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残酷な真実

「それで、相談って何かしら?」


 運ばれてきたカプレーゼにフォークをぶっ刺し、目の前でお上品にトマトを口に運ぶ近藤麻里奈へと視線を移す。


「あっ! すみません。あまりに美味しくて夢中になってしまって」


 あぁ、こういう所が男心を擽ぐるのね。

 頬を染め、恥かしそうにうつむき、謝る彼女は女の私から見ても可愛らしい。場をパッと明るくする笑顔と気さくな態度で、職場でも人気があるのは知っていた。


「それで、相談なんですけど……、橘さんのことで」


 やっぱり……

 終業時間ギリギリに課長補佐ブースへと彼女がやって来たときからなんとなく予想はしていた。

 きっと橘のことで何か言われるのだろうと。

 麻里奈ちゃんの態度を見ていれば、すぐにわかる。彼女が橘を好きだということが。そして、時々、自分へと突き刺さる鋭い視線の意味も。

 職場の近くのイタリアンレストランで食事でもしながらと言われた時に断ればよかったのに、先輩として、そして女としてのプライドが断ることを許さなかった。


「橘君のこと?」

「えぇ、そうです。冬野先輩、橘君と付き合ってますよね?」


 麻里奈ちゃんの直球に一瞬面食らったが、そこで表情を変えるほど馬鹿ではない。

 やはり、想像していた通り、麻里奈ちゃんは橘と私の関係に気づいていた。ただ、一緒に住んでいることまでは勘づかれていない。そう信じたい。


「私が橘君と付き合っているですって? あり得ないわ。確かに、新人だった彼の教育係はしたけど、それ以降の接点はないもの」

「嘘言わないでください。だって見ていればわかります。橘君が、誰を好きかなんて!」


 キッと私を睨みつけた麻里奈ちゃんの目には涙が浮かんでいた。

 内心の動揺を抑え、自分の心に冷静になれと言い聞かせる。ここで、橘と同居していると彼女に言うことは簡単だろう。でも、橘への気持ちが曖昧なまま、彼との同居を麻里奈ちゃんに伝えることは今の自分には出来ない。

 手を強く握り俯く麻里奈ちゃんの肩が揺れている。必死で怒りを抑えている彼女にとって、自分の存在は憎い相手でしかない。

 橘の心を奪い、そのくせ曖昧な態度をとる。橘に心惹かれているのに、今以上に心の中に踏み込まれるのが怖い。麻里奈ちゃんのように橘を好きになることの出来ない自分にとって彼女は、罪悪感の象徴のように感じる。

 罪悪感に支配され、まともに麻里奈ちゃんの目を見ることも出来ず俯く私を詰るように、彼女の言葉は続く。


「本気で好きだった。本気で、橘君のことが好きだったんです。でも、私じゃダメなんです。私じゃ、勝てない。あの女……、『吉瀬美沙江』には勝てないの!」


『吉瀬美沙江』の言葉に、心臓が嫌な音を立てて跳ねる。

 社をあげての一大プロジェクト、入江物産との共同プロジェクトの窓口である田ノ上部長の秘書として、数日前に営業部へと現れたのが、吉瀬美沙江だった。ストレートの黒髪を耳にかけ上品に微笑む姿は、白百合を思わせ、清廉な雰囲気を醸し出していた。初顔合わせの席、吉瀬さんを見てつぶやいた橘の言葉が、ずっと頭から離れない。あの時、ヘルプで入っていた橘は彼女を見て『美沙江……』と呼んだのだ。あの日からずっと心に巣食う疑念が最悪な形で確信へと変わっていく。


「……どういうことなの? 麻里奈ちゃん」

「吉瀬美沙江――、あの女が、橘君の元彼女で、彼がクズ男になった原因です」


 麻里奈ちゃんの言葉に衝撃を受ける。

 元彼女で、クズ男になった原因って……

 どこか女を憎んでいるような、それでいて空虚な瞳を思い出し、胸がえぐられるように痛みだす。


「吉瀬美沙江は、橘君が高校生の時に付き合っていた彼女です。そして、たぶん今でも彼の心には、あの女がいる」


 橘の心には、今でも吉瀬さんがいるって……

 ずっと不思議に思っていた。

 女ならどんな美女でも、可愛い女でもよりどりみどりの男が、なぜ七歳も離れたおばさんに執着しているのだろうかと。

 数日前に見た吉瀬さんと、私は同年代。

 橘は、ずっと私を通して、吉瀬さんを見ていたのだろうか。

 吉瀬さんに再会してから変わっていった橘の態度を思い出し、心が軋むように痛む。

 上の空で、眉間に皺を寄せて……、わたしのことなんて見ていなかった。橘の心の中には、今でも吉瀬さんが居座っている。あまりの衝撃に、麻里奈ちゃんの言葉も耳を素通りしていく。

 ふふっ、また、わたし……、橘に騙されていたのか。

 ズキズキと痛む胸に、泣く気力すらない。


「……、冬野先輩! 冬野先輩! 聞いていますか!?」

「えっ……」


 麻里奈ちゃんの咎めるような声がやっと耳に届く。


「本当、冬野先輩ってムカつきますね!」

「えっ……、それはどういう意味?」


 傷心の身に麻里奈ちゃんの言葉が深く突き刺さる。なぜ、たった今、失恋した身に、さらなる仕打ちを受けねばならないのか。

 瞬発的に湧き上がった怒りに、麻里奈ちゃんの鋭い視線を真っ正面から受け止め睨み返す。


「どういう意味って……、あなたのその性格がムカつくって言っているんです。橘君と男女の関係じゃないなんて、よくそんな嘘、平気で言えますよね。一緒に暮らしているくせに!」

「なんで、知って……」

「本当、白々しい。えぇ、知っていますよ。これでも、ずっと昔から橘君が好きだったんです。彼とは高校が一緒で、その時からの片想いですけどね!」


 橘との出会いは、麻里奈ちゃんが彼氏に振られ屋上で一人泣いていた時だったという。たまたま屋上で出会った二人は、橘が麻里奈ちゃんを慰めているうちに意気投合するようになった。しかし、当時、橘には彼女がいた。それが、当時大学生だった吉瀬美沙江だった。高校生の麻里奈ちゃんは、年上の彼女から橘を奪う勇気もなく、告白すら出来ず卒業したそうだ。

 

「でも、運命って残酷なんですよね……。大学生になった私は思わぬ所で橘君と再会してしまったんです。大学生最後の思い出に、友達に誘われて行った『クラブ』で。あまりの変貌ぶりに衝撃を受けました。年上の彼女の事を幸せそうに惚気ていた初々しかった彼とは別人でした」


 両脇に肌も露わな美女を侍らせ、退廃的な雰囲気をまとっていた橘の姿が頭に浮かび、苦い想いが胸を締めつける。好きだった人の変わりように麻里奈ちゃんは大きな衝撃を受けたに違いない。そして、変わってしまった原因が、橘の元彼女、吉瀬美沙江だと麻里奈ちゃんは考えている。

 橘と吉瀬さんの間に何があったのだろうか?

 橘の心を絶望へと突き落とした何か……


 そんなこと、知って何になるって言うのよ。

 橘の心には、今でも吉瀬さんがいる。彼女が現れた今、私は捨てられる身でしかない。そんな私に何が出来るって言うのよ。


「だから、何だって言うの? 確かに、今私は橘君と同居しているわ。それは、お互いの利害が一致しただけ。そこに恋愛感情はない。彼が、元彼女とどうなろうが、私には関係ない」


 言葉を紡げば紡ぐほど、心はえぐられジクジクと痛む。ただ、橘の心に私がいないとわかった以上、追い縋ったところで、より自分が傷つくだけだ。

『好きだ』と叫ぶ心を無視して、話は終わりとばかりに、伝票をつかみ立ち上がった私の手がつかまれた。


「冬野先輩は、本当にそれでいいんですか? ずっと私、橘君を見て来ました。だから、わかります。彼の心に誰がいるかなんて。確かに、橘君の心には冬野先輩がいました。でも、今、あの女が現れて揺らいでいる。このまま、あの女に橘君を奪われてしまっていいんですか?」


 伝票を持った手が麻里奈ちゃんにキュっと握られ、身動きが取れない。このまま彼女の手を振り払って立ち去った方がいいと、頭の中で警鐘が鳴る。でも、彼女の言葉に足が動かない。


「吉瀬美沙江は、残酷な人です。清楚な仮面の下に残忍な顔を隠している。自分勝手で、橘君の気持ちなんて考えていない。きっと今回現れたのだって何か裏があるんです。そんな女に橘君を奪われてもいいんですか!?」


 麻里奈ちゃんの言葉を聞くな、耳を塞げと頭の中で叫ぶ声がする。どうすることも出来ず立ち尽くす私に焦れたのか、麻里奈ちゃんは立ち上がると伝票をひったくる。


「残念ですが、私じゃダメなんです。だから、どうかお願いです。橘君がこれ以上傷つかないように……、あの女から橘君を奪えるのは冬野先輩だけなんです」


 ガバッと頭を下げた麻里奈ちゃんが立ち去る。


「わたしに、どうしろって言うのよ……」


 ソファへと力なく落ち一人呟いた言葉は、店内の雑音にかき消された。

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