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二人目の亀久保のぞみについては、九条カレンが連絡先を知っていたので紹介してもらえることになっていた。
その日のうちにのぞみにメッセージを送り、翌週の月曜日に約束を取り付けることができた。
そしてやってきた月曜日。
私は駅前に堂々とそびえるタワーマンションの前にいた。数年前に建ったばかりの、間違いなくこのエリアで最高級の物件だ。
なぜそんなことを知っているかというと、このマンションを計画したのが健一郎の会社だから。部内で一番売ってやると、当時健一郎も意気込んでいたのを覚えている。
あのときはこうなることも知らずに、「がんばってね」なんて応援していたっけ……。でももう、健一郎の心のなかには別の人がいたんだろうか……。
(――やめやめ! もうあんな男に未練なんてないんだから。本当のことを知るために調べてるんでしょ!)
右手のスマホに目を落とす。
「亀久保のぞみの家は、最上階……」
ドキドキと嫌な音を立てる心臓をなだめるように胸を押さえる。すう、と一つ深呼吸をして、天井の高いエントランスに足を踏み入れた。
◇
のぞみが住む3001号室は最上階の角部屋だ。
二つもあるオートロックを通り、何台もあるエレベーターに乗り込んで一番上のボタンを押す。チャイムを押してしばらく待つとドアが開いた。
品のあるルームフレグランスの匂いとともに現れたのは、意外にも黒髪を一つに束ねた素朴な女性だった。カレンのような、派手な美人を想像していた私は少し拍子抜けする。
「あ……高嶋さん?」
「こんにちは、亀久保さん。忙しいところにごめんなさい」
「専業主婦なので、大丈夫ですよ。上がってください」
のぞみはふっくらとした顔に微笑みを浮かべ、スリッパを出してくれた。高級ブランドのロゴが入ったそれにおそるおそる足を差し込む。
(ううっ。床より何より私の靴下のほうが絶対汚いのに…!)
「わざわざ家まで来ていただいてすみません。乳児がいると、あんまり外に行く気がしなくて」
「いえいえ! そんなところに私こそすみません。今はお昼寝中ですか?」
「さっき寝かしつけたところなんです。アプリで寝室のカメラが見られるようになっていて」
のぞみがかざしたスマホには、大きなベビーベッドの中で丸くなる赤ちゃんが映っていた。
「わぁ、可愛い。聡太の小さいころを思い出すなぁ。お名前は何ていうんですか?」
「倫也っていうんです。ありがとうございます。――あっ、画面が消えちゃった」
変なところを触ってしまったようで画面が真っ暗になり、のぞみがあたふたとスマホを操作する。
「この再接続アイコンを押せばいいんじゃないです?」
「こ、これ? ……あっ、戻れました。ありがとうございます。すみません、機械が苦手で」
リビングはとてつもなく広々としていた。三面がガラス張りの大きな窓に囲まれて、モデルルームにあるような海外製を漂わせるダイニングセットが置かれている。その向こうにはちょっとしたキッズコーナーのような場所がつくられていた。
実家の縁側もほぼ窓と言っていい吹き抜けた空間だったが見える景色は雲泥の差。まさに別世界だった。
「クラウンメロンとシャインマスカットを用意したのですけど、お嫌いじゃないですか?」
「えっ! お気遣いなく!」
そこで私は大きな失態を犯していることに気がついた。
あまりに不倫の証拠を掴むことに気を取られ、手土産の一つも持ってきていなかったのだ。
(やっちゃった……。亀久保さんが不倫相手じゃなかったら、ほんとうに失礼なことしてる……)
これだから庶民は、と情けなくなってくる。
九条カレンと話した日も謎の体調不良に襲われてしまい、聡太に謝りつつ夕飯は出来合いのもので済ませたくらいだ。
「ごめんなさい亀久保さん。気が利かなくて、手土産を持ってこなかったの」
正直に謝ると、のぞみは驚いた顔をした。
「いいんです、いいんです。聡太くんのお母さんは働いてるんでしょう。忙しいんだから、全然気にしないでください」
「くだものを用意していただいたのに……」
「……これは夫のお金だから。本当に、気にしないで」
ガラス細工の高そうな皿に盛られたシャインマスカットはさながらエメラルドのようだった。
私だったら聡太が落っことすんじゃないかとヒヤヒヤして絶対に手が出ない品だ。
儀礼的に私は一粒つまみ、爆弾かのように口に含んだ。乾いていた口に甘い潤いが広がっていく。
「――とっても美味しいです」
「よかったです。外商さんお勧めのものを選んで正解だったわ」
「がいしょう、さん?」
「小さな子供がいるから、お店の方が家まで商品を持ってきてくれるの」
デリバリーやネットスーパーのようなものだろうか。
私も聡太が保育園に入る前までは生協の宅配をよく利用していた。こういうところに住む家庭でも、子育ての大変さだけは同じなのかもしれない。
「その、今日は……。あ、ウエストブリッジについて正直な意見を知りたいんでしたね……」
「はい。プレから通っている亀久保さんが一番在園が長いと聞いたので」
亀久保のぞみと接点が何もない状態だったので、今回は当たり障りなく『この学校、ぶっちゃけどうですか?』という話を聞きたいというテイで接触している。
のぞみはスマホに映る赤ちゃんの様子にちらりと目線をやったあと、うーんと考える。
「通わせていて気になることは、今のところないですね…。若い先生方が多いけど皆さん熱心です。英語もつむぎの場合、簡単なやり取りなら問題なく話せるようになっていますし」
「入ってみて感じましたけど、インターだけあって自由な校風ですよね」
「そうですね。アメリカ式だから、自主性を延ばすために子供や家庭の意見はかなり尊重されていると思います。保育園と違ってスクールを休んで旅行に行っても咎められないし、わたしみたいに仕事をしていなくても問題なく通わせられる。ただ、時折自由を履き違えている子供さん……家庭はたまにあるみたい。つむぎが何かされたわけじゃないけれど、先生が愚痴っていたのを聞いたことがあります」
「聡太は大丈夫ですか? つむぎちゃんに嫌なことをしていたりは……」
「あっ、全然! 面白い男の子が来たって喜んでいました。カトリーヌちゃんとも仲良くさせてもらっているみたいです」
のぞみは慌てて横に手を振った。
「ごめんなさい、飲み物をお出ししてませんでしたね。今ご用意しますから」
「いやっ、本当に大丈夫です! 水筒を持ってきてるので」
「いいのいいの。遠慮しないでください」
のぞみは再びキッチンに引っ込むと、高貴な香りが漂う紅茶を淹れて戻ってきた。ティーカップも芸術品のような模様がついている。
「どうぞ。お口に合うといいのですけど」
「あ、ありがとうございます……」
こんな大豪邸に住んでいる専業主婦なのに、こっちが申し訳なくなるくらい腰が低い。
ティーカップを傾けながらのぞみの表情をちらりと見る。
(とても不倫をするような人には見えないけど……)
でも見た目で判断してはいけない。おしどり夫婦で知られる芸能人の恋愛スキャンダルだってよく見かける話なのだから。
(問題は、どうやって話を持っていくかね)
会話をしてみた印象だとのぞみは大人しい性格のようだ。豊かな生活をひけらかす様子もなく、むしろ専業主婦だからと控えめな様子。ぽつぽつと雑談を交わしてみても特に盛り上がることはなく、一定の距離を感じた。私が黙るとのぞみも黙って所在なさげにスマホを触ったりしている。
カレンのときのように、相手の会話に乗っかる形で情報を聞き出すのは難しいように感じた。
(この際、はっきりと聞いてしまう…?)
高嶋健一郎を知っているか。あるいは、二月十四日は何をしていたのか。
どちらのほうが怪しまれずに取り繕えるか、私は頭の中で考えを巡らせる。
(名前を出すほうが警戒されてしまうかも。だったら日にちのほうがまだ誤魔化せる)
ごくり、と喉が鳴る。
「あの……。亀久保さん、二月十四日のことって覚えてますか」
その瞬間、のぞみの目が大きく見開かれる。
それはなぜ知っているのだという驚き。
私はとても嫌な予感がした。




