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「おはようございます。戻ってきたので、今日からまたお願いします」
「おかえり綾乃ちゃん。いい経験はできた?」
「おかげさまで聡太はずいぶん楽しかったみたいです。すっかり感化されちゃって、家の中でも英語交じりで話してて」
「さっすが総ちゃん! あたしなんてハローとグッバイしか分からないわ」
「私もです。なんというか、親は疲れましたけどね……」
二週間の体験入学を終えて聡太はもとの保育園に戻り、私もあったか亭に復帰した。
久しぶりの職場はやっぱり落ち着く。なにもかもが高級で光り輝いていた、歩くのも怖いウエストブリッジとは大違いで、自分のいる世界はこっちなのだと胸を撫でおろす。
「じゃ、揚げ場入りますね」
「お願い~」
フライヤーの油を取り替え、クロスで調理台を拭き上げて、食材の調理に取り掛かる。
業務用の冷蔵庫から昨夜和子さんが漬けておいてくれた鶏肉を取り出す。これは特選醤油にニンニクとショウガをブレンドしたあったか亭秘伝のタレ。箸が止まらなくなること間違いなしの味で、三十五年前の創業以来一番の人気商品だ。
片栗粉をまぶして揚げながら、並行してコロッケやアジフライの仕込みも進めていく。
手を動かしているとモヤモヤした気持ちも少しは晴れるような気がしていた。
(――結局、不倫相手は突き止められなかった)
イニシャルにKがつく保護者はすべてアリバイがあった。
最終的に、最初は除外していた同じ体験入学者の「日下部カトリーヌ」にも接触したが、彼女もシロだった。
有力な手掛かりを何も手に入れられないままここに戻ってきてしまったのだった。
(健一郎はまだ目が覚めないし……)
急性期は抜け出したそうなのだけれど、意識を取り戻せるかどうかは半々だと聞いている。
今となっては心底軽蔑している健一郎だけど死んでほしいとまでは思わない。むしろ目を覚まして真相をその口で話してほしいし、誠心誠意謝ってほしいというのが嘘のない気持ちだ。そうでもしないとこの件に区切りを付けられない。
昼のピークを乗り越えて、社割で手に入れた鮭弁当を片手に休憩室に入る。
19インチの小さなテレビには十四時のワイドショーが流れていた。
『今日の特集は”トー横キッズ”です。若者はなぜここにたどり着くのか。かれらが抱える問題に迫ります』
画面はモザイクをかけられた若者たちに切り替わる。短いスカートの女の子がホテルの前で立っている様子や、薬を大量に服用しているのか地面に横たわって動かない少年が映し出されていた。
彼女、彼たちの多くは家庭に問題を抱えているという。居場所を失った少年少女がSNSなどを通じてたどり着くのが新宿歌舞伎町の”トー横”なのだ。
若い子たちが悩みを抱えてどうしようもなくなっているニュースほど胸が痛むものはない。はっきり言ってトー横に明るい未来は存在しない。誰かもわからない他人と傷を舐め合うだけの、その日その日の日銭を手に入れるだけの不安定な場所。けれどもそういう場所が彼女たちの命を繋ぎ止めているという現実があって、必死に生きている子たちがいるのだ。
「そういえば、昔あったか亭でも炊き出しに行ったことがあったっけ……」
鮭を咀嚼しながらあれは何年前だったかと記憶を掘り起こす。まだアルバイトのときだったから、もう十年近く経つだろうか。
当時はまだ”トー横”という言葉は無かったけど、新宿歌舞伎町のあたりは居場所のない若者が集まっていて社会問題になっていた。あったか亭は社会福祉団体に協力する形で何回か炊き出しに参加していた。
「あの子たちは今どうしてるかな。幸せになれていたらいいな」
ホストクラブに行くために風俗店で働いていた女の子。パパ活で学費を稼いでいた女子高生。行く当てがなく暴力団に片足を突っ込みかけていた家出少年…。
温かい食事を渡すことでしか役に立てない自分が小さく思えたものだ。
けれども同時に、食べ物が持つ力というのもはっきりと実感した。お腹が満たされると眉間の皺が薄くなって、みんな穏やかな顔つきになる。「本当はもう風俗辞めたいんだ」なんて心の内を話してくれることもあった。
「――さて。午後も頑張ろう」
必要な人に温かいご飯を届けるのが私の仕事だ。しっかりしなければと気持ちに喝が入った。
健一郎の件については、実は次の一手を考えている。とりあえず今日、久しぶりに病院に顔を出そうと思っている。
空になった鮭弁当の容器を持って休憩室を出ると、店先から和子さんがひょいっと顔を覗かせた。
「あっ綾乃ちゃん。ちょうどよかった。お客さんよ」
「私ですか?」
「そうそう。すみません、ちょうど休憩が終わったのでちょっとお待ちくださいね」
誰だろう。もしかしてのぞみが見学に来たのだろうか?
急いでエプロンを付けて表に出ると、そこには意外な人物が待っていた。




