恋と愛
小洒落たワインバル風のレストラン。目の前のテーブルには、摘むのに丁度いいピンチョスをはじめ、生ハム、アヒージョ、カクテルサラダ、様々な創作料理が並ぶ。
半個室になった客席からは、賑わう店内の声が漏れ聴こえ陽気な雰囲気を醸し出す。しかし、心が沈むのは、目の前に座る黒髪の美女のせいだろうか。
新事業を数ヶ月後に控え、入江物産から出向してくる吉瀬美沙江との親睦会。なぜか、その席に呼ばれたのは、須藤課長と私、そしてもう一人、吉瀬美沙江の隣りに座る橘真紘の三名だった。この選定に入江物産の……、いいや、吉瀬美沙江の思惑が絡んでいるのは、明白だった。
新規事業の責任者である須藤課長と補佐として入る私が親睦会に呼ばれるのは必然だろう。しかし、全くプロジェクトに関わっていない橘真紘が、ここにいるのは目の前に座る美女のわがままに過ぎない。
須藤課長が言うには、右も左もわからない会社に出向は初めてで心許ない。知り合いの橘真紘がサポートについてくれるなら心強いと、吉瀬さんがごねたそうだ。専門職員が出向してくるまでの調整役と言っても、相手は田ノ上部長の秘書。機嫌を損ねる訳にはいかないと、希望通りにするしかなかったと、須藤課長がぼやいていた。
「本当、ごめんなさいね。無理を聞いてもらっちゃって」
「いいえ、こちらとしては、新規プロジェクトを成功させるには吉瀬さんの協力が不可欠ですし、気心の知れた者が社内に居て良かったです」
「そんな、気心が知れたなんて、真紘とは幼なじみというか、弟のような関係ですのよ。私としても数十年ぶりに再会出来て、しかも一緒に仕事が出来る、夢みたいですわ」
あえて、弟と言ったのは何か含みを持たせているのだろうか?
橘への揺さぶり? それとも私へと探りを入れているのかしら?
吉瀬美沙江の隣に座る橘をチラッと盗み見るが、先ほどから表情を変えることはない。
裏切られてなお心に巣食う女との再会に今、橘は何を考えているのだろうか?
悲しみ、憎しみ、恨み……、それでも忘れられない人と再会出来た喜びの方が大きいのかもしれない。
じくっと痛む胸を無視して手元の赤ワインをグイッと飲めば、口いっぱいに広がる苦味に眉根を寄せた。
はぁぁ、考えすぎね。
突然の元彼女の登場に心乱されるなんて私らしくない。
「失礼致します。ちょっとレストルームへ」
目の前で繰り広げられる茶番劇に辟易し、お手洗いを理由に席を立つ。
気分が悪いとでも言って先に帰らせてもらおう。
間接照明に照らされた鏡に写る自分の顔は、青白く血色が悪い。最近の寝不足もたたり、目の下のくまも化粧で隠せないほどに濃い。誰も引き止めはしないだろう。
水で手を洗えば、その冷たさが荒ぶる心をわずかに静めてくれる。
気合いを入れなくちゃ。
吉瀬さんだけには弱味を見せられない。
吉瀬美沙江という女が、笑顔の下に残忍な本性を隠し持っていると女の勘が告げている。
失態を犯す前に逃げ出そうと心に決め振り向いた時だった。扉に背をつけ、こちらへと意味深かな笑みを浮かべた吉瀬さんと目が合い、心臓が嫌な音を立てて跳ねた。
「冬野さん、でしたっけ。ふふふ、ずいぶん具合が悪そうですけど、大丈夫ですか?」
笑いながら紡がれる言葉が刃となり心に突き刺さる。
「いいえ、ご心配にはおよびません」
「そう……、でも貴方がいると邪魔なのよね」
笑みを消し不機嫌そうな態度を取る彼女こそが、吉瀬美沙江の本質なのだろうか。
あからさまな挑発を受け、麻里奈ちゃんに言われた言葉が脳裏をよぎる。
男を手玉に取る女狐か……
邪魔な女を蹴落とし、男には媚を売る。そして己の立場を利用して欲しい男を手に入れる。女狐というより女豹と言った方が正しい気がするわねと、どうでもいい事を考えていなければ、敵愾心むき出しの女との戦いにのまれてしまう。
というか、そもそも戦う必要があるのだろうか?
橘にとって吉瀬美沙江は忘れられない女で、私は彼女の身代わりでしかないのだ。
橘のことで吉瀬美沙江に勝てる要素は何一つない。
「そうですか……、心配しなくともあなた方の逢瀬を邪魔するつもりはありません」
「そう? 私の勘違いかしら。真紘と一緒に住んでいると思っていたのだけど」
美沙江の言葉に一瞬、息をのむ。
彼女はどこまで橘真紘の現在を調べあげ、ここに立っているのだろうか。執着とも取れる彼女の発言に恐怖すら感じる。
過去はどうであれ、今の彼女にとっても橘真紘は、忘れられない男ということだ。
ほんと……、私に勝てる要素なしね。
「えぇ、そうですね。ただ、彼とは利害が一致しただけの関係に過ぎませんから」
「そう……、なら、真紘とはすぐに別れてちょうだい。仕事に忠実な貴方ならわかるでしょ。このプロジェクトを成功させたいなら、なおさらね」
あからさまな脅しを受け、拳を握る。何も言い返せない自分がやるせない。しかし、吉瀬さんに刃向かったところで、私に勝ち目なんてないことも理解している。
吉瀬さんが橘の側から私を排除したいと言うのなら従うしかない。プロジェクトに私情を挟み、契約が頓挫するなどあってはならないのだから。
「えぇ、もちろんです。では、お先に失礼させていただきます」
深々と頭を下げ、足早に美沙江の横を通りすぎる。扉を開け店内へと足を踏み入れたが、そのまま客席へと戻ることだけは出来なかった。
きっと吉瀬さんが適当に誤魔化すわね。
足早に店内を抜けガラス扉を開けネオン輝く街中へと出れば、陽気な音楽が耳に入り、歩く人々の顔にも笑顔が浮かんでいた。
しかし、私の心は沈んでいく。
悔しいのか、悲しいのかさえもわからない。ただ、心に広がる虚無感が叶わない想いへの執着のようにも感じられ、なおさら自分が惨めになる。
もう、何も考えたくない……
雑踏に紛れれば、少しはこの惨めな気持ちが救われるのだろうか?
しかし、そんなこと叶わないとわかっている。結局、私は美沙江という女から逃げ出したのだ。
心に広がる虚しさが消えることはない。
ゆっくりと足を止め、振り返る。しかし、そこに期待する人物はいない。
「馬鹿みたい……、追ってくるはずないのにね」
すべてに背を向け逃げ出したのに、何を期待していたのか。期待している自分が一番、惨めで、虚しいとわかっているのに。
「帰ろう……」
前を見据えゆっくりと歩き出した私は、大通りへ出ると流しのタクシーを拾い、後部座席に深く座り瞳を閉じる。
もう、限界よ。全てを終わりに。
滲んだ視界が闇に閉ざされ、頬を一筋流れた涙が手を濡らした。
*
「鈴香……、鈴香……」
暗闇の中、私の名を呼ぶ声が意識を浮上させる。重い瞼を無理矢理あげた先に見た顔に反射的な笑みが口元に浮かんだ。
真紘……
「鈴香、こんなところで寝ていたら風邪ひく。着替えもしていないし。具合が悪くて先帰ったんじゃなかったのかよ!」
「……具合が悪くて、先帰った?」
今夜起こった出来事が脳裏にフラッシュバックし、唐突に怒りが込み上げる。
真っ暗な部屋の中、橘の帰りを待ち続けた。『好きだ』と言ってくれた彼の言葉だけを信じ待ち続けた。十時を回り、時計の針が零時を回っても待ち続けた。でも、橘は帰って来なかった。
それが、彼の答えなのだ。
忘れられなかった元彼女が目の前にいるのだ。吉瀬さんが橘を誘えば断ることなんて出来ない。
そもそも私を本気で好きになるなんてあり得ない。だって、橘にとって私は吉瀬さんの身代わりでしかなかったのだから……
眠気交じりのボーッとする頭では、理性なんて上手く働きようもなかった。
「ははっ、具合が悪い? そうね、確かに気分が悪いわ。他の女の匂いを纏わりつかせたアンタと一緒じゃ、気分だって悪くなる」
ただの同居人に彼の行動をとやかく言う権利はない。しかも、吉瀬さんからも、橘からも逃げ出したのは他ならぬ自分自身だ。彼にとって私の言動は理不尽以外の何ものでもないだろう。しかし、ついて出た言葉は止まらなかった。
「吉瀬さんとは上手くいったのかしら? 良い雰囲気だったじゃない。いっそのこと、二人でホテルにでも泊まってくれば良かったんじゃない。久々の再会で、熱い夜を過ごせたかもしれないのに、馬鹿ね」
「鈴香、それ本気で言っているのか!? 俺が他の女を口説こうが、一緒に過ごそうが、抱こうが鈴香にとっては、どうでもいい事なのかよ!!」
関係なくない……
彼が他の女と一緒にいると考えるだけで胸が張り裂けそうになる。嫉妬で狂いそうになる。行かないでと縋りつきそうになる。
泣いて縋って、『橘真紘』という沼にどっぷりとハマってしまえば楽になれると分かっている。
私だけを見て、私だけの事を思って、私以外の女に心を奪われないでと、本心を曝け出したいと心が叫ぶ。でも、心の奥底で叫ぶ、もうひとつの声が一歩を踏み出す事を躊躇わせる。
『橘の心にいるのは、私じゃない』
彼に惹かれていく心と相反する疑念。
吉瀬さんが現れてから巣食う疑念が橘を受け入れることを拒否する。心を曝け出したら最後、取り返しのつかない事になるぞと警告を鳴らす。
想いのまま橘を愛してしまえば、それを失い捨てられた時、私は今度こそ立ち直れない。
もう、これ以上傷つくのは嫌だ……
「えぇ。どうでもいいわ。私が本気で貴方を好きになると思っていたの? 本当、おめでたい頭ね。周りからチヤホヤされ過ぎて、女は全て自分の思い通りになるとでも勘違いしたのかしら。貴方が私にして来た過去を考えれば、万が一にも好きになるなんて有り得ないのに」
「……本気で言っているのか? 鈴香が俺を好きになることは万が一にもないのか?」
好きになってしまった。
だからこそ、これ以上深みに嵌るのが怖い。心の底から『橘真紘』を愛してしまう前に手を引くべきだ。手遅れになる前に……
「万が一にも貴方を愛することはない。貴方の誘いに乗ったのも、思わせぶりな態度を取ったのも、私を騙して弄んだ貴方に対するほんの小さな意趣返しよ。それを本気にでもしたの? 女を弄んで捨てて来た貴方らしくもない。貴方への些細な復讐も済んだし、此処で一緒に暮らす意味もない。今日で最後にしましょ……」
「……それが鈴香の本心なんだな」
橘を好きだと泣き叫ぶ心を無視し艶然と笑ってやる。
「えぇ。お子様とのお遊びは終わりよ。さ・よ・う・な・ら」
「わかった。勝手にすればいい」
静かな部屋に響いた別れの言葉は鋭い棘となり心に突き刺さる。
「これで良かったのよ……」
ひとり残された部屋に響いた最後の言葉が闇の中へと消えていった。




