本音と建前
「須藤課長、ご馳走様でした。お寿司と日本酒、久々に素晴らしい食事にありつけました。あの店って、一見さんお断りの老舗寿司屋ですよね?」
「いやぁ、よく知らん。以前お得意様とあの店で飲んでからの付き合いかな。気難しい大将に何故か気に入られてね。それ以来、仕事でもプライベートでもお世話になってるな」
課長に連れられ入った寿司屋の評判は、以前から噂では聞いていた。メディアの露出が一切なく、常連客の紹介無しでは入店すら出来ない幻の寿司屋があるらしいと。各界の著名人がこぞって名を上げる幻の寿司屋『響』の外観だけは、テレビや雑誌で紹介され一時話題になっていた。
課長とタクシーに乗り、着いた先の一軒の店を見て、しばしポカンと口を開けてしまう程度には驚いた。そして、呆然と立ち竦む私を尻目にさっさと暖簾を潜り、入り口から手招きする課長を見て、彼の凄さを改めて認識し直すこととなった。
出された品は全て一級品。お寿司の美味しさもさることながら、旬の魚を使った小鉢料理から焼き物、椀物に至るまで、どれを食べても感嘆の声が漏れるほどに美味しかった。そして、一緒に出された日本酒との相性も抜群とくれば、お酒の量も進みフワフワとほろ酔い気分のまま、上機嫌で店を出る。
「冬野、まだ時間あるか? もし、よかったら少し歩かないか?」
「あっ、はい」
課長の言葉に頷き、横を並んで歩く。広く取られた歩道は、人もまばらで二人並んで歩いてもすれ違う人の邪魔にはならない。
橘とも二人並んで歩いたっけ。
まだ彼に脅されて恋愛契約を結んでいた頃だ。ビルの壁面に映る東京タワーの夜景を一緒に見た帰り道、手を繋いで歩いた。
あの時、すでに私の心は彼に囚われていたのだと今なら分かる。脅迫されて仕方なく付き合っていると言い訳をしなければ橘に惹かれていく心を律することも出来なかった。あれから橘への想いも徐々に変わっていった。
年の差を理由に橘へと惹かれていく心を抑えようと足掻く私の思考をぶち壊した彼の言葉を思い出す度、あふれそうになる涙が私の本心を代弁する。
橘を愛していると。
「須藤課長……、年を重ねれば重ねるほど臆病になっていくのはどうしてだと思いますか? 若い頃は一歩を踏み出すのに勇気なんて必要なかったのに、今じゃその場に立ち竦んで身動きが取れない。その一歩を踏み出さなければ後悔すると分かっているのに、足枷で繋がれているみたいに動けないんです。どうしてだと思いますか?」
「あまりに抽象的過ぎて答えにつまるな。ただ、年を重ねれば重ねるほど柵が増えていくからじゃないかな。仕事を持てばプライベートでの行動が仕事に影響を与える事もあるし、家庭を持てば守らなければならない人達が出来る。年を重ねる度に広がっていく人間関係こそが柵そのものじゃないかな。世間体もあるし、身近な人達の事を考えれば自分勝手な行動は取れなくなる。確かに、若い頃に比べれば思い切った行動は出来なくなったかな」
「そうですね。やはり、世間体というか周りの目は気になります。三十路過ぎれば、世間一般的にはおばさんの範疇に入りますし、下手な行動は出来ないと言いますか……」
「確かにね。社会的な目は気になり出す頃だよな。会社でも中間管理職だし、上司と部下の間に挟まれ下手な事は出来ない。ストレス発散するにも若い頃のような無茶は出来ないだろ。家庭を持てばなおさらか。奥さんの目って言うのもあるしな」
「あら? そう言えば課長って……、独身ですよね。結婚願望ってないんですか?」
同期の須藤課長とは長い付き合いだが、今まで浮いた話を聞いたことがなかった。いつも、彼氏との愚痴を聞いてもらうばかりで彼の恋愛事情を聞いたことがなかったと今さら気づき焦る。
本当、私ってはた迷惑な同期じゃない。
須藤課長への罪悪感から早口で言い募った。
「ほらっ、課長だって良い年ですし、恋人の一人や二人いるんじゃないですか?」
「おい、冬野さぁ……、恋人がいたら、お得意さまだろうと田ノ上部長のお嬢さんとの縁談話なんか、さっさと断っているわ」
そう言えば、そんな縁談話があったことを思い出し、苦笑いを浮かべる。順調に提携話は進んでいるが、本契約が済むまでは気を抜けない。難しい立場に追い込まれている須藤課長に心の中で手を合わせる。
「須藤課長って、意外に義理堅いというか、一途なんですね。仕事より、恋人を取るとは……」
「お前なぁ、一途って……、まぁ俺も長年片想いしているしな」
「えっ!? 片想いしているんですか!?」
いきなりの爆弾発言にほろ酔い気分も相まってテンションが上がる。
須藤課長が片想いって、どんな娘だろう?
次々と脳裏を候補となりそうな女性の顔が浮かびワクワクしてしまう。
「どの娘ですか!? 社内なら、私、仲を取りもちますよ!」
「じゃあ、お願いしよっかな……」
ギュッと掴まれた手をひかれ、気づいた時には須藤課長の腕の中だった。
「えっ? ちょっ、と……」
「黙って聞いてくれる。俺の片想い――、冬野、お前なんだよ」
いつものふざけた調子ではない静かでいて深みのある低い声に心臓が跳ねる。
「はは、まさか。また、冗談を……」
「冗談で、こんなことしない。ずっと、好きだった。たぶん、同期として入社した頃から」
キュッと腕の力が強まり身動きが取れない。トクトクとなる心臓の音が頭に響き、じんわりと身体を熱くさせた。
「判断は的確で、仕事も早い。それでいて他人へのフォローも完璧。始めはライバル視していたんだ。でも、なんか冬野って抜けてんだよな。そこが見放せないって言うか、ほっとけないっていうか、いつの間にか目で追うようになっていた。でも、恋に気づいたのは元彼との愚痴を聞くようになってからか。なんで、そんな男と付き合ってんだ。俺の方が幸せに出来るのにってね」
静かな声で紡がれる言葉が、心に降り積もっていく。彼はずっと自分を見てくれていた。己の心を隠し、ずっと側で支えてくれていた。
「なぁ、冬野。お前が今、どういう状況かは知らない。でも、仕事の鬼のお前が、精神的に追いつめられていることだけはわかる。辛い恋しているなら、そんなもの捨てて、俺の手を取らないか」
スッと離れた須藤課長が手を差し伸べる。
誠実で、誰からも頼りにされる素敵な人。きっと、この手を掴めば、私は幸せになれる。
頭では、わかっている。でも、心が彼の手を掴むことを良しとしない。
いつの間にか、大きくなっていた存在。女を弄ぶような男で、クズ中のクズ。だけど、瞳の中に隠された空虚な心に惹かれた。
心の中に居座り続ける『橘真紘』という存在が、須藤課長の手を取ることを良しとしない。
本当、馬鹿よね。
須藤課長の手を取れば幸せになれるって、わかっているのに……
「須藤課長……、ごめんなさい」
深々と頭を下げる。
想い続けてくれた彼への罪悪感で心が押しつぶされそうに痛い。涙があふれそうになるが必死に堪える。ここで泣くわけにはいかない。
泣くのは簡単だ。でも、それは自分勝手な逃げでしかないから。
「そうか……、冬野、お前ならそう言うと思ったよ」
「えっ……?」
「いや、勘違いするなよ。お前を好きだって言った言葉は本心だ。ただ、冬野なら断るだろうなって、内心思っていた。変なところで頑固だからな、お前って」
須藤課長の言葉に顔を挙げれば、ホッとした表情の笑顔とぶつかる。
「これで、冬野に振られるのは二回目かぁ」
「えっ? 二回目?」
「はっ!? お前、覚えてもいないのかよ」
「覚えているって、何を?」
額に手を当て項垂れる課長を見て、頭の中が疑問符で埋め尽くされる。
「あぁぁ、冬野は知らんでいいよ。というか俺の存在って、お前にとってその程度だったんだと再認識する羽目になろうとはなぁ」
心底呆れたという目を向けられ何故か頭に血が上る。
「はぁ? どういう事ですか!? その目、完全にバカにしてますよね! 話すまで帰しませんよ!!」
「はぁぁ、わかったわかった。話すから離せって!」
須藤課長への罪悪感も忘れ掴みかかっていた手を慌てて離し、距離をとる。
「あぁぁぁ、覚えられてもいないなんて、マジで黒歴史だわぁ。彼氏に浮気されたって、初めてヤケ酒に付き合った日だったか。まぁ、酔っ払っていたお前に告白した俺も悪かったが、覚えてもいなかったとは……」
「嘘でしょ!? 告白したって……、そんな事あった??」
「本当、昔から男女の機微に疎いというか、こりゃ橘も苦労するわな」
「はっ!? 何でそこで橘の名前が出てくるんですか??」
課長の口から飛び出た橘の名前にドキリっと心臓が脈打ち、内心焦り出す。
「冬野さぁ、あれで気づかれないとでも思っていたのか? 橘を物憂げに見つめてため息ばかりついていれば何かあったと思うのが普通だろ。橘の態度も態度だしなぁ」
「ウソ……私、そんな事してましたか?」
「まぁ、気づいているのは、お前とも腐れ縁の奴らばかりだがな。さっきの身動き取れないとか溢していたのも、どうせ橘と吉瀬さんの事だろう。過去に何があったか知らんが、さしずめ噂に踊らされて、色々悩んでいるってところか。ハッキリ言って時間の無駄だぞ。橘は、冬野を諦めないだろうし、さっさと腹括って、アイツのこと受け入れた方が良い」
「どうしてそんな事、課長が分かるんですか? 橘と吉瀬さんが付き合っているって噂、実際にそうかもしれません。もし、仮に私が橘を好きでも、付き合っている二人を引き裂いてまで彼を奪おうとは思えません」
「それが綺麗事だって言ってんだよ。冬野さぁ、今までもそうだったんじゃないのか? 元彼の事だって、そうやって相手の顔色ばかり伺っていたから相手がつけ上がったんじゃないのか? そして、今度は傷つきたくなくて、身動き取れなくなっているのが事実だろう。自分の気持ちに正直になった方がいい。特に男女関係は」
傷つきたくなくて橘を拒絶したのに彼への気持ちを捨てきれず、身動き取れなくなっている。私は、言い訳ばかり並べて橘から逃げ出した臆病者なんだ。課長の言う通りだ。正論過ぎて、何も言えない。
「俺はあの時、お前に告白して良かったと思っている。玉砕覚悟で、案の定振られたというか、お前の中では告白された事にもなっていなかったようだけど、腹はくくれた。自分の気持ちに正直になれ。みっともなくたって、なりふり構わず行動する事も時には必要だ。でなければ、きっと後悔する。特に男と女はな」
『愛している』と自覚した今、このまま何もせず指を咥えて二人の成り行きを見ているだけでいいのか? それで、自分の気持ちは納得するの?
二人が付き合っているとかいないとか、そんな事はどうでもいい。自分の気持ちに正直に行動するべき時が今なのではないだろうか。
グルグルと頭の中を巡る思考の渦に翻弄され、一歩が踏み出せない。
なりふり構わずか。そう出来たらどんなにいいだろうか……
「課長、年を取るって嫌ですね。変化を嫌って、現状維持の居心地の良さから抜け出せなくなる。それが年々酷くなっていく。本当、嫌になる」
「そんな事もないと思うぞ。踏ん切りさえつけば、あとは行動あるのみ。今までの経験があるからこそ、若い奴等よりも上手く立ち回れる事もある。あまり考え込むと本当に動けなくなるぞ。深く考えず気持ちのまま突っ走ってみたらどうだ。橘は、俺の告白を蹴ってまで、欲しいと思えた男なんだろ」
告白を蹴ってまで欲しいと思った男。
最悪な誕生日に出会った、最悪な男。でも信じ続けた元彼に捨てられ絶望に堕ちた心を救ってくれたのは、橘真紘という存在だった。
気持ちのまま、突っ走ってみるか……
「まぁ、橘にも振られたら俺が拾ってやるから、安心しろ」
ヒラヒラと手を振り、課長の背が遠ざかって行く。
今のままでは、きっとダメだ。そんな事は分かっている。分かっているのだ、充分過ぎる程には。




