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「英恵ちゃん、バイオリンを習ってるって聡太から聞いたの。うちもそろそろ習い事をさせたほうがいいのかなって、話を聞かせてもらいたくて」
「なんだ、そんなこと。いいわよ。ここで話すのも何だから、よかったら近くのカフェに移動しない?」
「お仕事とかお家のことは大丈夫?」
「ええ。ちょうど今日は休みなの」
――うまくいった。
カレンはばっちり化粧をしてくる日とすっぴんにマスクの日とがある。
自分もそうであるように、予定がない日は身なりが適当になる。
時間に余裕がありそうな日を狙って適当な話題で話しかけ、情報を引き出す作戦だった。
駅前のカフェは通勤時間の客が落ち着いたこともあり、店内に人はまばらだった。
期間限定の高価なドリンクを手に戻ってきたカレンは改めて私をじっと眺めた。
「高嶋さんのほうこそ仕事は大丈夫だったの? リモートワーク?」
「体験入学の間は有給をもらっているの」
「ふぅん。このあたりの会社?」
「会社っていうほど大きくはないんだけど。七つ橋商店街のお弁当屋さん」
ウエストブリッジ生のお散歩経路にもなってるの、と言葉を継ごうとした瞬間、カレンの嬉しそうな声に遮られる。
「あらぁ、つまり、うちの顧客ってことね!」
顔の半分を隠すほどの大きなサングラス越しに、カレンの目が妖しく光った気がした。
「こ、顧客?」
「うちね、丸白ホールディングスなの」
「えっ、あの食品大手の?」
「そう。世界中に取引先があるけど、あなたみたいなお店にもいろいろ卸していると思うわ」
「すごいですね。もちろんすごくお世話になってます」
「主人は物流部所属なの。海外出張も多くて大変なんだけど、子供には質の良い経験をさせてあげたくて」
カレンは慌ただしくドリンクを一口飲むと、ネイルが輝く指を見せつけるように頬に手を当てた。
「バイオリンはいいわよ。今どきピアノじゃ感性は育たないと思うの」
「そ、そうなの……かな? でもピアノより月謝とか楽器の用意が大変そうね」
「普通よ、普通。そうねぇ……海苔弁当100個ぶんくらいはみておいたほうがいいとは思うけど、なんて! うふふふ」
「……あははは……」
「ウェストブリッジも、このくらいの環境は必要よねって主人と相談してね――」
思いのほかカレンが楽しそうに語ってくれるので、この方向で探りを入れていくことにする。
「主人さん、出張が多いんだ。その間はカレンさんが一人で航平くんをみているの?」
「え、ええそうよ。外注しても良いのだけれど、やっぱり子供のことは自分でやりたいと思っていて」
「すごいね」
「これぐらい普通よぉ。まあ、だから苦労性よねってよく言われちゃうんだけど」
「やっぱり長期休みとかイベントごとも大事にしているの?」
「もちろん。親として当たり前じゃない」
「さすがウエストブリッジね。じゃあ……たとえばだけど」
話が核心に迫るにつれて、胸の鼓動が大きくなっていく。
「このあいだのバレンタインはどんな風に過ごしていたの? 一緒にチョコレートを作ったり?」
――二月十四日。
それは健一郎と浮気相手”Kちゃん”が密会し関係を持っていたということが、メッセージのやり取りから明らかになっている日だった。
私には休日出勤だと言って昼から夜遅くまで帰らなかったのに、Kちゃんからはチョコレートを貰って「綾乃の地味で食べ飽きたチョコより一億倍美味い」と感謝のメッセージを送っていた。
分かりやすい日付だから、相手も記憶を思い出しやすいだろう。
「今年のバレンタイン?」
小首をかしげて思い出そうとしている様子のカレンを前にして、ごくりと喉が鳴る。
「……ああ、思い出した。娘がお友だちとチョコレートを交換するっていうから、銀座の五越に見に行ったの。でも良いものがなくて、結局材料だけ買って家で作ったのよね。夕方つむぎちゃんと彩葉ちゃんのマンションまで届けに行って、夜は家族でレストランに行ったわ」
「五越に……」
カレンの言葉の端々から住む世界の違いを感じていたが、子どものチョコ交換で百貨店の名前が出てくるとは……。
(入園式用のスーツだって量販店で買ったし……。そういえば百貨店なんてどれくらい行ってないっけ?)
思わず開いた口を閉じられずにいると、カレンはいっそう楽しそうに続ける。
「食品商社に勤めていると、どうしても見る目が厳しくなっちゃうのよねぇ。原産国とか、原材料とか気になっちゃうでしょう? 価格重視のお弁当屋さんだとそこまで余裕がないと思うけど」
「そ、そうね。うちはとにかく衛生的で美味しくって感じで……」
ふふんと鼻を鳴らすカレンに、せっかくだから写真はあるかと訊ねると、待ってましたと言わんばかりにスマホを掲げた。
「これがチョコレートで、うしろのほうにレストランの写真があるわ。一日一組限定のコース料理で、主人のために一年前から予約していたの。さすがミシュラン五つ星っていう味わいだったわね。あっ、動画もあるから見ていいわよ」
スマホを受け取り、画面をスワイプしながら写真を確認する。
(撮影日は確かに今年の二月十四日。昼過ぎから二十一時ごろまで継続的に写真が撮られていて、健一郎とまとまった時間を過ごすのは無理ね……)
九条カレンにはアリバイがある。
そう確信したが、念のためこの反応だけは見ておくことにした。
「ご主人、素敵な人で羨ましい。うちの夫とは大違いだもの」
真っ直ぐに彼女を見つめてそう言うと、カレンは今日一番気持ちが良さそうな表情を広げた。
「嫌だわ、大したことないのに。これからもうちの会社の商品をよろしくね」
カフェを出て、「家は駅前だから」と軽やかな調子のカレンとは反対方向に歩き出す。
一時間もいなかったのに、心はぐったりと疲れていた。




