
距離を置いた。
女性は泣いていた。
社員Aも、
苦しかった。
だが、
それでも踏み込まなかった。
後になって思う。
人生には、
手を伸ばせば届く幸せがある。
だが同時に、
掴めば壊れる幸せもある。
社員Aは、
どちらが正しかったのか、
今でも分からない。
ただ一つだけ分かる。
あの時、
感情だけで動かなかったから、
今でも誰かの人生が壊れずに済んでいる。
それだけは、
間違っていない気がしていた。




