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退職と10年の忍耐  作者: 中村 忠政
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「戻ってしまった文字」

### 閑話 「戻ってしまった文字」


退職してからしばらくして、

社員Aは、昔の作業所のことを思い出していた。


同僚A。


自分より障害は重かった。


けれど真面目で、

言われたことは必死にやる男だった。


昔、

字がほとんど読めなかった。


伝票も、

注意書きも、

ひらがなを追うだけで精一杯。


何度も間違え、

何度も怒られていた。


だが社員Aは、

ある習慣を教えた。


「毎日、少しずつ繰り返す」

「忘れてもまたやる」

「一回で出来なくてもいい」


成功法則、

などという大げさなものではない。


ただ、

積み重ねるだけの方法だった。


最初は、

同僚Aも半信半疑だった。


だが一年ほど経った頃。


少しずつ、

字が読めるようになった。


作業手順を読める。


駅名を読める。


簡単な本も読める。


本人は、

子供みたいに喜んでいた。


「俺でも読める」


その時の顔を、

社員Aは覚えていた。


だが、

周囲は違った。


「そんなの意味あるの?」

「作業速度上げろよ」

「余計なことするな」


専務に呼ばれた日もあった。


「変なこと教えるな」

「能率が落ちてる」

「そんな訓練はやめろ」


社員Aは説明した。


「今は遅くても、

後で安定します」


だが聞かれなかった。


結局、

同僚Aはやめた。


成功法則と呼ばれていた習慣を。


毎日の反復。


確認。


読み書き。


考える時間。


全部やめた。


すると、

少しずつ戻っていった。


読めていた字を、

また読めなくなった。


焦ると混乱する。


作業ミスも増える。


なのに今度は、

こう怒られた。


「ちゃんとやれ」

「前は出来てただろ」

「再開しろ」


社員Aは、

その光景を見ていた。


胸の奥が冷えた。


壊したのは、

お前たちだろ。


そう言いたかった。


だが、

言わなかった。


同僚Aは、

いつも人の顔色を見ていた。


褒められると嬉しそうにして、

無視されると極端に落ち込む。


「認められたい」


その気持ちが強かった。


自分で自分を評価できない。


だから、

誰かの「偉い」がないと、

存在価値を感じられない。


社員Aは、

昔それを少し羨ましいと思っていた。


自分は逆だった。


期待すると壊れる。


認められようとすると苦しくなる。


だから最初から、

期待しないようにしていた。


だが、

今なら分かる。


同僚Aは、

認められたかったんじゃない。


「ここにいていい」

と確認したかっただけなのだ。


人は、

生きているだけで不安になる。


特に、

何度も否定されてきた人間ほど。


だから、

褒め言葉にすがる。


社員Aは、

夜道を歩きながら思った。


もしあの時。


「遅くても続けろ」


そう言って守る人間が一人でもいたなら。


同僚Aは、

もう少し違う人生だったのかもしれない、と。


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