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退職と10年の忍耐  作者: 中村 忠政
3/8

「聞こえないふり」

### 閑話 「聞こえないふり」


社員Aは、

何度も辞めろと言われていた。


直接ではない。


だが分かる。


「あいつ、もう無理じゃないか」

「空気読めよ」

「普通なら辞める」


聞こえるように言う人間もいた。


専務も一度、

ため息混じりに言った。


「まだいたの?」


冗談みたいな口調だった。


周囲は苦笑いしていた。


社員Aも、

少し笑った。


笑うしかなかった。


本当は、

ずっと前から分かっていた。


自分は、

ここで歓迎されていない。


元暴力団の子。


軽度知的障害。


動きも遅い。


愛想も上手くない。


世間で言う

「使いやすい人間」

ではなかった。


だから、

首になりそうな空気は、

何年も前から感じていた。


だが、

辞めなかった。


いや、

辞められなかった。


行く場所がなかった。


それに、

働かなければ、

本当に終わる気がした。


だから、

聞こえないふりをした。


「辞めろ」


そういう空気を。


そういう視線を。


全部。


聞こえないふりをして、

次の日も出勤した。


朝早く来た。


重い荷物を運んだ。


誰もやりたがらない作業をした。


失敗したら、

何度でもやり直した。


常に全力だった。


手を抜く余裕がなかった。


普通の人間が

七割で出来ることを、

社員Aは十割でやらないと追いつけない。


だから、

毎日が全力だった。


疲れても。


頭が回らなくても。


胃が痛くても。


働いた。


ある日、

同僚に言われた。


「そんな頑張って意味あるの?」


社員Aは答えられなかった。


意味。


そんなもの、

考えたこともなかった。


ただ、

止まるのが怖かった。


止まったら、

本当に要らない人間になる気がした。


だから働いた。


全力で。


すると不思議なことに、

少しずつ周囲が変わった。


好かれはしない。


だが、

完全には切られなくなった。


「あいつは来る」

「あいつは逃げない」


最低限の信用だけは、

積み上がっていった。


社員Aは後になって思う。


才能があったわけじゃない。


器用でもない。


ただ、

辞めろと言われても、

聞こえないふりをして、

次の日も来ただけだ。


世の中には、

それしか出来ない人間もいる。


だが時々、

それだけしか出来ない人間が、

最後まで立っていることもあるのだ。


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