20
ピッ ピッ ピッ・・・
健一郎の生きている証が病室に響き渡る。
呼吸器に繋がるチューブを握りしめる指には汗がにじみ出し、まるで自分じゃないみたいに力が入っていた。
こんなに私を苦しめている男の命が無機質なチューブ一本に支えられ、今この手中にあると思うと可笑しい。
何もかもが急にばかばかしく感じられた。
「私、あなたが憎い」
黙って不倫して、黙って死にかけて。
言い合うことももうできない。なんで不倫なんかしたのって、怒らせてもくれない。
心から健一郎を愛していた。だからこそ憎くて悔しくて、気が狂いそうだった。
頬をつたう涙を拭う。
ずいぶんヒゲが伸びた寝顔を見つめ、私は決意した。
「健一郎……。あなたを利用させてもらう。悪く思わないでね」
すべての動きが後手に回っていた私。呑気だった。気づいた時には何もかも奪われたあとだった。
もう負けるわけにはいかない。
強くしたたかでいなければ、この戦いに勝つことはできないのだと分からされた。
(”Kちゃん”を見つけ出せないなら、向こうに来させればいいの)
迷いを断ち切るように、私はグッとチューブから腕を引き剥がした。
「貴女が私から奪った妻の立場を使わせてもらうわ」
すっと深く息を吸い込んだ。
「――――! 誰か! 来てください!」
思い切り大声を上げ、私はナースコールのボタンを押し込んだ。
「健一郎の目が開いたんです! 口も動いて、何かを話そうとしてるみたい!」
すぐに駆けつけた看護師に私は必死に訴えかけた。
「落ち着いてください。すぐに医師を呼ぶので、どのような状況だったか教えていただけますか?」
「本当なんです! すぐにまた眠ってしまったけど、確かに目が合って……! 目覚めるのも近いんじゃないでしょうか!? 奥様にも連絡してください!」
バタバタとスタッフが集まってくる病室。
「意識レベルが上っているのかもしれない。昇圧剤投与してみよう」
「はいっ!」
「ご家族にも連絡を」
ありもしない事実を話し終え、その言葉を確認した私は急いで病院を出た。
(はやく聡太を迎えに行かなきゃ!)
健一郎の顔を見ていたら衝動を抑えられなくなってしまった――。
ウエストブリッジで不倫相手の特定に失敗し、私が考えていた次の一手はこうだった。
”奥様”をおびき出すためには唯一の接点である健一郎を利用するしかない。予断を許さない状況の健一郎の目が醒めたとなれば、当然”奥様”にも連絡が行くだろう。
健一郎の病室にやってくるその女こそがKちゃん。私から夫と戸籍を奪った張本人。
(今夜親は……)
駅に急ぎながら実家に電話をかける。
繋がらない。二人で出かけているのだろうか。
(誰かに聡太を預かってもらわないと……!)
保育園のママ友の顔が浮かんでは消える。時刻は十八時過ぎ。病院に寄ったことでお迎えが遅くなってしまった。明日も平日のこの時間から預かってくれる当てはなかった。
(――のぞみさんは?)
専業主婦ののぞみならどうだろう?
申し訳なさを抱えながら私はのぞみにダイヤルした。
『はい亀久保です』
「高嶋です。急にごめんなさい」
『あっ、高嶋さん。ちょうどよかった。今度あったか亭さんに見学、行かせてもらいたいです。夫もお弁当屋さんなら向いてるんじゃないかって応援してくれて、倫也のシッターさんもいい方が見つかりそうなので。大丈夫でしょうか……?』
「もちろん! お昼どき以外はいつでも大丈夫だから都合のいいときに来てね。それでのぞみさん、急で本当に申し訳ないんだけどお願いがあって。今夜聡太を預かってもらえないかな」
『聡太くんを? 今から? うん、それは全然大丈夫だけど』
「わっ、助かる! 本当にありがとう! 今お迎えに行くところで、のぞみさんのところには十九時前には着くと思う。ごめんね急に」
『いいの。わたしは専業だし……、人から頼ってもらえることってほとんどないから、ちょっと嬉しいかも。つむぎもまた聡太君に会えて喜ぶと思います』
約束を取りつけた私は聡太をひろってのぞみのタワーマンションに送り届けた。
急なお願いだったのに、のぞみは特に事情を聞くこともなく快く引き受けてくれた。聡太は久しぶりに再会したつむぎちゃんと、見たこともない豪華なお家にはしゃいでいる。
「あの、もしよかったらですけど、明日の朝まで預かりましょうか? ゲスト用の部屋があるから、そこに泊まってもらって」
「ううん、ありがとう。遅くても二十二時くらいには戻れるはずだから、それまで見ててもらえると助かるんだけど――」
健一郎に面会できるのは二十一時までだ。
万が一それまでにKちゃんが現れなかったら、明日も待ちぶせる必要があるが――。
「……場合によっては明日もお願いさせてもらっても、大丈夫? ごめんなさいっ、予定があったら全然大丈夫だから」
「大丈夫ですよ。そ、そんなにかしこまらないでください」
「本当にありがとう。落ち着いたら事情を話すね」
助けてもらったのだ。のぞみにはきちんと事情を話さなければと心に決める。
腕時計を見ると十九時五分を指していた。早く病院に戻らないと。
「じゃあ、よろしくお願いします」
「いってらっしゃい」
マンション下でタクシーを捕まえて慌ただしく行先を告げる。
(……いよいよね)
間もなく訪れるKちゃんとの対峙を想像して、私は深く深呼吸をした。




