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「二月十四日は倫也の誕生日です。もちろんよく覚えてますけど、さっき言いましたっけ?」
のぞみは一重の目をぱちくりと瞬かせ、口元に手を当てた。
「あ、ああー……」
私はゆっくりと頭を抱えた。
そうだ。どうして気が付かなかったんだろう。
妊娠、育児。自分も経験してきたことなのに、すっかり忘れてしまっていた。
(だめだ。もっと冷静にならないと。最初に気づけたことじゃない)
確かにアプリ越しに見せてもらった倫也は生後半年くらいの大きさだった。
臨月前後の女性と肉体関係を持つのは無理だろう。いくら健一郎でも、そんな鬼畜なことは…。
(――ほんとうに?)
背筋に寒気を感じながら私は訊ねた。
「真冬だったと思うけど、順調にいきました? その、聡太も冬生まれなんですけど、寒いのが嫌だったのか四十週を越えちゃって、結局促進剤を使ったの」
「うちは逆でした。私の血圧が高くなりすぎちゃって、二か月ほど入院してから帝王切開になって。術後もしばらくは痛みで動くのも辛くって、その間は夫と母が代わる代わるつむぎの面倒を見てくれて助かりました」
「そう、帝王切開で……。大変でしたね。もう身体は大丈夫ですか?」
「ありがとうございます。おかげで今はもう平気です」
「よかった。第二子、いいなぁ。私も聡太にきょうだいがいたらいいなとは思うんだけど、ははは……」
――完全にのぞみはアリバイがある。
健一郎と不倫相手のやり取りのスクショでは、かれらは少なくともに週間に一回は密会しホテルへ行っているからだ。お腹の子供が、とか産後の痛みが、という話は一切出てきていない。
目の前の人間が不倫相手ではないと分かった途端、一気に疲れが押し寄せた。
(人を疑うって、こんなに疲れることだったのね)
大きく安堵のため息を付くと、のぞみは何か勘違いしたのかあたふたと立ち上がった。
「ごめんなさい、忙しいですよね。ろくにアドバイスできなくてすみません。よかったらこのメロン持ち帰ってください。ご家族で召し上がって」
「いや、そういうわけには! これだって最高級ってシールが……」
思わず大きな声を出すと、のぞみは自信を失ったように肩を落とした。
「……ごめんなさい。皆さんはこういうものを喜んでくださるのだけど、高嶋さんの好みではなかったかしら」
「ぶどうもメロンも大好きですが、今ごちそうになったぶんで充分です」
昔から付き合いのあるママ友でもないし、ウエストブリッジにいるのは体験入学の期間だけ。ほぼ初対面の人から数万円もするものをいただくのは、私の常識ではあり得ないことだ。
すでにシャインマスカットと紅茶とクッキーまで出してもらっている。私ははっきりと断ることにした。
「お気持ちはすごく嬉しいんですけど、こんなに気を遣っていただかなくて大丈夫ですよ。高価なものをいただいても私はお返しができないんです」
ただでさえ不安な顔をしていたのぞみは、今や泣きそうになっている。
「ごめんなさい高嶋さん。気を悪くしましたか?」
「いえ、そういうことではなくて」
「わたし、夫によく言われるんです。のぞみは世間知らずだなって」
俯いたのぞみはぎゅっとサロンエプロンを握りしめる。
「自分でもそう思うんです。短大を出て、就職しないで結婚をしたから。皆さんみたいにバリバリ働くどころかパートすら経験がありません。こんな自分が恥ずかしくて……かかわってくれる方にはせめてものと思って、こうやっておもてなしをさせてもらうんですけど。夫にはそういうのはあんまりよくないんじゃないかって言われても、他にどうやって関わっていけばいいか分からなくて」
「専業主婦だって立派なお仕事ですよ。二人もお子さんを育ててらっしゃるんだから」
「でも、他の皆さんは働きながら同じことをしてるじゃないですか!」
変なところでのぞみは頑固だった。働いた経験がないだけなのに卑屈になっている。
お金に困らないなら楽したいなあ、というのが私の本音なのに。
はるか別世界の生活を送るのぞみだけど、どうしてか彼女はすごく身近な人間に感じられた。
「――旦那さんは、のぞみさんが働くことに反対しているの?」
「そういうわけではないんですけど、わたしがどんくさいのはよく知っているので。あ、夫は幼馴染なんです。わたしが仕事で失敗して落ち込む顔が簡単に想像できるから、そんな思いをするくらいなら家で笑っていてほしいって……」
「素敵な旦那さんじゃないですか。のぞみさん、愛されてますね」
「そ、そうでしょうか……」
のぞみは頬を赤く染めて椅子に座り直す。我に返った恥ずかしさもあるようだった。
「働くことに興味があるなら、私の働いているお弁当屋でよかったらいつでも歓迎しますよ。ちょうど昼時のパートさんが一人いたらありがたいねっていう話になってるんです」
「い、いいんですか! わたし、きっといろいろ失敗しちゃうと思うんですけど……」
まさかというようにのぞみはパッと表情を変えた。
「基本的なお料理ができればすぐに覚えられますよ。のぞみさん、お料理得意そうですし、私より優秀になっちゃうかも」
スマホやアプリの操作は苦手そうなのぞみだが、ぶどうや紅茶の用意の手際はよく、キッチンにはさまざまな調理器具が手入れされて並んでいる。
仮にお手伝さんがいたとしても好きじゃないと揃えない充実っぷりで、ちょっとうらやましい。
「そんな。料理は好きですけど、得意ではないので」
「私も同じよ。ただお店は狭いし庶民的な雰囲気だから、のぞみさんに合うかはわからないんだけど」
「……じゃあ一度、体験入学に行かせてもらわないとですね」
のぞみの素朴な微笑みに、私も笑顔になる。
「七つ橋商店街の『あったか亭』。よろしくね」
「本当にありがとう、高嶋さん」
高級メロンは半分にして、お互いに得意な飾り切りを披露した。自分の分だけは持ち帰ることにして、ありがたく保存容器を借りて包んでもらう。
玄関まで送りに来てくれたのぞみの表情は柔らかい。最初の緊張でこわばった表情とはまったく違っていた。
「ママ友とこういうことをしたの初めてで、楽しかったです」
「私も。――あれ? でも、カレンさんと英恵ちゃんとは手作りのチョコレートを交換したんじゃなかった?」
「ああ……」
のぞみは言いにくそうに眉を下げた。
「カレンさんには言えないけれど、あれ、五越のチョコの箱を詰め替えて包み直してくださったみたい。夫が好きでいつも買い置きしているお店のものだったから、気がついちゃって」
「そ、そうなんだ」
「うん。……たぶん手づくりが失敗しちゃって、でもつむぎと約束しているから、気を使ってくれたのかなって思っているけど」
カレンが見せてくれたスマホの画像を思い出す。
五越の地下街、華やかなショップが並ぶ場所での自撮り、いくつも買った高級チョコのパッケージ写真、家で母子おそろいのエプロンに身を包んだ写真。
その次は綺麗にラッピングされたチョコの写真だった。
(……まあいいわ。私には関係ないもの)
お金持ちにはお金持ちのサバイバルがあるのだろう。
今日も謎の体調不良に見舞われて聡太の夕食に影響が出ることは避けなければならない。
聡太もメロンが大好きだ。素敵なお土産は、きっと喜んでくれるだろう。
「じゃあ、またね」
「ありがとう、高嶋さん」
長い長いエレベーターを下りて外に出る。じりじりとした日差しに負けないように空を見上げ、大きく息を吸い込んだ。
(高いところは空気が薄いわね)
鳴り響くセミの声にほっとしながら、私はしっかりと地に足をつけて聡太のお迎えに向かうのだった。
完結までの構想はできていますが、商業のお仕事の合間に書き進めております。
ブクマしてお付き合いいただけますと嬉しいです…!




