「戻ってしまった文字」
### 閑話 「戻ってしまった文字」
退職してからしばらくして、
社員Aは、昔の作業所のことを思い出していた。
同僚A。
自分より障害は重かった。
けれど真面目で、
言われたことは必死にやる男だった。
昔、
字がほとんど読めなかった。
伝票も、
注意書きも、
ひらがなを追うだけで精一杯。
何度も間違え、
何度も怒られていた。
だが社員Aは、
ある習慣を教えた。
「毎日、少しずつ繰り返す」
「忘れてもまたやる」
「一回で出来なくてもいい」
成功法則、
などという大げさなものではない。
ただ、
積み重ねるだけの方法だった。
最初は、
同僚Aも半信半疑だった。
だが一年ほど経った頃。
少しずつ、
字が読めるようになった。
作業手順を読める。
駅名を読める。
簡単な本も読める。
本人は、
子供みたいに喜んでいた。
「俺でも読める」
その時の顔を、
社員Aは覚えていた。
だが、
周囲は違った。
「そんなの意味あるの?」
「作業速度上げろよ」
「余計なことするな」
専務に呼ばれた日もあった。
「変なこと教えるな」
「能率が落ちてる」
「そんな訓練はやめろ」
社員Aは説明した。
「今は遅くても、
後で安定します」
だが聞かれなかった。
結局、
同僚Aはやめた。
成功法則と呼ばれていた習慣を。
毎日の反復。
確認。
読み書き。
考える時間。
全部やめた。
すると、
少しずつ戻っていった。
読めていた字を、
また読めなくなった。
焦ると混乱する。
作業ミスも増える。
なのに今度は、
こう怒られた。
「ちゃんとやれ」
「前は出来てただろ」
「再開しろ」
社員Aは、
その光景を見ていた。
胸の奥が冷えた。
壊したのは、
お前たちだろ。
そう言いたかった。
だが、
言わなかった。
同僚Aは、
いつも人の顔色を見ていた。
褒められると嬉しそうにして、
無視されると極端に落ち込む。
「認められたい」
その気持ちが強かった。
自分で自分を評価できない。
だから、
誰かの「偉い」がないと、
存在価値を感じられない。
社員Aは、
昔それを少し羨ましいと思っていた。
自分は逆だった。
期待すると壊れる。
認められようとすると苦しくなる。
だから最初から、
期待しないようにしていた。
だが、
今なら分かる。
同僚Aは、
認められたかったんじゃない。
「ここにいていい」
と確認したかっただけなのだ。
人は、
生きているだけで不安になる。
特に、
何度も否定されてきた人間ほど。
だから、
褒め言葉にすがる。
社員Aは、
夜道を歩きながら思った。
もしあの時。
「遅くても続けろ」
そう言って守る人間が一人でもいたなら。
同僚Aは、
もう少し違う人生だったのかもしれない、と。




