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退職と10年の忍耐  作者: 中村 忠政
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退職の日

言葉に気を付けないといけない人には慎重に

### 閑話 「やっと辞めてくれる」


社員Aは、帰り道をゆっくり歩いていた。


十年。


雨の日も、体調の悪い日も、眠れなかった朝も、

作業所へ通った。


誰より優秀だったわけじゃない。

計算は遅い。

説明も一度では分からないことが多い。


それでも、

「休まない」

それだけは守った。


元暴力団の子。


その肩書きは、

本人が選んだものではなかった。


幼い頃から、

大人の目は冷たかった。


「あいつの親、昔ヤクザだったらしい」

「関わるな」


そう言われるたび、

社員Aは黙っていた。


軽度の知的障害もあった。


言葉を返すのが遅い。

考えてから話す。

急かされると固まる。


だから誤解された。


「反省してない」

「鈍い」

「空気が読めない」


違った。


ただ、

必死だっただけだ。


十年間。


箱を折り、

シールを貼り、

荷物を運び、

頭を下げ続けた。


怒鳴られても、

嫌味を言われても、

「すみません」

と言った。


辞める日。


専務は書類を見ながら、

面倒そうに言った。


「やっと辞めてくれる」


その場は静かだった。


社員Aは、

一瞬だけ専務を見た。


色々、

言いたいことはあった。


十年間、

誰が穴埋めしたと思っている。


急な欠勤の時、

誰が黙って残業した。


新人が辞めないよう、

不器用なりに話しかけた。


怒鳴られ役を引き受けた。


それでも。


社員Aは、

全部飲み込んだ。


「お世話になりました」


それだけ言って、

頭を下げた。


帰り道。


春の風が吹いていた。


少しだけ、

肩が軽かった。


悔しくないわけじゃない。


でも、

心のどこかで思った。


――ああ、終わったんだな。


その夜。


古いノートを開いた。


十年間、

少しずつ書いていたメモ。


「怒鳴られても慌てない方法」

「仕事を忘れない工夫」

「失敗した時の確認」


誰にも見せたことはない。


ページの最後に、

今日の日付を書いた。


『退職』


少し考えてから、

その下にもう一行だけ書いた。


『十年、よく耐えた』


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