後味の悪いコーヒー
日に日に悪化していく精神状態。ついには仕事にまで影響を与え始めていた。ミスを犯す事はないが、橘と吉瀬さんの仲睦まじい姿を見かける度、嫉妬で狂いそうになる気持ちを抑えるために仕事に没頭する。その結果、史上かつてない程の集中力を発揮し、繁忙期にも関わらず残業せずに退社するという偉業を成し遂げていた。
「いやぁ~、今日も鈴香のおかげで仕事が片づく片づく。本当、毎年恒例の地獄の一ヶ月間が嘘みたい。あぁ、このまま鈴香の恋煩いが落ち着かない事を願うわぁ」
「明日香ねぇ、喧嘩売ってる!?」
「まさかぁ。鈴香様に喧嘩を売る勇気は私にはありません」
ケタケタと笑う彼女を見て、投げつける視線が剣呑になっていく。鬼気迫る勢いで仕事を片付ける私に声をかける者など、隣でのんびりとコーヒーをすする明日香くらいだろう。
「まぁ、冗談はこの位にして……鈴香、大丈夫なの? 目の下の隈、日に日に濃くなっているわよ。貴方、寝られていないでしょ。それで、あの量の仕事をこなしていれば、いずれぶっ倒れるわよ」
「――ははっ、大丈夫よ! 心配かけてごめんね。なんか、仕事に乗っている時って、テンション上がっちゃって睡眠が浅くなっているみたい。その内、落ち着くと思うから」
「はぁぁ、分かって無いんだから。あんまり無理しないのよ。課長補佐の他のメンバーだって心配しているんだから。最近の鈴香、異常よ。何があったかは聞かないけど、課長だって言わないだけで心配していると思うわ。とにかく、今日の仕事は終わり! 定時まで一階のカフェで茶でも飲んでなさい」
明日香に追い立てられ部屋を追い出されると、仕方なくエレベーターへと向かう。
「冬野さん、お疲れさま」
ちょうど来たエレベーターに駆け込めば、吉瀬さんと鉢合わせになった。
「お疲れさまです……」
エレベーター内に沈黙が降りる。
本当、ついていない。
なぜ、寄りによって、吉瀬さんと鉢合わせるのか。運の無さを呪いたくもなる。
吉瀬さんと話す気にもなれず背を向け立つと一階のボタンを押しスマホを取り出す。何をするでもなく画面を操作するフリをしていれば、二人だけのエレベーター内には、重い沈黙だけが続いた。
今、吉瀬さんは何を思っているのだろうか。
親睦会以来、彼女との接点はほぼない。
ふいに明日香から聞いたあの噂が脳裏をかすめ、胸がキュッと痛む。
橘と付き合いだしたのだろうか。
営業部内での認識は、すでに二人は恋人同士というモノだ。真相は不明のままだが、かと言って噂を橘が否定したとも聞かない。
チンっと鳴った音に意識が削がれた一瞬、背後から言われた言葉に心臓がズキリと痛んだ。
「冬野さん、ありがとう。真紘とは順調よ」
スッと横を過ぎていく吉瀬さんの後ろ姿は自信に満ちあふれていた。
きっと、二人は寄りを戻したのだろう。
茫然自失のままエレベーターを後にした私は逃げるようにカフェの入り口へと向かった。間接照明が灯る店内は、就業時間中ということもあり人もまばらだ。注文したブラックコーヒーを手に、窓際のカウンター席に座りボーッと夕闇に沈み始めた外の景色を見つめる。
ひと口飲んだコーヒーの苦味が喉を抜け落ちていく。そんな苦味と胸の痛みが混ざり合い、何とも言えない後味の悪さに気分も沈む。
やっぱり帰ろう……
居心地の悪さに席を立ち振り返ると、コーヒー片手に立つ課長に声をかけられた。
「冬野、どうした? 珍しいな……」
「須藤課長お疲れさまです。ちょっと気晴らしに。ただ、もうそろそろ戻ろうかと思っていましたが。課長は、休憩ですか? 今日は朝からずっと外回りでしたよね」
「あぁ、あらかた回り終わって今帰って来た所だ。直帰しても良かったんだが、久々に残務整理でもしようかと。いつもサポート役のお前達に任せてばかりだし、たまには俺もやらないとな」
「残務整理ですか? 終わってます……。あらかた処理済みですし、課長の補佐役は皆、定時で帰れるくらいの仕事しか残っていません」
「まさか、この繁忙期にか?」
「……はい」
額を抑え項垂れる課長を前に苦笑が漏れそうになる。
上層部との日々の会議から大手お得意様への訪問、果ては部下の尻拭いまでこなさなければならない課長の多忙さは、彼の補佐についていれば嫌でもわかる。膨大な仕事量を円滑に進めるための補佐役である。日々舞い込む契約に関する書類処理や細々とした調べ物など、課長が持ち込む仕事の残務整理は補佐役が全て行うのが当たり前だ。彼が残務整理を手伝う必要などない。でなければ、補佐役がいる意味がない。
ただ、自分の仕事の範疇を超えて手を差し伸べてくれる課長の優しさに大勢の者が救われているのも事実だった。役職が上がっても、変わらない部下想いの姿勢こそが大勢の者達から慕われる所以だろう。
威張り散らす事もなければ、上の者に媚びへつらうこともない。膨大な量の仕事を抱えながらも、部下への気配りも忘れない。適材適所、仕事の振り分けも見事で、上手く部下を動かすのもお手のもの。部長の椅子も間近と言われているのに偉ぶる素振りもない。同期ながら出来た人だと思う。
「ふふふ……。課長も久々にのんびり出来るのでは有りませんか? 課長もここのところ残業続きだったじゃ有りませんか。定時で上がれる時くらい、ハメを外さない程度にアフター六を満喫するのも気晴らしになりますよ」
「そうかぁ……、なんか悪い気がしてなぁ。繁忙期なのに遊び歩いていたら、下に示しがつかないというか」
「真面目過ぎますよ。遊びも日々の活力です」
「ははっ! 仕事の鬼の冬野が言うなら確かか。じゃあ、付き合えよ!」
「はっ!?」
「俺の補佐役は、皆定時で上がれるんだよな。だったら冬野も定時上がりだろ?」
「はぁ、まぁ……」
急に砕けた調子で話し出した課長に面食らう。
「じゃあ、飲みに行くぞ!」
「えっ!? いやぁ、飲みに行くのは……」
「この後、誰かと予定が入っているのか?」
「いいえ。特には……」
「じゃあ、決まりな! 言い出しっぺは、冬野なんだから付き合えよ。俺より、お前の方が気晴らしが必要だろうが」
「えっ! あっ……」
私の頭をポンポンと叩き、手を振り課長が去っていく。本当、相変わらず優しい……
今のやり取りが全て課長の手の内だった事に気づき笑いが込み上げる。
「ふふっ、本当、心配ばかりかけてダメダメよね」
今日くらい課長の優しさに甘えてもいいだろうか?
椅子に座り直し、夕闇に沈んだ景色を見つめる。ガラス窓に映った自分の顔は、冷えきったコーヒーの味と同じように酷いモノだった。




