思いがけない告白
――吉瀬美沙江は、橘の忘れられない人。
あの日から、頭の中でこの言葉がクルクルと回り、落ち着かない。
先程から一文字も進んでいないパソコン画面を見つめ、集中すら出来ていないことを痛感する。
こんな状態になるなら、麻里奈ちゃんの手を振り払い逃げ出せば良かったと後悔しても、後の祭りだ。
橘は、私の様子がおかしいと気づいているだろう。よく人の事を見ている男だ。今朝もいつも通り振舞っていたけれど、何か言いたげにしていた。でも、追求されることはなく、キスだけして先に出て行った。『あんまりグルグル考え過ぎるなよ』って言う言葉だけを残して。
「はぁぁ……」
大きなため息を溢し、デスクに突っ伏す。
「どうしたのさ。鈴香らしくないぞぉ。どうやら何か悩み事がある様子。奢りなら話聞くぞ。この後、飲みに行きますか?」
ポンポンと肩を叩かれ振り向くと同期の明日香がニッコリ笑いながら背後に立っている。
「なんだ、明日香かぁ。ビックリさせないでよ。まだ、就業時間内です。行けるわけないでしょうが」
「残念~。もうとっくに退勤時間過ぎてますよぉ」
「うそ……」
慌てて時計を確認すれば、退勤時間をすでに一時間も過ぎている。そんな事にも気づかないほど悩んでいたのかと自己嫌悪に陥る。
「本当でーす。鈴香さんはお疲れのようだし、ここは一杯飲みに行くのがベストですな。強制連行~」
明日香に腕を掴まれ、立ち上がると帰宅準備もそこそこに会社を後にした。
*
「それで、鈴香は何をそんなに悩んでいるの?」
大衆居酒屋に入り、適当に注文した二人分のハイボールと数種のつまみが届くと同時に切り出された。
「悩みって言うか、大したことないのよ。本当、明日香に心配されるような悩みじゃないの。だから……」
「へぇ~、てっきり彼氏と上手くいっていないから悩んでいるのかと思った」
「へっ? か、彼氏!? 私に彼氏はいないわよ。明日香だって知っているじゃない、別れたの」
「違う違う。あのストーカー元彼じゃないわよ。橘君よ。橘君!」
「………っ、た、橘!!」
飲んでいたハイボールを思わず吹きそうになり慌てる。
「え? だって付き合っているでしょ?」
「なんで、私が橘と付き合っているのよ! まさか、社内でそんな噂に……」
「違う違う。そんな噂、どこからも出ていくないから大丈夫よ。まぁ、本人にバラすのも悪い気がするけど、口止めされていないし、まっいっか。実はね、橘君から鈴香との仲を取り持って欲しいってお願いされてたの」
「――はぁ? 何それ」
そんな話、聞いていない。
「いやねぇ。あまりにも真剣にお願いされたから絆されちゃったって言うか。私もね始めは断ろうと思ってたのよ。鈴香は、あまり橘君に良い印象持っていなかったし、尚更ね。しかもあの容姿でしょ、絶対裏があるだろうって。だから、試してみたのよ。私の趣味に付き合ったら協力してもいいわよって」
「えっ? 明日香の趣味って例のアレよね。コスプレ……。まさか、橘にさせたの!?」
「そう。だって断るだろうって思ってたから。一般人にはハードル高過ぎるでしょ」
明日香のコスプレは、かなり本格的なのだ。詳しくは知らないが、あの世界でコアなファンが何万人も付いているらしい。その凄腕コスプレイヤーが、美形の男をコスプレさせて、会場に乗り込んだとしたら大騒ぎになっただろう。
「普通は、趣味がコスプレって聞いただけで大抵の人は引くわよね。しかも、素人にコスプレさせようだなんて、絶対に断ると思ったのに、あの男ひかなかったのよね。よっぽど鈴香と近づきたかったのねぇ。お陰さまで、過去に類を見ない盛況ぶりで、連れの男は誰だって今でもコスプレ界は大騒ぎよ」
目の前でケタケタと笑う明日香を見つめ、心の底から橘に合掌を贈る。
ご愁傷さまでした。
「橘君って、あの容姿でしょ。絶対にコスプレに興味ないだろうし、必死に好きな女の情報を得るために誘いに乗るだなんて、今まで考えた事すらなかったんじゃないかな。それが、あの態度よ。よっぽど鈴香が好きなのねぇ。だから、協力したくなっちゃったの」
信じられない話だった。きっとコスプレなんて、オタクの道楽だって一蹴し、歯牙にもかけないだろう。今までの行動を考えれば、オタク文化をこよなく愛する者達を馬鹿にする側だったのは明白だ。それが、私との距離を縮めるためだけに、明日香に頭を下げ、彼女の趣味に付き合うなんて。
橘の元彼女が現れてから、ずっと心に巣食う不信感がわずかに癒える。
愛している……、あの言葉は真実だったのだろうか。
「今だからネタバレするけど、元彼がストーカー化しているって、橘君に情報を流したのも私です。勝手にって言われるかもしれないけど、正直あの時、鈴香危なかったのよ。知らないと思うけど、何回か待ち伏せされていたのよ。定時で帰っていたから、表立って行動されなかったけど、あの日は久々に残業もしてたし、ヤバいかなって。だから、橘君に連絡したのよ。元彼が行動起こすかもって。後で彼から状況聞いて血の気が引いた。大丈夫だったのよね?」
「えぇ。橘が助けてくれたから……」
「良かった。橘君に連絡して良かったわ。ただ、鈴香に内緒で裏で色々とやっていたのは事実だから、本当ごめんね」
元彼に襲われた日、タイムリーに橘が助けに来たのには、そんな裏があったのかと、頭を下げて謝る明日香を見つめ思う。
裏事情を知れてよかった。
橘の言葉が真実だったと信じたい気持ちが、心に芽生え始める。
「いいの。もし、明日香が橘に伝えてくれなかったら、元彼に襲われてズタズタにされていたと思うし、こちらこそありがとう」
「そう、良かった。でも、内緒で色々していたのは事実だし、本当ごめんね。それで、元彼のストーカー行為ってどうなったの? その後は、無くなった?」
「えぇ。まぁ……」
あの日以来、元彼から連絡が来る事は一切なくなった。ただ、あまりの静けさが逆に不気味に感じる。あのまま私に見切りをつけてくれたと考えていいのだろうか。
「まっ、何かあっても橘君が守ってくれるし、大丈夫かな。一緒に暮らしているんでしょ?」
明日香の言葉に一瞬驚くが、橘の協力者なら同居の件も知っていて当然かと、大きなため息を吐き出す。
彼女の言う通り、まだ橘の心に私がいるのなら、ストーカーと化した元彼から守ってくれるのだろう。ただ、橘の心にいるのが私ではなく、元彼女、吉瀬美沙江だったら……
一度、巣喰った不信感は、そう簡単には拭えない。そして心に宿った疑心暗鬼は、吉瀬美沙江の営業部への出向が決まり、確信へと変わった。




