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デイ・ウォーク  作者: たかや もとひこ
6/8

死の闘技場

               45

 フィールド直径百二十メートル強。床面積は一・六ヘクタールにもなる巨大な闘技場は、緊急解凍された二千二百人を越える男女戦士の喧騒と熱気を包み込んではち切れんばかりの興奮に支配されていた。彼らは氷河期後の世界を担う先兵として成人してすぐに保存液槽(プール)内で冷凍保存(プール)されていたのだが、ヴァンパイア危機(クライシス)の名の下に第一指導者(ヘル・シング)によって目覚めさせられた者たちだった。その彼ら観衆が詰め込まれたこの場所は過去に存在したそれとは根本的に違った血生臭い用途に改造されていた。

 ここに集う者は等しくフィールドの壁際に沿って立ち、闘う者の目線で闘技をより身近に楽しむことができた。優雅にショーを見物する客席というものが排除されているのだ。その特殊な造りは時にお調子者たちの飛び入り参加を容易にする。ただ飛び入りの(ほとん)どは、その命をもって観衆の破壊と流血の渇望(かつぼう)をより一層満足させることになる。またこの闘技場の壁面の高い位置には鏡面処理を施された一辺五メートル四方のモニターが円周上に埋め込まれ、遠い辺塞(へんさい)群にもショーの様子が届けられていた。だが今は電源が落とされており、画面はそこに映りこんだフィールドと観衆の姿を迷宮のように幾重にも写し込んでいた。

 突如、壁面の合い間に設置されている張り出しから銅鑼(どら)が一斉に打ち鳴らされた。訪れた束の間の静寂。東西南北に設けられた四つの大扉のうち、西側のそれが(きし)んだ音を立てて左右にゆっくりと開かれた。そして奥の暗がりから三人の罪人が引き出されると闘技場内は再び興奮の坩堝(るつぼ)と化した。喧騒の中、天窓の明かり取りから差し込む太陽光では足らないとばかりに闘技場の発光パネルが光度を上げ、フィールド全体を徐々に明るく照らしだしはじめた。続いて巨大なモニター群が戦士たちの顔を大映しにしてみせた。モニターには所どころ鏡面のままのものもあったが、全モニターの四分の三にもわたって映し出された多くの顔は、どれも遠く点在する小規模な辺塞指導者のもので、闘技場に集った戦士たちに劣らず、試合とは名ばかりの公開処刑を残忍な笑みを浮かべて心待ちにしていた。

 闘技場が明かりに満たされると、また銅鑼(どら)が打ち鳴らされた。それを合図に手鎖を(ほどこ)されたナナクサ、ファニュ、クインの三人は十二人からなる門衛の一団に引き立てられ、爆発寸前にまで高まった闘技場内の敵意と期待と興奮を刺激しながら、見世物として外周にいる戦士たちの前を引き回された。戦士たちの目前を歩かされる間、ファニュは内面の怒りをその両目にたぎらせながらも無表情を貫き、自分に何が起こるか予測のついているクインは(あきら)めの表情を隠そうともしなかった。そしてナナクサは苦しそうに咳き込み、四肢の所々にできた火膨(ひぶく)れを(かば)いながら歩みを進めていた。なぜナナクサがそんな状態になったのかファニュには皆目わからなかった。闘技場に引き出される少し前、突如ナナクサは悲鳴を上げてフィールドに続く暗い廊下を転げまわり、門衛に引き立てられた時には透き通るように(つや)やかだった肌は熱傷を負った状態になっていたのだ。ファニュにとって、これはまったく理解しがたい出来事だったが、当のナナクサ自身の当惑した表情もファニュに向かって自分も同じ思いであると告げていた。

 罪人のお披露目(ひろめ)が一通り終わると、三人はフィールドの中心に引き()えられて慎重に手鎖が外された。場内の興奮は臨界に達しようとしていた。それを察したかのように銅鑼(どら)がうち鳴らされ、いよいよ第一指導者(ヘル・シング)がその威容を三人の前に現した。他の戦士よりひときわ大きく、自信に(あふ)れた顔に大きな刃物傷を負った男。罪人が引き出されたのとは反対側の東の大扉からフィールドに入場した彼は自分の役割を十分に心得ており、またその役割を大いに楽しんでもいた。彼はゆったりと罪人たちに近づいていった。その一歩ごとに観衆は息を呑み、次の一挙手一投足を静かに見守った。やがて罪人たちの五メートルほど手前で立ち止まった彼は、両手を広げて大袈裟にぐるりと観衆を見渡すと自分に向けられた畏怖(いふ)と期待の大きさに最高の満足を覚えた。第一指導者(ヘル・シング)の顔に凄味のある笑みが広がった。

「今からヴァンパイアの処刑を()り行う!」第一指導者(ヘル・シング)の響き渡る声に割れんばかりの歓声が降り注いだ。彼は聴衆が静まるのを辛抱強く待ってから言葉を()いだ。「しかし我れらは誇り高き戦士だ。よって、この(とりで)に闘いを挑んできた勇気に免じて時貸し(タイムトライアル)を行う。時間いっぱい生き残れたら、我れら人間の寛大(かんだい)さを示してやろうではないか!」

 不平の大合唱が渦巻く中、彼は人の大きさはあろうかという砂時計を二人の戦士に運ばせると、手にしていた三本角の奇妙な兜を深々と頭に被り、「人造強兵(ホムンクルス)!」と広大な空間に響き渡るほど大声を張りあげた。その宣言とも命令とも取れる声に大きな歓声が(かぶ)さった。すると北の大扉が内側から勢いよく(はじ)き開けられ、その左右にいた数名の戦士があっという間に巻き()えになって()ぎ倒された。悲鳴と怒号が加わった歓声の三重奏を背景に、開かれた大扉から巨大な異形が姿を現した。

 かつては(びん)の中の小人を意味したホムンクルスという名を持ったこの異形は、まさに人間離れした怪物。見ようによっては戯画(ぎが)化された神話上のケンタウロス。いや究極の力を求めた末に辿(たど)り着いた人間の醜い内面そのものだった。人造強兵(ホムンクルス)の体長は、その皮肉な名とは裏腹に六メートルはあり、体高も三メートルを優に超えていた。そしてマウンテンゴリラのように引き締まった巨体には体毛が一切なく、肌色をした分厚い皮膚の下には太い筋肉繊維(せんい)の束が所狭しと詰め込まれていた。特にその巨体を支える二本の太い脚は力強く、鋭い爪のついた左右二本ずつの四本腕のうち、下側の二本を補助脚として、合計四本の四肢を使ってどんな場所でも猛スピードで走り回ることができた。また筋肉で盛り上がった両肩に埋まるように乗った頭は犬歯だけで構成された凶暴な口蓋(こうがい)を持ち、頭を巡らさなくても三百六十度すべてが見渡せるように頭蓋に沿って四つの目玉が鉢巻(はちまき)状に配置されていた。

 巨獣に挑む三人の若者。

 ショーという名の悪趣味な出来レースは今にも始まろうとしていた。

「ファニュ、大丈夫?」

「えぇ、たぶん」

 ファニュは(こた)えながら、ナナクサのしわがれた声からヴァンパイアの治癒(ちゆ)力をもってしても完全回復にはまだ時間がかかるに違いないと思った。

「なにが『たぶん』だ、この疫病神の小娘が」

 内心の恐怖を少しでも(ぬぐ)おうとクインがファニュに毒づいた。

「無駄口をたたけるのなら、あなたも大丈夫ね」ナナクサが割って入った。「少し聞きたいことがあります」

「なんだ?」とクイン。

「あそこにいる」ナナクサは人造強兵(ホムンクルス)に視線を転じた。「大きくて恐ろしそうなのは、いったい何ですか?」

 ナナクサは巨大なカマキリと(いびつ)なケンタウロスの中間のような生物から、ひと時も目を離さずに答えを求めた。

「特別な人工子宮(ホーリー・カプセル)で造られた人造強兵(ホムンクルス)っていう究極の戦士だ。檻に入れられてる姿しか見たことはないが半端なく凶暴だった」

「それだけ?」

「『それだけ』ってどういうこった? 三十人や四十人の戦士が束になっても(かな)いっこねぇほどヤバいのは見ればわかんだろ」

「他に情報は?」

「ねぇよ」

「本当に?」

「はぁ?」クインは顔を(ゆが)めた。

「わかりました」

「なんだぁ。この期に及んで喧嘩売ってんのか、このアマぁ」

「ありがとう、充分です」素っ気なく礼を言うと、次にナナクサは少女を見た。「私を信じてくれる、ファニュ?」

「もちろんよ」ファニュは即答した。

「じゃぁ、私の言うとおりに動くのよ。わたしがアレと闘うわ」

「馬鹿なこと言わないで。その身体じゃ」

「わかってる。時間がないのよ」ナナクサは人造強兵(ホムンクルス)を見た。

「おい。ほんとにアレと闘おうってのか? 時貸し(タイムトライアル)だって聞いたろ。もし分かんなきゃ、教えてやる。人造強兵(ホムンクルス)から逃げ回れば放免されるんだ。たったの三十分間だ……って言っでも、そんなこたぁ無理に決まってるがな」

「えぇ、三人とも逃げ切れるとは思わない」クインの言葉に(こた)えたナナクサの声は冷ややかだった。「それに、もし時間いっぱい逃げ切れたとしても、あの指導者が約束を守るとは思えない」

「そんな馬鹿なことがあるかよ!」

「いいえ。運よく誰か生き残れても、ここにいる戦士たちが黙ってないんじゃない?」

 クインは不安そうにフィールドをびっしり取り巻く戦士たちに視線を巡らせた。

「だから、アレと闘うしかないのね?」ファニュは納得したように(つぶや)いた。

「それしかないわ。アレを(たお)せば戦士だって驚いて隙もできるはず。それに賭ける」

「無理だ。相手は人造強兵(ホムンクルス)だぞ。無理だ、きっと死んじまう」

「なら死になさい」

 事もなげに死ねと相手を突き放した言動に最も驚いたのはクインやファニュではなく、それを言った当のナナクサ本人だった。始祖(ごせんぞ)との出会いがそうさせたのか、人間からの度重なる抑圧によってそうなったのかは定かではなかった。しかし、ここにきて彼女の内面は確実に変化していた。もちろん楽しむために殺すのではない。自らを守るために仕方なく相手を(たお)すのだ。仲間のために闘うのだ。それは充分すぎるほどわかっていた。でも敵に対峙する理由は本当にそれだけなのか……()き上がる理不尽(りふじん)な運命への怒り……強大な他者を征服してみたいという好奇心……それとも力への単純な憧れ……いえ、どれも絶対に違う。今は考えてる場合じゃない。それに一度、力を人間たちに認めさせれば、今後はヴァンパイアが無闇に襲われることもなくなるかもしれない。望みはそれだ。ナナクサは雑念を振り払うとファニュとクインに二言三言、小声で指示を与え、敵が動く前に素早く行動を起こした。()えきっていないとはいえ、ヴァンパイアの血はナナクサが決意を固めた瞬間に狩人(かりゅうど)の本能を目覚めさせ、その身体全体を臨戦モードに切り替えていた。


               *

 ナナクサはファニュとクインに西の大扉へ向けて全力疾走させ、自身は北の大扉前の人造強兵(ホムンクルス)に向けて駆けだした。

 大歓声が闘技場を震わせた。

 自分の合図で三人が(なぶ)り殺されるものと高を(たか)っていた第一指導者(ヘル・シング)は、不意を突いた罪人たちの動きに腹を立て、人造強兵(ホムンクルス)に即座に戦闘開始の指令を与えた。異形への指令は彼の銅鑼声で発せられたように見えるが、実際は三本角の兜の中の回路を通じて、増幅された彼の脳波が人造強兵(ホムンクルス)の脳に伝わり、その強大な破壊本能を解き放つようにできていたのだ。

 闘う自由を与えられた巨獣はフィールドの空気をビリビリ振るわす雄叫びを上げると、自分に走り寄ってきたナナクサを仕留めようと巨腕を横殴りに()り出した。しかしナナクサは頭を下げて紙一重でその一撃をすり抜けると敵の懐深(ふところふか)くに滑り込み、敵の強靭(きょうじん)で短い両脚の間から素早く背後に躍りでた。そして脇目も振らずにフィールドを時計回りに駆け抜けた。彼女は巨獣の両脚の間に滑り込んだとき、鋭く伸ばした右手の爪で無防備な腹と内太腿を力一杯に切り裂いてやったので腹を立てた相手が追ってくるのを微塵も疑わなかった。ナナクサが考えた通り、人造強兵(ホムンクルス)はその巨体からは想像もできないほど機敏に方向を変えると、怒り狂って彼女を追いはじめた。ナナクサは()き上がる焦りを感じていた。彼女の第一撃は相手に致命傷を与えられないにせよ、少しでも傷つけ、(ひる)ませることができればと考えてのことだったが、その攻撃は分厚い皮膚の下の筋肉をほんの少し引っ()いたにすぎなかったからだ。彼女は自分の右手の爪が全て折れた感触でそれを悟ったのだ。

 ナナクサは走りながら(くび)をすくめたり、細かなステップを踏んで真後ろまで迫った巨腕の攻撃を避け続けた。巨腕がかすめて一度ならずも身体が横に流れることもあったが、彼女はすばしこいサッカー選手のように敵を翻弄(ほんろう)した。そして南の大扉前の戦士たちが危険を察知する前に、その目前でヴァンパイアの跳躍力を見せた。大扉前にいた戦士たちは、ナナクサのすぐ後ろからダンプカー並みの質量が自分たちめがけて突進してくるのに気づいたときは既に手遅れだった。数名の戦士が闘技場の壁と人造強兵(ホムンクルス)の巨体に挟まれ、大きな風船が(はじ)けるような鈍い音を立てて即死した。身体を石造りの壁から引き()がした巨獣は、一声()えると見失った標的を捜し求めた。標的は巨大な顔を映しだす鏡面モニターの上方に()えつけられた碁盤(ごばん)状の発光パネルの間に左手だけを引っ掛けてフィールドを見下ろしていた。巨獣はその巨体を何度も跳躍させて上方にぶら下がるナナクサを捕らえようともがいたが、重すぎる身体ではどうすることもできないので、お預けを喰らった犬のように唸り声を上げながらイライラとその場を回り続けた。

「戻れ、この馬鹿者!」

 その醜態(しゅうたい)を見た第一指導者(ヘル・シング)の叫びは怒りとなって人造強兵(ホムンクルス)の脳を打った。脳波で繋がった巨獣は犬笛で呼び戻されたように、すぐさま主人に向けて走り出した。そして兜を被った彼の真横を轟然と駆け抜けると、今度は別の目標を追い始めた。ファニュとクインは自分たちに迫る脅威に一瞬、目を走らせたが、壁際にいる観衆に(まぎ)れ込もうと、敵意が薄そうな場所をまだ探し回っている最中だった。二人はナナクサの指示通り、戦士たちを巨獣との闘いに巻き込むことで混戦状態を作り出し、そこに活路を見出そうとしたのだ。

 彼らの意図を察した第一指導者(ヘル・シング)が、「ハードル!」と叫んだ。再び歓声が上がり、戦士たちの前に幅五メートルにわたる様々な直径、様々な高さを持つ強化セラミックの円柱が無数に床からせり上がってきた。ファニュとクインの前に立ち(ふさ)がった灰色の石の林。二人にとって自由に動ける面積は格段に狭くなった。

「どうする、小娘?!」

「わかんないよ!」

 フィールドの分厚い床から伝わる振動が徐々に大きくなってくる。結局、二人は本能に従った。障害物の中なら多少は時間が稼げる。ただ闇雲に戦士たちを巻き込んで混戦に持ち込むよりも、こちらの方がまだ人造強兵(ホムンクルス)から逃げ切れる可能性が少しは高い。二人が円柱の林に飛び込む瞬間、巨大な影が覆い被さった。思わず後ろを振り仰いだ二人の瞳に牙を()いた巨体が映った。とっさにその場に伏せた彼らの真上を巨獣の身体が飛んだ。着地の衝撃音とともに数本の細い円柱が根元から折れ崩れた。()ぎ倒された円柱の中で咆哮(ほうこう)をあげてのたうつ巨獣の姿が見える。攻撃をなんとか逃げのびた二人は飛び起きると、今度はなるべく太くて長い強化セラミックが密集する所を探して素早くそこに分け入った。

「運がよかった!」

「運だけじゃないよ」

 ヴァンパイアの仲間たちと修羅場を潜り抜けた経験を持つファニュは、自然と身についた鋭い観察眼で敵の小さな後頭部に(やり)が突き刺さっているのを確認した。それは人造強兵(ホムンクルス)の巨体からすると爪楊枝(つまようじ)のように小さく細いものに見えたが、四つある目のうちの一つ、後頭部に位置するそれを確実に射抜いていた。先ほど巨獣の激突で絶命した戦士たちの武器を使ったナナクサのみごとな遠投がもたらした結果だった。彼女は巨獣がファニュとクインを目標にしたのを見るや(いな)やフィールドに飛び降り、死んだ戦士の一人から回収した二本の(やり)と刀を左脇に抱えると、周りがそれと気づく前に駆け出していた。そして十メートルを超える跳躍の頂点で狙い澄ました一撃を放ったのだ。

 傷ついた人造強兵(ホムンクルス)第一指導者(ヘル・シング)の脳波コントロールを外れた。そうさせたのは戦闘のみに特化された生物独特の本能的だった。巨獣は二投目の(やり)(はじ)き落とすと、強化セラミックの林に逃げ込んだ獲物には目もくれず、ナナクサに()えたてた。ナナクサはナナクサで次の目標に斬撃(ざんげき)を見舞っていた。巨獣に気を取られている第一指導者(ヘル・シング)だ。だが彼は戦士の中の戦士だった。自分に走り寄ったナナクサの攻撃を敏感に察知した彼はそれを難なく受け流し、素早く剣を抜くと膂力(りょりょく)に任せて横に()ぎ払って襲撃者の左腕を深く()り裂いたのだ。傷を負ったナナクサは第一指導者(ヘル・シング)をやり過ごすと再び東へ向けて駆け出した。それを追って巨獣の再突撃が始まった。東の大扉まで走ったナナクサは一番高い円柱の小さな天辺(てっぺん)に飛び乗ると、それを踏み台にして再び跳躍すると頭上から巨獣を攻撃しようとした。だが彼女の攻撃は思わぬ敵に(はば)まれた。天井の明り取りから差し込んだ陽光が、彼女の肢体(からだ)を焼いたのだ。吹き上がった炎と激痛はすぐに消えたが、バランスを崩したナナクサはそのまま七メートルを落下して床に叩きつけられた。唯一、幸いだったのは彼女の身体から噴き出した炎に目を奪われた巨獣が、一瞬とはいえ戦意を喪失したことだった。

「こっちだ。こっちに来てみろ!」

 その時、ファニュの叫びがフィールドの(はる)か反対方向に響いた。彼女はセラミックの林から抜け出ると、届かないことは承知で拾い上げた強化セラミックの破片を投げつけ、人造強兵(ホムンクルス)を挑発した。我れに返った巨獣はファニュに威嚇(いかく)咆哮(ほうこう)を上げたが、すぐに外野を無視して倒れた獲物に止めを刺すべく下を向いた。だが、そこには何もなかった。巨獣が怒りの咆哮(ほうこう)を上げた。それと同時に闘技場内にも罵声と歓声が戻った。ナナクサが墜落の衝撃に耐えながら石の林へ足を引きずりながらも移動していたからだ。しかしホムンクルスはすぐに追いつき、彼女を(なぶ)るようにその巨腕を縦横無尽(じゅうおうむじん)に振るいはじめた。二度三度と空を切っていた巨腕が遂に獲物を(とら)えた。

 鈍く重い音がした。

 すくい上げるように放たれた一撃が炸裂して、ナナクサの身体を二十メートルほどファニュたちがいる方向へ(はじ)き飛ばした。どっと歓声が()きあがる中、ファニュの背中を冷たい汗が伝った。

()られちまったぞ」と、クインが(うめ)いた。

「ナナクサー!」

 倒れたナナクサの頭がわずかに動いた。人造強兵(ホムンクルス)は勝利の雄叫びをあげると悠々と獲物に近づいていった。

「くそッ、くそッ、くそッ!」

 クインは突如、強化セラミックの破片を拾い上げると石の林の外に走り出て、ファニュがしたのと同じように巨獣を挑発し始めた。

「こっちに来てみやがれ、デカぶつ野郎!」

 破片が無くなると、また駆け戻って破片を(つか)んで届かないながらも投げつけ続けた。

「おい。まだ生きてんなら闘えよ、このヴァンパイア女!」クインは遠くの砂時計を指差した。

「おい、小娘。お前ももっと時間稼ぎぐらいしたらどうなんだ。でないと、次は俺たちが殺られちまうんだぞ!」

 クインの声にファニュも破片に飛びついた。

「この出来損(できそこ)ない。あんたの相手はこっちだよ!」

 人造強兵(ホムンクルス)はそんな二人には目もくれずにナナクサに迫ると虫を潰すように大きく振りかぶった巨大な(てのひら)を彼女に叩きつけた。衝撃でふーるどの床全体が振動して小さな破片が幾つも跳ね飛んだ。しかし跳ね飛んだ中にはナナクサが一閃(いっせん)した刀で切り落した四本の巨獣の指も混じっていた。ナナクサは斬撃(ざんげき)で折れた刀を支えに立ち上がると、痛みに(たけ)り立つ巨獣を尻目にファニュとクインの待つ林に向かって走りだした。敵の指と引き換えに左(ひじ)から先を失ったナナクサは、その痛みを無視して大声でファニュに指示を出したが鳴り止まない歓声にかき消された。それでもナナクサは伝わることを信じて右手に持った折れた刀でゼスチャーを交えて仲間に叫び続けた。

 セラミックの林の外ではナナクサの意図を察したファニュがクインを(うなが)して林の中に駆け戻った。そして仲間の意図した準備に取り掛かった。二人の動きを確認したナナクサはゴールまでの最後の十数メートルを駆け終わって合流を果たすと、言葉を掛けることなく、決意を秘めた視線で二人に(うなず)きかけた。ファニュも無くなったナナクサの左(ひじ)をちらりと見ただけで口を開かなかった。巨獣が痛みと怒りの咆哮(ほうこう)を発した。

「私はここよ!」ナナクサは第一指導者(ヘル・シング)(にら)()えた。「さぁ、そいつに命令なさい。ヴァンパイアを倒せと!」

 ナナクサの宣言を耳にした観衆から罵声の輪が広がった。ナナクサは戦士たちを(にら)みつけると再び口を開いた。

「でも私が怖いのなら、すぐに解放なさい。そうすれば、これまでの蛮行も許してあげるわ!」

 第一指導者(ヘル・シング)の怒りの歯ぎしりがナナクサにも聞こえてきそうだった。もし何らかの意図が隠されていたとしても、ヴァンパイアからの挑戦を無視する姿を戦士たちに見せるわけにはいかいかない。

人造強兵(ホムンクルス)!」

 怒りの脳波を受けた巨獣が向かってくる(はる)か後方から、第一指導者(ヘル・シング)も剣を振りかざして突進してきた。

 ナナクサは刀を手放した。次いで右肩にズシリとした重みを感じた。彼女は満身創痍(まんしんそうい)の状態でその場に立ち尽くして敵を待ち受けた。ついさっき指を切り落された巨獣は巨腕を振るうことで同じ間違いを(おか)す危険を本能的に回避するはずだ。そうなると武器はスピードの乗った巨体の体当たりだろう。ナナクサは内面から()きあがる研ぎ澄まされた狩人(かりゅうど)の感覚を信じた。

 人造強兵(ホムンクルス)が目前に迫ったときナナクサは勝負に出た。彼女は瞬時に片膝立ちに身を沈めると同時に右肩に担いだ折れた強化セラミックの柱を右手で一気に引き起こしたのだ。もちろんナナクサ自身も敵が衝突した衝撃で林の中に(はじ)き飛ばされたが、彼女がさし上げた強化セラミック柱はホムンクルスの強靭(きょうじん)な皮膚と筋肉を突き破り、胸から背中にかけて直径十センチの大穴を穿(うが)った。巨獣は赤く染まったセラミックの柱を身体に生やしたまま、横ざまにどっと倒れた。倒れた敵は獲物を追うことも忘れて三本の腕で刺さった柱を(つか)んで引く抜こうと必死にもがいた。一番最初に動いたのはファニュだった。彼女はナナクサが手放した折れた刀を拾い上げると巨獣に向かった。クインも手頃な大きさの強化セラミックの破片を両手で(つか)むとファニュに(なら)った。巨獣は自分めがけて大きな破片を振り下ろそうとする敵を威嚇(いかく)するように二本の巨腕を振り回した。しかし(やり)で潰された目の死角から迫ったファニュに首の付け根にあたる後頭部を深く刺し貫かれた。敵は悲鳴にも似た咆哮(ほうこう)を発して巨腕を振り回して(あらが)ったが、ファニュは刀の柄に渾身(こんしん)の力を入れて、急所の脳幹(のうかん)を二度三度と(えぐ)って巨獣を沈黙させた。

 大きく息をついたファニュが刀を引き抜いて顔を上げるとクインと目が合った。しかし彼の目は安心とは程遠いほど大きく見開かれて、彼女の後ろを凍りついたように凝視していた。ファニュが身構えるのと強化セラミックが人体にぶつかる鈍い音がしたのはほぼ同時だった。振り向くと剣を取り落として手首をおさえる第一指導者(ヘル・シング)の姿が目に飛び込んだ。ファニュは人造強兵(ホムンクルス)の後から彼が迫っていたことをやっと思い出した。

 第一指導者(ヘル・シング)が取り落とした剣を慌てて拾い上げ、その喉元に素早く突き付けたクインの姿に巨大な円形闘技場は水を打ったように静まり返った。

「さぁ、あなたの負けよ」

 人造強兵(ホムンクルス)の死体の向こうに(たたず)むナナクサの毅然(きぜん)とした声だった。彼女は第一指導者(ヘル・シング)の手の甲に投げつけたものと、さほど変わらない大きさの第二の破片を右手に握っていた。

「私たちを今すぐ解放なさい、さもないと」

 クインが持つ剣の切っ先が第一指導者(ヘル・シング)の喉の皮膚を破り、血が一筋流れた。

「さぁ、早くなさい」


               *

 形勢が三人に(かたむ)いたと、そこにいる誰もが感じた直後にそれは起こった。

 フィールドにある北と東の大扉が突然開き、それぞれから新たな人造強兵(ホムンクルス)が現れた。その光景に誰もが息をのんだ。第一指導者(ヘル・シング)はその隙を逃さず、喉元の剣を払い除けると第二の剣を腰のベルトから引き抜いた。しかし彼の獲物たちの反応も早かった。彼らは第一指導者(ヘル・シング)が自分たちの(くびき)から逃れた途端、逆撃を予想してすぐさま彼から飛び離れて間合いをとった。

人造強兵(ホムンクルス)どもよ。ヴァンパイアどもを滅ぼせ!」

 第一指導者(ヘル・シング)の叫びを再び大きな歓声が包み込んだ、だが彼は怒りを隠そうともせず、その視線を張り出しの一つに向けた。思った通り、そこには冷ややかな眼差しをたたえたレン補佐長の姿があった。彼は自分が窮地(きゅうち)を救われた事実より、部下の差し出がましさに強い怒りを覚える人物だった。しかし当の補佐長は彼がそう思うであろうことは百も承知であった。そして出過ぎた真似の処遇は無残な死しかありえないことも十分に看破(かんぱ)していた。それゆえに、すべての人造兵器をこの機会に()えて解き放ったのだ。それを造った第一指導者(ヘル・シング)ごと処分するために。

 本来、人造強兵(ホムンクルス)第一指導者(ヘル・シング)でない者が使うのは何人といえど禁忌(タブー)であったし、今までも決してなかったことだ。だがレン補佐長にその禁忌(タブー)を破らせたのは、自分の仕える第一指導者(ヘル・シング)が話に聞く歴代の指導者(ヘル・シング)たちと違って人類最大の英雄を夢見た矯正(きょうせい)不能な誇大妄想狂(こだいもうそうきょう)だったからに他ならない。彼は一世代に一体しか許されない人造強兵(ホムンクルス)を四体も製造し、あまつさえ緊急事態になる(はる)か以前に人工子宮(ホーリー・カプセル)から出して飼育していたのだ。子宮から出された人造強兵(ホムンクルス)は日増しにその力が強くなり、自我も形成されていくために制御が難くなる。下手をするとヴァンパイア以上に厄介な存在であり、城塞都市(カム・アー)が大被害を受ける可能性もあったのだ。それに肥大化した(おのれ)の承認欲求を満たすため、残ったすべての戦士を緊急解凍した件もある。だがヴァンパイアの侵攻を受けた今はそれも僥倖(ぎょうこう)というものだろう。

「どちらが残っても問題はあるまい。まぁ、共倒れてくれるのが一番だが……さて、念には念を入れておくとしようか」

 獲物に突進してゆく人造強兵(ホムンクルス)たちの姿を確認したレン補佐長は最後までショーを見届けることなく退席すると、自分の計画を続行すべく、闘技場を後にすると屋内螺旋(らせん)廊下を階上へと進んでいった。


               46

 タンゴはチョウヨウを抱きかかえたまま屋上から乱戦状態の地上に、ひと飛びで着地した。それはヴァンパイアの力をもってしても考えられない離れ業だった。しかしチョウヨウを助けたい一心の彼には自身の身体能力の変化を異常なことだと考える余裕すらなかった。

「待ってなよ、すぐ楽にしてあげるから」

「あんた変だよ」チョウヨウはタンゴの腕の中で(うめ)いた。

「喋っちゃいけない」

「いいや、変だよ。いつものあんたじゃない」

「そんなことないよ。君は大怪我をして混乱してるんだ。さぁ、もう僕に任せて」

「駄目。あんたは気付いてないんだ」

 さすがのタンゴも怪訝(けげん)そうに眉を寄せた。

「なにに気付いてないんだい?」

「変わったってことよ」

「僕が変わったって?」

「そう」チョウヨウは痛みに顔をしかめた。「さっきの、あたいみたいに」

「そんなことないよ」 

 チョウヨウはタンゴの分厚い胸を(つか)んだ。

「よく聞いてよ。あたいが言いたいのは、あんたは自分から進んで人間を(あや)めようなんて口にすらしない男だったってことだよ」

「僕は君を助けたい。必死なだけだ」

「それでも、あんたは筋の通らないことは決してしない男だ。あたいは知ってる。あんた自身もそれを知ってる」

「変わったって言うのか?」

 チョウヨウは(うなず)いた。

「でも、あんたが、そう仕向けられてんなら……」

「誰に?」

「あたいに()りついてた奴さ。もしそうなってんなら、また元の自分に戻ろうよ。今なら間に合う。だから……」

「違う。これは自分の意思だ」

「何度も言ってるじゃないか。あたいは、そうは思わない」

「僕は君が死ぬのが耐えられない!」

「でも、あたいはイヤ。さっきみたいに自分を失うんなら、このまま死ぬ方がいい。あんたが変わっちまうのを見るのだって絶対に嫌だ」チョウヨウはタンゴの胸を小突(こづ)いた。「下ろして」

「怪我してるんだ。大怪我なんだよ……」

「さっさと下ろして、お願いだから」

 抱き上げていたチョウヨウを建物の壁にそっともたれかからせたタンゴの声は震えていた。

「心配してるんなら、大丈夫さ。君はもう、さっきみたいにはならない。僕が守るから任せてくれ」

「馬鹿を言わないで」

「でも、血を()まないと死ぬんだよ。デイ・ウォークだって、まだ終わってないだろ。姉さんのためにも、やり切るんじゃないのかい。だから死んじゃダメなんだ……」

 チョウヨウは、なおも説得する言葉を見つけようとするタンゴを制した。

「あたいは誰かの言いなりになって、奴隷のように自分の爪先見ながら、人生をとぼとぼ歩きたくない。あんたがやろうとしてることは、あたいを、またとんでもないモノに引き渡すことだ。絶対に嫌だよ、そんなこと」

 チョウヨウの懇願にタンゴは目を伏せ、頭を左右に振り続けた。

「わかってるだろ。あたいがどんな女だか知ってるはずだよ、本当のあんたなら」

「僕はデイ・ウォークの後も君と一緒にいたいんだ」

「お願い、タンゴ」

 両手で頭を抱え込んで「くそっ」と(うめ)いたタンゴの背中から黒い(もや)が染み出した。チョウヨウの心は、その向こうに確かな意思を見た。全てを委ねてしまえると思わせるほど力強く魅力的だが、それでいて決して受け入れてはいけないと本能が大声で警告を発する邪悪極まりない意思を。

 彼女はそれと一体になって自分がしたことを再び思い出すと、あまりの嫌悪感に嘔吐(おうと)しそうになった。そして最愛の青年が持つ純真さを利用しただけでなく、汚そうとしているそれを心底憎悪した。タンゴからそれを引き()がすためにチョウヨウは自分ができることなら、どんなことでもしようと決意した。しかし自由の利かない身体にできることは限られている。だが方法はある。なんとかもう一度、この邪悪なモノを体内に取り込むことさえできれば、今まさに二人に焦点を結ぼうとしている人間の武器で自分の身体ごとそれを焼き滅ぼすのだ。意志の力で相手をがっちり捕まえ、そいつが灰になるまでしっかり抑え込んでおくのだ。自分が(たお)れても、タンゴがデイ・ウォークをやり()げてくれさえすれば、それで満足だ。自分のことは彼が覚えてくれているだけでいい。

「さぁ、もう一度来やがれ。あたいは薄汚いあんたのことをよく知ってるよ。誰かの助けがないと何もできない臆病者のあんたをね。それとも、あたいが怖いのかい。こんな死にかけの、ちっぽけな娘が」チョウヨウは心の中で邪悪な存在を強く挑発しながら、すぐそこまでやって来ている雲の切れ間を仰ぎ見た。

 収束された陽光と、それによってもたらされた真っ青な炎の波は、タンゴとチョウヨウがいる大通りを(あまね)く舐め取った。跡には吸血奴隷(バイター)が滅びる炎に巻き込まれた戦士の焼死体が所々に散乱して(くすぶ)りつづけていた。陽光が届く一瞬前。建物の陰に突き飛ばされたタンゴは彼と同じように建物の陰にいて陽光の難を逃れた一握りの吸血奴隷(バイター)たちを見た。彼らは人間たちの更なる攻撃を待つ愚を犯さず、タンゴを置いて焼け跡から移動を開始した。移動先は誰に命令されることなく決定していた。彼らは本能の(おもむ)くまま、新たな血の臭いに吸い寄せられて雪の大通りを闘技場へ向けてひた走った。


               47

 巨大な闘技場の外周に設置された広々とした屋内螺旋(らせん)廊下は、閉鎖されたフィールドとは正反対に充分な採光を考えて片側に分厚い高硬度アクリルブロックがはめ込まれていた。その透明な外壁は外の寒波を(さえぎ)るだけでなく、無機的な建物群の中にあって唯一の優美さを保っていた。だが、それも今日までの話だ。廊下を行くレン補佐長はフィールドから漏れ聞こえてくる野蛮な歓声を聞きながらそう思わずにいられなかった。

 今また都市の一角から大量の黒い(すす)が渦巻きながら吹き上がるのが見えた。螺旋(らせん)廊下の上からぞろぞろ下りてきた保守点検用の自動機械(オート・マトン)の一群がレン補佐長一行とすれ違いざまにその光景に反応して一斉に外へセンサーを向けたが、すぐに興味をなくして、また移動を再開した。

 黒い(すす)は建物の屋上各所に設置したアルキメデスの熱線砲(ヒート・レイ)が大量発生したヴァンパイアを焼いた(あかし)だろう。先ほどもたらされた物見(スカウト)からの第一報から察すると、奴らは順調にこちらへ移動していると判断できる。ただ一つ心配なのは焼いても焼いても敵の数が一向に減らず、闘技場に近づくにつれて増えすぎてしまうことだ。だが、まぁいい。それすらも想定済みだ。レン補佐長の顔に自然と笑みが浮かんだ。

「清潔さを保つためには、汚れは一気に掃除をするのが一番なのだ」

 レン補佐長は今の独り言を命令と勘違いして近づいた護衛に手を振って制すると、最後の仕上げを確認するために長々と続く螺旋(らせん)廊下の先を急いだ。その一行の後ろには徐々に距離を詰めつつある一つの人影があった。エイブだった。背中を深く負傷していた彼は闘技場の一ブロック手前に停めた(そり)の中でファニュたちがナナクサを救出してくるのを延々と待っていたが、彼らが帰ってくる気配がないどころか、宿舎から移動してくる新参者の戦士たちの非常呼集を見て、仕方なく単独行動に移ったのだ。エイブは闘技場へと進む戦士たちに何食わぬ顔で合流すると、彼らから仲間が捕まり、今まさに処刑されようとしている事実を聞きだした。エイブはすぐにレン補佐長の姿を捜し求めた。傷ついた自分が思い通りにできる権力者は彼をおいて他におらず、彼を捕虜にするのが現段階では仲間を助ける最上の方法だったからだ。レン補佐長は絶えず十名前後の護衛とともに行動していたので、彼を人ごみから見つけ出すのは容易(たやす)かった。しかし彼は移動中には滅多に一人にはならなかったので、エイブは執念深い蛇のようにチャンスを(うかが)い、螺旋(らせん)廊下の終点で護衛を下がらせた補佐長と、やっと二人きりになるチャンスを得た。

 レン補佐長は螺旋(らせん)廊下の終点までくると、そこから屋上へ出て、そこに造りつけられている楼閣の上部構造体に登る幅の広い階段へ向かった。エイブは廊下の陰に身を潜めて護衛をやり過ごすと再びその後を追った。大きな上部構造体は太い六本の柱で支えられていた。エイブは広大な屋上に出ると、すぐにレン補佐長の後を追おうとしたが、違和感を感じて足を止めた。滑らかなはずの屋根の至る所にクレーターが穿(うが)たれ、あばた状になった一つ一つのそれに三、四体の自動機械(オート・マトン)が深く(もぐ)り込んでいたからだ。エイブが穴の一つに近づいてみると自動機械(オート・マトン)はどれも壊れたように動かなかった。彼は以前、壊れた自動機械(オート・マトン)を、通りや建物内で何度か見かける機会があったが、完全に動かなくなったそれは、どこからともなく現れた別の個体に(かつ)ぎ上げられて、すぐに姿を消していた。しかし、これはそのとき見た光景とは違って今まで見たことのないものだった。エイブは触れたこともない機械の表面に恐るおそる触れてみた。すると(かす)かな振動が手に伝わってきた。壊れてもいなければ、機能が完全に停止しているわけでもないようだ。しかも目の前のおびただしいクレーターはいったい何を意味しているのだろうか。エイブが首を(ひね)っていると、上部構造体に続く階段に動きがあった。近くの柱の陰に身を隠したエイブの耳に、さらに多くの保守機械(オート・マトン)が移動する金属がこすれ合う音が聞こえてきた。(のぞ)いてみるとレン補佐長を取り囲むようにして階段を下りてくる機械の一団が見えた。彼は片手に太い棒状のモノを持っていた。それを振るうと、自動機械(オート・マトン)は六本の柱それぞれに、カブト虫のように次々と取り付いた。そしてあろうことか保守とは正反対に強化セラミックでできた柱を一心不乱に削り始めた。エイブの頭上からも、彼の両脇をすり抜けて取りついた自動機械(オート・マトン)が削る細かなセラミック片が降りはじめた。レン補佐長が魔法使いでもなければ、あの棒状のモノで自動機械(オート・マトン)を自在に操っているに違いない。でも、なぜだ。エイブは考えを巡らせてみたが、この非常時に屋上の破壊に(いそ)しむレン補佐長の真意を測りかねた。たぶん、これ以上考えても答えは出ないだろう。それに答えが出たところで現状がどうなるものでもないはずだ。彼は考えるのをやめて仲間の救助に意識を集中した。

「補佐長閣下」エイブは背中の激痛も忘れてナイフを抜いて宣言した。「ご同行いただきます」

 レン補佐長の顔に衝撃が走った。しかし、それは見事なまでにすぐさま()き消された。これは職業(がら)(つちか)われた彼の武器だった。

 常に冷静であれ。

 レン補佐長はこの武器で今まで降りかかった危難を幾度となく(くぐ)り抜けてきたのだ。彼は相手を素早く観察した。相手は若い準戦士。興奮と(あせ)りが表情からも見てとれる。

「準戦士ごときが私になんの用だ?」

「時間がないので単刀直入に申し上げる。闘技場で闘っている仲間を救ってほしい」

「闘っている仲間を救えだと?」レン補佐長は怪訝(けげん)そうに片眉を上げた。「人相書きに間違いがなければ、確かお前は女ヴァンパイアの捕獲に功績のあったという……そう。エイブ・Hではなかったかな」

 エイブは小さく(うなず)くとナイフの切っ先をレン補佐長につきつけた。

「見たところ、お前も私同様、無用な時間浪費を嫌うタイプのようだ。答えは(いな)だ。誇り高き戦士よ」

 切っ先がさらに近づいた。レン補佐長はプライドに訴えた作戦の失敗を理解した。やはり目の前にいるのは人工子宮(ホーリー・カプセル)生まれの単純な戦士ではないのだ。彼はすぐさま相手の攻略法を変更した。

「下の歓声が聞こえるか?」

 エイブが黙ったままなので、レン補佐長は先を続けた。

「あれはヴァンパイアの処刑だ。お前が懇意(こんい)にしていたクイン・Mは裏切り者だ。ヴァンパイアと行動をともにしたのだ。お前が私や第一指導者(ヘル・シング)の立場なら、処刑以外にどんな裁可(さいか)を下せるというのだ?」

「助けるね。危険じゃないから」

「ほぅ」レン補佐長は目を()いた。「ならば、いま第九街区で起こっている大掛かりな破壊活動はどうなのだ。あれでも危険ではないと言い張れるのか?」

「彼らにも事情があるんでしょうよ」エイブはぶっきらぼうに答えた。自分もヴァンパイアたちと行動を共にしていたことなど、おくびにも出さずに。

「どんな事情だね?」

「わかりませんね。でも私が会った女ヴァンパイアは危険じゃなかった」

「しかしヴァンパイアが持つ力が危険であることに変わりはない。違うかね?」レン補佐長は自分に向けられた切っ先が少し下がるのを視野に(とら)えると遠くの街区から立ちのぼる大量の(すす)に視線を向けた。「お前は徴用された準戦士だ。この城塞都市(カム・アー)には未練がないどころか、苦々しく思っていることだろう。それを知っているからこそ、城塞管理(カム・アー)の責任者である私を助けてくれとは頼まない。また、お前自身も私に対してそうするだけの意思も義理も感じてはいなかろう。だからといって、お前の頼みを聞くことはできない。理由はいま話した通り、危険だからだ。それにもし私がお前の頼みを聞き入れたとして、あの第一指導者(ヘル・シング)がクイン・Mたちの放免を聞き入れると思うか?」

「あなたは口が達者でしょう」

 レン補佐長は表情を変えず口角だけを上げた。

()められたことは嬉しく思うが私にも能力の限界がある。それにお前は私を人質にでもしたつもりだろうが無駄なことだ。私がいなくなっても、代わりの補佐がすぐに跡を()る」

「でも、他の補佐はあなたほど優秀じゃない」

「なるほど」レン補佐長は溜息(ためいき)をついてみせた。「あの第一指導者(ヘル・シング)でないなら、お前のように私の才能を()しんでくれる指揮階級の戦士がいるかもしれんがね」

「捕まった中には人間の女の子もいたはず。あの娘だけでも」

「残念ながら、その娘も同罪だ」レン補佐長は首を振った。

「どうしても駄目だと?」

「駄目ではない。無理なのだ。お前は利口だ。だから理解できるだろう。それでも無謀を押し通すのか?」エイブのナイフが下がるのを見て、レン補佐長はさらに言葉を投げ掛けた。「先が予測できるということは不幸なことだ。しかし裏を返せば、先を見通すことで次に起こることを予測し、最終的には状況そのものを支配することが可能になってくる。お前は懇意(こんい)の者たちを救うことができないが、自分自身の未来を救うことはできる」

「なにが言いたい?」

「言葉通りだ」

 レン補佐長の目を見ながらエイブは目を細めた。

「ナイフを突きつけ、彼らの助命をお願いしたことを知っているのは、あなただけだ。それを不問に付してくれるとでも?」

「もちろんだ。しかもそれだけではない。見るがいい」

 レン補佐長は柱と柱の間に(もう)けられた六つの大きな明り取りの一つにエイブを(うなが)すと、黒い棒を操作して明かり取りにこびり付いた氷を自動機械(オート・マトン)に処理させた。すると、その下から直径四メートルを超える透明な高硬度アクリルが現れた。それを通して見える(はる)か下のフィールドでは今も死闘が繰り広げられているが、そのとき上がった大歓声を除いては喧騒は遠く、もはや臨場感を持って聞こえてはこなかった。

「利口なお前だからこそ提案しよう。この下の旧態然(きゅうたいぜん)とした野蛮な世界に縛られ続けるのがいいか、私とともに新たな秩序の中で生きながらえるのを選ぶのかを」

「なにを言っておられるんですか?」

 エイブの言葉遣いの変化を察知したレン補佐長は微笑んだ。

 「私は二人三脚で共に歩んでくれる賢い第一指導者(ヘル・シング)が欲しいのだ」

 エイブはレン補佐長の言葉に呆気(あっけ)にとられながらも、どこか心()かれる自分を抑えることができなかった。しかしその提案を飲むのは不可能というものだ。

「現実的な提案じゃありませんね。わたしには第一指導者(ヘル・シング)(たお)して後釜に座る技量も度胸もありません」

「それは心配ない。方法はある」

「でも運良くあなたの計画通りことが運んだとしても、残された戦士たちが黙ってはいませんよ」

「あ(やつ)らが」レン補佐長はフィールドに陽光をもたらす高硬度アクリルブロックを通して下を見下ろした。「それまで生きていればな」

「どういうことですか?」

「説明がほしいのなら、私と共に歩むかどうかの返事が先ではないかな?」

 エイブは考えた。レン補佐長の夢が叶ったとしても自分は一生、彼の操り人形だろう。だが、それでも今の生活より数万倍もましであることに変わりはない。それにこれは補佐長からの最初で最後の提案だろう。

「わかりました」と、小さく(うなず)いたエイブにレン補佐長は満足そうに(うなず)き返すと、広大な屋根と柱に群がる自動機械(オート・マトン)に視線を転じた。

「この機械どもは大昔より完全自動で城塞都市(カム・アー)内のあらゆる保守点検を行っているが、ちょうど八代前の補佐長が、こ(やつ)らを自在に操る秘密の操作機械を見つけだしたのだ。それからは代替わりごとに補佐長職にある者だけに、その宝が連綿(れんめん)と受け()がれてきたのだ」

 エイブは先ほどレン補佐長が振っていた黒い棒状のモノがそれだと直感した。

「では、これはなんのために。機械どもになにをやらせているのですか?」

「屋根全体を削らせているのだ、崩落させるために」

 エイブは事もなげにそう言い放ったレン補佐長をまじまじと見つめずにはいられなかった。

「そんなことをすれば、下にいる者たちは皆……」

「お前が君臨するのに邪魔なだけだ。あの愚かな第一指導者(ヘル・シング)ともども一気に押し潰してやれば後腐(あとくさ)れがない」レン補佐長はエイブの肩に手を置いた。「なあに、心配しなくても戦士など、また量産すればいい。足らなければ徴用してもいいではないか」

「補佐長閣下」

「なにかね?」

「邪魔者をすべて一気に排除するとおっしゃるのなら……もしそれが可能なら」

 レン補佐長は人差し指を立ててエイブを牽制(けんせい)した。

第一指導者(ヘル・シング)ごと邪魔者を一気に消すのであれば、懇意の者だけ、その前に助けてくれと言いたいのだろうがそれは駄目だ。多くの者を一所(ひとところ)に縛り付けておくだけの餌が要る。気取(けど)られたら元も子もない。それに一気に片付けるのは、いま闘技場にいる者たちだけではないのだ」

 レン補佐長はゆったりと背中で手を組むと、薄れはじめた第九街区の(すす)に目を向けた。


               48

「一難去って、また一難というところか……」

 火傷でボロボロになった身体を引き起こすと、ジョウシは刃の長い二本のナイフを握る手に力を込めて油断なく左右を警戒した。巨大な闘技場前の広場に陣取った彼女の前方には五十人弱の屈強な戦士が扇形状に布陣して、隙あらば彼女を斬り伏せようと彼我(ひが)の差をじりじり埋めつつあった。ジョウシは闘技場のエントランス前から身動きが取れない自身の境遇を嘆きたかったが、それを聞いてくれたとしても彼女が後ろに(かば)っている三十人あまりの非力な人間たちは慰めの言葉一つかけてはくれないだろう。彼らはそれほど現在の状況に大きな恐怖を感じて口もきけないほどに(おび)えていたからだ。彼らはファニュ以外に、ジョウシが出会った殺意を持たない唯一の人間たちだった。彼らは戦士と違って一様に灰色のみすぼらしい防寒着に身を包んでおり、年齢は―――人間は自分たちヴァンパイアより遙かに短命種なので、あくまで見た目ではあるが―――自分たちの両親ぐらいの者からファニュより幼い者まで、まちまちだった。

 闘技場の屋上から落下して雪のクッションの中で気を失っていたジョウシを正気づかせたのは彼らの悲鳴の大合唱だった。完全に意識を回復した彼女は先ず状況を把握するため、うつ伏せのまま身体を起こしてみた。陽光に焼かれた皮膚が引き()れて刺すような痛みが全身を貫いた。しかし痛みに堪えて観察しても悲鳴の先は緩いカーブを描く闘技場の外壁が邪魔をして見えなかった。

 ジョウシは歯を食いしばって立ち上がると、吸い寄せられるように悲鳴の元をたどって進んだ。外壁に沿って(しばら)く進んだ彼女の目に飛び込んできたのは凄惨(せいさん)極まりない行為だった。武器を持った者が持たない者を集団で追い回し、捕まえては命乞(いのちご)いもお構いなしに殺戮(さつりく)してゆく。しかもわざわざ手足を斬り刻んで出血させた上で、次に喉を切り裂いていくのだ。

 ジョウシの目は眼前で繰り広げられる蛮行に釘付けとなった。絶望的な悲鳴が耳朶(じだ)を打つごとに、彼女の心に芽生えた怒りは大きくなり、全身の激痛を抑え込んでいった。身体の弱い弟が村の子供たちに一方的にいじめられていた過去の思い出が脳裏に甦ってくる。ジョウシの傷ついた全身を血が激流となって駆け巡った。彼女はいてもたってもいられず、勢いよく赤く染まった舞台に飛び出した。

「お前たちの得物は弱きを、いたぶり殺すためのものか。それとも闘うためのものか?!」

 戦士たちは突然現れたジョウシに一瞬たじろぎ、殺戮(さつりく)の手を止めたものの、相手がぼろ雑巾のような素手の小娘だと知ると互いに顔を見合わせて下卑(げび)た笑い声をあげた。

「やることも下の下なら、笑い方も下品この上なしじゃな」

 一番近くにいた戦士が二人、赤いシャーベット状の雪を蹴散らしてジョウシに肉薄(にくはく)した。彼らが全身に(まと)った血糊の不快な刺激臭がジョウシの鼻をついたとき、二人の戦士はほとんど同時にその場に倒れた。ジョウシの両手には倒れた二人の腰から抜き取った刃の長い二本のナイフが、それぞれ逆手(さかて)に握られていた。(たお)れた二人の血潮を浴びたジョウシの焼け(ただ)れた皮膚が見る見る再生してゆく。

「ゆめゆめ我れらヴァンパイアを(あなど)ることなかれ」

 ジョウシは言い終わるや(いな)や、別の二人の喉に鋭いアンダースローでナイフを投げつけ、彼らが地面に倒れるよりも早く、向かってきた別の二人から長刃のナイフを奪い取ると戦士の集団に斬りかかっていった。しかし重度の火傷が治癒(ちゆ)しきっていないジョウシの動きは精彩を欠いていた。九人を(たお)した時点で、彼女は数でまだ優勢な戦士たちと膠着(こうちゃく)状態に(おちい)ってしまった。ジョウシは戦士集団との間合いを計りながら、彼らから決して目を離さずに今度は弱者たちへ声を掛けた。

「お前たちが何者かはわからぬが、我が後方にかたまれ。さぁ、早くするのじゃ!」

「怖いよ……」

 弱音が聞こえた方にジョウシはちらりと視線を走らせた。視線の先にはファニュよりも幼い栗色の髪の()せた少年がいた。その少年の瞳は絶望の中に一筋の光明を見出そうと必死にもがいていた。それがかつての弟のそれと重なった。

「助かりたくば、お前自身も闘え」

 隙をついてジョウシに襲いかかろうとした一人の戦士が、彼女の投げたナイフに喉を深く刺し貫かれて絶命した。

「我れがついておる。恐ろしいのはわかるが、お前も闘うのじゃ」

 ジョウシは戦士たちを牽制しながら死体に近づいて油断なく武器を回収すると、そのベルトからも武器を取って震える少年に投げ渡した。少年は両手に握った手斧の重さにたじろいだ。

「意識を研ぎ澄まし、たった一人の敵にだけ対峙(たいじ)せよ。その他には目もくれるな。さすれば道も開ける」

「でも、ぼく……」

「やるか、死ぬかじゃ」目に涙を溜めた少年にジョウシは言葉を()いだ。「他の者たちにも同じ事を伝えよ、武器は()れが(たお)した戦士のものが他の者たちにも役立とう。では、よいな。参るぞ!」

 ()って出ようとしたその時だった。ジョウシの鋭い聴覚が聞いたこともない奇妙な雄叫(おたけ)びが急速に接近してくるのを(とら)えた。次いで固く踏みしめられた雪上からの振動で、それらがかなりの人数であることもわかった。ジョウシは自分が死ぬことなど微塵も考えなかった。むしろ心配なのはナナクサやファニュの安否だった。早く彼らと合流したい。でも命の危険にさらされた少年少女を含む三十人あまりの人間たちを置いていくことは、もはやできなかった。

「一難去って、また一難……」

 ジョウシの口から愚痴(ぐち)()れた。いまや彼女は(まぎ)れもなく三十人あまりの人間たちを率いる村長(むらおさ)だった。


               *

 勢力を盛り返した吸血奴隷(バイター)たちは誰もいない大通りを闘技場へ向けて大通りをひた走っていた。彼らを動かす原動力はただ一つ。血への渇望。彼らは鼻をひくつかせると空気中に漂い流れてくる微かな血の微粒子を嗅ぎ分け、目標が近いことを本能的に悟った。やがて(はる)か前方に巨大な闘技場が姿を現した。あろうことか、その前には襲ってくれと言わんばかりに多くの獲物がひしめいている。彼らは口々に人ならざる雄叫(おたけ)びをあげ、我れ先にその場所めがけて殺到していった。


               *

 ジョウシに対峙(たいじ)していた戦士のほとんどは自分らの後方から援軍が来たと思ったが、それも自分たちが襲われるまでの話だった。勘のいい戦士の何人かは襲撃される前に防戦準備をすることができたが、凶暴な吸血奴隷(バイター)たちが相手では、ただそれだけのことだった。吸血奴隷(バイター)たちは瞬く間に戦士たちの上に黒山となって群がり、襲われた戦士たちは訳もわからないままに引き裂かれ、血を(すす)られ、ものの二分もすると自分たちを襲った者たちの同類となって起き上がった。

 三十人あまりの人間は最初は何が起こっているのかわからなかったが、尋常(じんじょう)ではないことが進行していることだけは感じとった。衝突から数分が経過したときだっただろうか。戦士の死体から顔を上げた吸血奴隷(バイター)の一体がジョウシたちを新たな獲物と認識するや、牙を()いて飛び掛ってきた。ジョウシは咄嗟(とっさ)にナイフを放って空中でそれを撃ち落したが、喉を深々と直撃されたにも関わらず、その吸血奴隷(バイター)(しばら)くのたうち回った挙句に立ち上がろうとまでした。他の吸血奴隷(バイター)たちも戦士の死体から次々と顔を上げはじめた。それを見たジョウシはやっと大声で指示を出した。

「退け。闘技場の中に入るのじゃ!」

 闘技場と聞いて逃げる途中に身体を強張(こわば)らせた者が何人もいた。不幸にもそのうちの二人は側面から襲い掛かってきた吸血奴隷(バイター)の餌食となった。ジョウシは残った人間を闘技場に()きたてつつ、自身は彼らを守って蟻のように追いすがる吸血奴隷(バイターズ)を蹴散らしては前に進んだ。人間たちは、やっと闘技場前の幅広い石造りの階段を駆け上がった。しかし上りきったエントランス前で完全に動きが停まってしまった。

「なにをしておるのじゃ、お前たち?!」

「ジョウシ」

 自分の名を呼ぶ声に、ジョウシは自分の耳を疑った。

「ジョウシ」

 再び聞こえた仲間の声は自分が守ると決めた人間たちの先頭の方から聞こえた。人間たちが壁になってその人物は見えなかったが、それは間違いなくチョウヨウの声だった。

「聞こえてんなら返事ぐらいしなよ、このチビ助」

「なに用じゃ?」ジョウシは警戒感を隠そうともしなかった。

「あんたに止めてもらいたいんだ」

 ジョウシは自分を呼ぶチョウヨウの声がした途端、人間たちを半包囲している吸血奴隷(バイターズ)の動きがピタリと止んだことに気付いてはいたが、()えて言葉をはぐらかした。

(おびえ)えた人間たちの動きなら、もう止まっておろう」

「あんたが相変わらずの皮肉屋で安心したよ……」

 チョウヨウの言葉尻が急に消え入るようになり、咳きこんだのが合図でもあったかのように吸血奴隷(バイターズ)が人間の集団に一歩にじり寄った。

「お前に一つ問うが、この怪物どもはなんじゃ?」

 ジョウシの問いは沈黙で(おう)じられた。

「説明したくはないようじゃな」

「あたいがね」心の痛みをチョウヨウがみせた。「あたいが造っちまったのさ、そいつらを……」

「話が見えぬぞ」

「そうだろうね」チョウヨウは苦しそうに咳き込んだ。

「これでは(らち)が明かぬ。今よりそちらへ行く」ジョウシはいったん言葉を切った。「ところで、この怪物どもじゃが……」

「大丈夫」チョウヨウはジョウシの懸念を察して彼女の言葉を(さえぎ)った。「たぶん、大丈夫だ」

 ジョウシは油断な吸血奴隷(バイターズ)(にら)みを利かすと、(おび)える人間たちの間をかき分けて闘技場前のエントランスに進み出た。そこにはチョウヨウと彼女を支えて立っているタンゴがいた。ジョウシには自分より頭一つ半は大きいはずのチョウヨウの姿が随分と小さく見えた。それほど目の前の仲間はやつれきっていたのだ。

(ひど)い姿じゃな、両名とも」

「あんたこそ、見られたもんじゃないよ」

 チョウヨウは乾いた弱々しい笑い声をたてた。

「お願いだ。この人をあんたに止めてほしいんだ」

 超然と(たたず)むタンゴにジョウシは視線を移した。

「想い人の暴走を止めに行った者が、今度は止めらるる側になったというわけか、タンゴ?」

 タンゴはジョウシに顔を向けた。しかし、その目はガラス球のように無表情で、そこには自分が知っている陽気で仲間思いの青年の姿はなかった。

「あたいのために悪いことをしようとしてんだよ」チョウヨウは哀願した。「いくら言っても聞き入れてくんないから、あんたに頼むんだ。あたいが造っちまった奴らは見ての通り、『やめろ』って念じたら、なんとか止まったんだが、それだっていつまでもつかわかんない。もう限界なんだよ、あたい……」

「堪えよ、チョウヨウ。頑張るのじゃ」

 気丈な者の弱音ほど聞いて居たたまれなくなる。それが苦楽を共にしてきた仲間であるならなおさらだ。この砦で見た悪鬼のようなチョウヨウはもういないとジョウシは確信した。だが同時に弱った仲間に陳腐な言葉しか掛けてやれない自分の非力が恨めしかった。

「さっきも身体を支配してた奴をやっつけてやろうとしたんだけど駄目だった。それどころか言葉が何度も何度も頭の(しん)にズキズキ響くんだ。『人間の血を飲め。飲めば傷も治る。楽になる』って……」

「そうだよ、チョウヨウ」突然、タンゴが口を開いた。「さっき僕も言ったろ。血だよ。嫌だろうけど飲むんだ。そしてたっぷりと傷にも塗りこめばいい。しっかり両方やるんだ。そうすればきっと良くなる。でも戦士の汚れた血は絶対に駄目だ」

「もうよせ、タンゴよ」

「ジョウシ……」タンゴは自分をたしなめたジョウシを見ると、彼女がいたことにいま初めて気付いたように目を見開いた。「そうだ。君からも言ってやってくれよ、君が言ってたことを」

「我れが何を言うた?」

「忘れたとは言わせないぞ」タンゴのガラス球のような目に狂気の炎が(またた)いた。「ほら、(そり)で話してたじゃないか。チョウヨウがおかしくなったのも、(よみがえ)りが遅れたのも、邪悪な血を使ったからだって」

「断言してはおらぬ」

「でも、まだやってないことを試さなきゃ。ナナクサがいれば、きっと同じことをするはずだよ」

「なにをしようというのじゃ?」

「『なにを』って。邪悪な戦士のじゃなく、彼らの血を使うんじゃないか」

 タンゴは(おび)えた人間の中でも少年と少女を(あご)で指し示すとジョウシの顔を見やった。

「ナナクサなら絶対に賛成はすまいな」

「わかんない奴だな、君は。だから試してみるんだよ。それに心配しなくたっていい。別に彼らを殺そうなんて思ってないんだから。彼らからは汚染されてない新鮮で健康な血を少しもらうだけなんだ。それを使うだけだ。どうだい。君も名案だって思うだろ?」

 ジョウシはゆっくりと頭を横に振った。

「こんな年端(としは)もゆかぬ子どもから血を()るのか。で、どれほどの量じゃ。もし足りなければどうする。この子らが死ぬまで(しぼ)りつくすつもりか。それに人間たちの周りの怪物どもはどうじゃ。血を見ても大人しくしておるのか。もの欲しそうに鼻をひくつかせておるぞよ」

「あいつらなら」タンゴは考えをまとめようとして言いよどんだ。「チョウヨウの命令がなきゃ動かないさ。今だってそうだろ。命令には絶対忠実なんだ」

「チョウヨウの状態が、お前にわからぬでもなかろう。抑えておくのも、もう限界のようじゃが」

「そんなことはない」

「お前らしくもない、冷静になれ」

「僕は正気だ!」

「いや。今のお前は……」

「うるさい!」

 タンゴは突如、ジョウシの首を(つか)むとぐいと絞め上げた。チョウヨウは彼の腕をもぎ放そうと試みたが、深手を負った彼女の力ではどうすることもできなかった。ジョウシの頸骨(けいこつ)(きし)む音がチョウヨウにも聞こえた。チョウヨウは苦肉の策にうってでた。彼女は正面にいた人間の少女からナイフを奪い取ると、自らのみぞおちに刃を当ててるや(いな)や、それを一気に身体に滑り込ませた。鋭い刃が肺を破って心臓に達すると気管を逆流した血がチョウヨウを激しく咳き込ませて大量吐血に導いた。彼女が血溜(ちだま)まりに膝を屈すると、吸血奴隷(バイターズ)は自分たちを造った者の(くびき)を解かれて暴れだすどころか、一斉に両膝を屈して苦痛に顔を(ゆが)めた。

「駄目だー!」

 自ら命を断とうとしたチョウヨウの姿にタンゴが恐怖の叫び声を上げた。彼はジョウシを放り出してチョウヨウを抱きかかえてナイフを引き抜いた。傷口を押さえたタンゴの(てのひら)がみるみる真っ赤に染まっていった。タンゴの口から再び絶叫がほとばしった。それと同時に彼の身体から黒い(もや)が染み出してチョウヨウの傷口を(てのひら)ごと(おお)った。

「お姉ちゃん!」

 エントランスの床に投げ出されたジョウシは栗色の髪の()せた少年の大声で我れにかえった。数瞬前まで膝を屈していた吸血奴隷(バイターズ)だったが、今は先ほどよりも毒々しい活気に満ち(あふ)れていた。彼らは血を求めてジョウシが保護している人間たちに飛びかかろうと身構えた。その時なんの前触れもなく闘技場内からエントランスに向けて大きな音が鳴り響いた。場内へと続く大扉の(かんぬき)が外れる音だ。続いて奥へと続く重い扉が次々と開け放たれ、そこから長い廊下の先にあるフィールドの一角が垣間見(かいまみ)えた。ジョウシのヴァンパイアの目は巨大な何かから逃げ回る傷だらけのナナクサの姿をフィールドの(はる)か彼方に認めた。

「ナナクサ……」

 吸血奴隷(バイターズ)の行動は、さながら狭い場所に吹き込む疾風のようだった。彼らは新たな命令が出たかのように目の前の獲物そっちのけでエントランスから闘技場内のフィールドを目指して移動していった。

 後には瀕死のチョウヨウと彼女を抱きかかえて悲嘆にくれるタンゴ。そしてジョウシと彼女を取り巻く三十人足らずの人間たちだけが残された。


               49

 はじめは城塞都市(カム・アー)の哀れな末路に思いを()せて高揚していた始祖(ごせんぞ)だったが、今は経営権を奪われた企業家のようにイラつきはじめていた。始祖(ごせんぞ)は自分に向けられる人間からの拒絶と攻撃には昔から慣れてはいたが、それが自分の子孫から度重なるとあっては話は別だ。始祖(ごせんぞ)はナナクサに拒まれた気分転換に自身の残滓(ざんし)を体内に宿すチョウヨウという名の小娘の身体に戻ってみた。しかし面白かったのは最初だけで、時間が経つにつれて意に反する行動をとろうとする愚かさに辟易(へきえき)しはじめた。小娘を介して吸血奴隷(バイター)どもを増やし、その力で都市内を蹂躙(じゅうりん)する爽快感はあるにはあったが、この小娘と恋仲の若造の横槍(よこやり)で、その快感も風の前の(ちり)のように早々に雲散霧消(うんさんむしょう)してしまった。何度も何度も心を押してやったにも関わらず、心の迷いから中途半端なことしかできない子孫など、面白味どころか何の利用価値もない。最初に暗黒へ(いざな)ってやったミソカという小娘の方が何倍も楽しませてくれたというのに……まぁ、その娘にしても頭の固い若造……確かタナバタという名の愚か者の策略で結局は駄目になってしまったのだが……。

 さて、我慢もこれまでだ。小娘が造った吸血奴隷(バイターズ)も、いま動かし終わった。そろそろナナクサを手に入れて長年の屈辱を晴らさねばならぬ。そのためにはあの時の失敗は二度と繰り返すまい。遥か大昔、下劣な人間どもが地に満ちていた時のあの過ちだけは。今度こそナナクサの心をへし折るのだ。心が弱まれば、そこにつけ入ることもできる。それは得意中の得意分野だ。それに(いにしえ)より女というものは男に運命を狂わされるものと相場が決まっていたではないか。

 始祖(ごせんぞ)は今までの子孫たちや人間どもとの長い係わり合いの歴史を俯瞰(ふかん)して、そう独りごちた。そして闘技場から流れてくる心地よい殺戮(さつりく)の調べに(しばし)し耳を傾けた。


               *

 闘技場内で現在なにが起こっているかを正確に知る者はレン補佐長とエイブの二人だけだった。レン補佐長は進入したヴァンパイアが増やした吸血奴隷(バイター)どもが闘技場に達するのを物見(スカウト)からの連絡で知るや(いな)や、闘技場通路の門衛たちに外の戦士をフィールド内に入れるからと(だま)し、三重になった門を全て開放するように命令した。命令を実行した門衛たちはほどなく吸血奴隷(バイターズ)の波に飲まれると、命令にはなかった死を褒美(ほうび)として受け取った。


               *

 フィールドに通じる通路から吸血奴隷(バイターズ)濁流(だくりゅう)となって闘技場内部に雪崩れ込んできたとき、ナナクサ、ファニュ、クインの三人は、大小長短様々な強化セラミックの柱の上を猿のように動き回る人造強兵(ホムンクルス)たちの攻撃に(さら)されていた。ただ敵は互いに連携して攻撃を仕掛けてくることがなかったので、三人は極力、(たけ)の高い強化セラミックが密集した所を選んで素早く移動して巨腕の餌食になることは免れていた。しかし防戦すらままならず、逃げるのが精一杯の三人に勝機などはなく、彼らの行動はただ確定的な死を引き伸ばす時間稼ぎをしているに過ぎなかった。これに反して観衆は大喜びだった。なぜなら罪人たちがフィールドをほぼ半周して無様な姿を(さら)しつづけていたからだ。巨腕の一撃ごと。またそれを紙一重で免れるごとにフィールド内は歓声に()きかえった。

 頭上から何度となく()り出される巨腕の一撃が遂にナナクサの持つ短刀を(とら)え、それを弾き飛ばした。短刀は弧を描いて宙を舞い、強化セラミックの柱に接触して鈍い音をたてた。大歓声が渦巻く中、第二撃を覚悟したナナクサは残った片手で頭部を(かば)って石の林の中に伏せた。

 だが、ナナクサの耳は身体の骨が砕ける音ではなく、歓声が罵声に。そしてそこに怒声と悲鳴が混じりはじめるのを(とら)えた。ナナクサの頭上で人造強兵(ホムンクルス)が一声()えた。頭を上げたナナクサの目は巨獣が自分を見下ろしているのではなく、フィールドの彼方を凝視して何か別のものに(うな)っているのを認めた。

「ナナクサ、あれ!」

 ファニュが指差した一角に混乱が生じていた。しかも、それは火の着いた導火線のように左右に燃え広がり、広がれば広がるほどその勢いを増していった。

 クインもナナクサの傍らに片膝をついた。

「なにが起こってんだ?」

「わからない」とファニュ。「でも今のうちよ」

 拡がりを見せる混乱は今やフィールド円周上の七分の二にまで波及しようとしていた。異常な速度での広がり方だった。ファニュがナナクサに肩を貸して立たせる頃には導火線の拡がりは円周上を伝うだけでなく強化セラミックの林から勢いよく噴出すると、フィールドを横断してあちこちに飛び火しては混乱にますます拍車をかけた。第一指導者(ヘル・シング)は混乱の両先頭にそれぞれ一体ずつの人造強兵(ホムンクルス)を全速力で向かわせたが、それは予期せぬ事態を収拾するというより、全戦士からの賞賛と自身の残忍な楽しみを邪魔されたことに対する激しい怒りの発露(はつろ)であった。

「だけど、どこへ逃げるってんだ?」自分たちから注意がそれたことを確信したクインが(うめ)いた。「周りはまだ敵だらけじゃないか。近くの門だって内側からは開かねぇんだぞ、くそ」

「とにかく手薄なところへ」

「わかった」

 ファニュはナナクサの指示に即答した。

「あそこに張り出しがあるわ」左(ひじ)から先を失ったナナクサは痛みに堪えながら(あご)をしゃくった。「私がなんとかあそこに飛びついて、下に回って内側から門を開けるわ。二人ともそこから逃げて」

「そんなこと言って、自分だけ逃げんじゃねぇのか?」

「クイン!」ファニュは語気鋭く(かたわ)らの準戦士をたしなめるとナナクサの耳元に口を寄せた。「あそこまで飛び上がれるの。もしそれができても門が開かなければ……」

「なんとか、やってみるわ」そう言うと、ナナクサはクインに質問した。「あなたはあの張り出しから、その下の門への道順がわかる?」

「あぁ」とクインは(うなず)いたが、すぐに首を横に振った。「でも何重にも扉がある。無理だ」

「やっぱり、私が行くしかないわね」

「待て、待て、待て」クインが慌てて押し(とど)めた。「でも他に方法がないわけじゃない」

「方法があるの?」ファニュが疑わしそうに眉を(しかめ)めた。

「張り出しは銅鑼を鳴らすだけじゃねぇ。訓練時に投げ与えるためのいろんな武具や装備がある」言葉を切ったクインは、飲み込みの悪い二人に(ごう)を煮やして言葉を()いだ「ロープだってあるぜ、下まで十分な長さの」

 ナナクサとファニュは顔を見合わせると、それぞれ肯定の(うなず)きをクインに返した。

 闘技場内にいる者は処刑ショーを忘れ去ったかのように、まだ事態の推移を見守っていた。ナナクサ、ファニュ、クインの三人は戦士たちに気づかれないようにそっと移動を開始した。移動は強化セラミックの林にそって行われた。だが彼らの動きは一番近い場所にいた戦士たちに、すぐ察知された。目の前の強化セラミックの林にいる囚人たちは混乱に乗じて闘いを放棄して逃げようとしている。時間貸し処刑(タイム・トライアル)のルールが囚人たちによって破られた以上、誰に(はばか)ることなく罪人を追撃して殺すができる。しかも一体は死にかけのヴァンパイアだ。戦士たちは迫りくる大混乱をよそに我れ先に囚人たちを追って強化セラミックの林に踏み込んでいった。


               *

「やっぱり気づかれちまった!」

「こっちへ!」

 追撃を悟ったファニュは二人と円周上の点から点へ最短距離をとろうと林から抜け出した。しかし三人が強化セラミックの林から広々としたフィールドに出たときには目標の張り出し近くの林からも戦士が抜け出しはじめ、アメフト選手がボールを持ったラインバッカーに殺到するように包囲の輪を縮めていった。三人が(なぶ)り殺されるまで、もうほとんど猶予(ゆうよ)はなかった。

「冗談じゃねぇぞ、くそ!」

 クインのふた言めの悪態は石畳の床を激しく揺るがす振動と、もうもうと()き起った(ほこり)と渦巻く雪に(さえぎ)られた。彼に続いてその洗礼を受けたナナクサとファニュは、驚いて急停止したクインの背中に勢い余ってぶつかった。三人の目の前にはホムンクルスより巨大な瓦礫(がれき)が小山となって(そび)えていた。闘技場の屋根の一部が三人の前に崩落したのだ。

「助かった!」

 小山を前にした呪縛から、いち早く解き放たれたクインの言葉にファニュは動こうとしたが動けなかった。彼女が肩を貸しているナナクサが微動だにしなかったためだ。重傷を負ったナナクサでも目の前の小山に登れば張り出しに十分に飛びつけるだろう。ロープさえ投げてもらえれば、自分もクインも脱出することだってできる。ファニュは薄れつつある(ほこり)がキラキラ輝くのを見てナナクサが動かなかった理由、いや動けなかった理由にやっと思い当たった。

 目の前の小山には遥か上方の屋根の大穴から陽光が燦々(さんさん)と降り注いでいたのだ。


               50

 床が大きくうねって闘技場の屋根の一部が崩落した。

 エイブは我れに返ると崩落した屋根の淵までいくと下を(のぞ)き込んだ。下にいる人間たちは小石よりも小さく見えた。細かな様子が見づらいので隊商時代から使っている双眼鏡(とおめがね)を腰袋から出して目に当てた。そこに映し出されたのは第一指導者(ヘル・シング)に追い詰められつつある女ヴァンパイアと両手のそれぞれに人間を捕まえている人造強兵(ホムンクルス)。それを遠巻きにする戦士のかたまりだった。

「ファニュ……クイン……」

 心の(つぶや)きが声になった。人造強兵(ホムンクルス)の手の中で二人は生きていた。自由になる足をバタバタさせて必死に(あらが)っていた。二人が生存しているのは第一指導者(ヘル・シング)が巨獣の動きをを掣肘(せいちゅう)しているからに他ならない。エイブの心の中で再び葛藤(かっとう)が生じた。友人たちを助ける何らかの努力をするか、このまま見殺しにして全ての決着がつくのをただ見守るのか。考えるにしても圧倒的に時間がなさすぎた。

 双眼鏡(とおめがね)を目から外したエイブが頭を巡らすと、屋根の一部が崩落したことに(あわ)てたレン補佐長が棒状の制御機械を必死にいじる後ろ姿が見えた。だが彼に相談しようとは思わなかった。きっと計算外の出来事に大忙しなのだろうし、相談したところで彼の考えは変わらないだろう。

 崩落で出来た天井の大穴にまで届く(はや)し立てるような大歓声が下から聞こえてくる。双眼鏡(とおめがね)を使わずともエイブには下の様子が手に取るように想像できた。第一指導者(ヘル・シング)が力を誇示するためだけによくやっていたパフォーマンス。剣で刺し貫いた死体を自慢気に高々と頭上に差し上げては野蛮な大歓声に酔っている姿。今回は、それが罪人や挑戦者ではなく、追い詰められていた女ヴァンパイアであるにすぎないのだろう。しかし女ヴァンパイアの処刑が終われば、次はファニュとクインだ。

 迷った挙句、エイブは行動を起こした。彼は一番近い自動機械(オート・マトン)に走り寄ると、柱に取りついたその胴体に両手を掛けて全身に力を込めた。その拍子に背中の傷に激痛が走り、包帯代わりにきつく巻いた(ほろ)の切れ端に新たな血がじゅくじゅくと()みだすのがわかった。苦痛の(あえ)ぎが漏れた。それでもエイブは思い切り引っぱった。二十キロ以上ある自動機械(オート・マトン)は意外に容易(たやす)く柱からもぎ離された。彼は痛みを無視して大穴の淵まで戻ると両手で自動機械(オート・マトン)を頭上に持ち上げた。友人たちにチャンスを与えた上で、第一指導者(ヘル・シング)の座に就く。成功するかしないかはわからないが、悔いを残すよりはましだ。エイブは自分の選択を実行しようとした。さぁ、いくぞ。

「なにをするのだ、新たな指導者よ!」

 レン補佐長の突然の怒声にエイブは手を止めた。「第一指導者(ヘル・シング)を葬ります。この高さです。これをお見舞いすれば、いかに奴でも死ぬはずです。それに自尊心(プライド)のために隠れたり逃げたりはしないでしょう。これが当たらなければ成功するまで何体でも投げつけてやるつもりです」

「この高さから投げ落として首尾よく当たるわけがない。それに事が成就(じょうじゅ)するまで何人(なんぴと)にも気取(けど)られることは慎まねばならんと言ったはずだ。気でも違ったのか?」

「それはわかっていますが、やらせてください。もし殺せなくても第一指導者(ヘル・シング)は大怪我をさせられるかもしれない。そうなれば操られている人造強兵(ホムンクルス)(ひる)むはず。屋上を完全に崩落させるのはそれからでも遅くはないはずです」

「なぜだ。人造強兵(ホムンクルス)(ひる)んでどうなる?」

「仲間が捕らえられています。少しでも隙ができれば逃げられるかもしれない」

「万に一つも成功はない」

「でも掛けてみる価値はあります」

「いやない。お前はわかっておらん。第一指導者(ヘル・シング)と戦士たち。それに大量発生した吸血奴隷(バイターズ)を一挙に葬り去るにはタイミングが大事だ。闘技場を邪魔者どもで埋め尽くしてからでなければ計画は失敗する。ゆめゆめ気取(けど)られてはならんのだ。あと少しだ。早まるな!」

「しかし屋上の一部は崩壊しました。もう計算通りにはいきませんよ」

「そんなことはない!」

 エイブは背中に新たな激痛を感じた。同時に後ろ向きにぐいぐい引っ張られて、頭上に(かか)げ持った自動機械(オート・マトン)と一緒に屋上の床に倒れ込んだ。見上げると、そこには血まみれのナイフを持ったレン補佐長の姿があった。奇妙なことにエイブが真っ先に思ったのは、仲間の事でも、自分が刺されたことでもなく、意外に腰抜けの補佐長もヤルじゃないかということだった。だがすぐに本当の腰抜けだったら、こんな大胆な大量虐殺計画など実行しようとは思わないだろうと考えを改めた。レン補佐長はエイブのそんな考えを知ってか知らずか、床に横たわる若者に対する興味を失ったようだった。

 レン補佐長は失望を顔に表さなかった。人間といっても所詮(しょせん)は精密な機械にすぎない。ほんの些細(ささい)な故障からいずれ全体が駄目になる。精巧なるが(ゆえ)の最大の欠点。しかも性質(たち)が悪いのは完全に駄目になるまで故障部分を(かば)いながらも動き続けてしまうということだ。そして完全に駄目になってしまったとき、命令者は手駒の突然の機能不全に戸惑うことになる。エイブの故障は仲間という不確かなものを完全に切り捨ててしまえなかったことにある。これでは指導者になってからも自分以外の者たちを心の()り所とするかもしれない。今回は故障が早めにわかってよかったのだ。やはり次の第一指導者(ヘル・シング)は馬鹿であっても、慣例通りに人工子宮(ホーリー・カプセル)生まれにしよう。あれこれ操らねばならないことは面倒だが、贅沢(せいたく)を言ったところでどうしようもない。レン補佐長はナイフを捨て、無造作に服で血糊を(ぬぐ)いさると、来たるべき新体制のために棒状の自動機械(オート・マトン)操作装置を再び動かしはじめた。


               *

 ナナクサの背を胸まで貫いた幅広の刀身は彼女の血で真っ赤に染まっていた。第一指導者(ヘル・シング)の頭上に(かか)げられた彼女の身体は、もはや弛緩(しかん)し、右手と両足は第一指導者(ヘル・シング)の動きに合わせてぶらぶら動いているだけだった。ナナクサは呼吸をしようとしたが裂かれた肺からヒューヒューと空気が漏れる音しかしなかった。喧騒の中にファニュの叫びが聞こえた。頭を巡らそうとしたが首にも、やはり力が入らなかった。突然、視界が一回転して背中からなにかが抜ける感じがすると、もうそこには自分を見下ろす第一指導者(ヘル・シング)の姿があった。彼の血塗られた剣を見るまで、自分がその頭上から石畳の上に投げ落とされたことにも気づかなかった。あのとき不覚にも目の前に降り注ぐ陽光にひるんだ隙を突かれたのだ。足音がしなかったのは、たぶん剣は投げつけられたものだったのだろう。背中に鈍い衝撃を感じた時には勝敗は決していたのだ。

 ナナクサは第一指導者(ヘル・シング)が自分にまたがって大きな左拳を振るうのを見た。左拳は彼女の右顔面を(かす)めて石畳の床に打ち下ろされた。

「どうだ、恐ろしいか?」

 近づいた顔は醜い喜びに(ゆが)んでいた。その一撃はナナクサを最後までいたぶるためにわざと外されたのだ。

 ナナクサは無性に腹が立った。目の前の独裁者に。それどころか世の中のすべてのものに。始祖(ごせんぞ)の身勝手な言い分に。自分を置いて死んでしまった仲間たちに。そして自分にだけ課せられた今の運命に。彼女は最期の力を振り絞ってでも怒りをぶちまけたいと思った。その思いに身体が反応して犬歯が伸びた。犬歯は身近な獲物に怒りのひと噛みをぶつけた。それは第一指導者(ヘル・シング)の丸太のような太い左腕に深々と突き立った。


               *

 圧倒的な力で蹂躙(じゅうりん)する快感はいいものだ。殺戮(さつりく)の調べに誘われながら夢見心地でフィールドまでの長い廊下を進む始祖(ごせんぞ)はそう思わずにはいられなかった。しかも蹂躙(じゅうりん)する相手は強ければ強いほどいい。強い者は弱い者を踏みにじる力だけでなく、この世に存在する唯一の美徳である邪悪さを必ず兼ね備えているからだ。そして邪悪な血は旨い。身も心も酔わせるほどに美味であるだけでなく、無限の活力をも授けてくれるのだ。だから(いにしえ)より悪人の血を好んで食してきた。悪人が居なければ、わざわざ悪人を作り上げてでも、その血を存分に賞味してきたのだ。目の前のフィールドは十数世紀ぶりに悪人どもで満ち満ちている。さっき子孫の小娘と作った吸血奴隷(バイターズ)の何十倍もの数だ。久し振りに浴びるほど痛飲と洒落(しゃれ)こもうか。

 あのナナクサの心にも、やっと邪悪への入り口である激しい怒りが芽生えたことでもあるのだから……。


               *

 エイブはレン補佐長の背後から棒状の操作装置を奪い取った。だが補佐長に組み付かれ、再びその場に倒れ込んだ。二人は一つの玩具を取り合う幼児のように屋上の床をゴロゴロと転げまわった。レン補佐長はエイブの背中の傷口を手で()きむしるように(えぐ)った。エイブの口から苦痛の声が漏れ、その拍子に操作装置が彼の手を離れて屋上の床に開いた大穴の淵に転がった。それを見たレン補佐長とエイブは我れ先に装置に手を伸ばし、もみ合ううちに二人とも大穴に落ち、(かろ)うじて両手で淵を(つか)んで落下を(まぬが)れた。しかし装置は彼らの手から数十メートル下のフィールドへ落下していった。


               51

 長い旅の道中。

 笑ったり、ふざけ合ったり、危険に遭遇してヒヤリとしたり、そして時には喧嘩をしたりと色々なことがあった。ジョウシはいま置かれた状況で、そんな場違いな思いに駆られる自分がいることに驚きと不可思議さを感じていた。もちろん悲しみもあった。ジンジツを失った悲しみを思うと、今でも胸が張り裂けそうになる。でもこれから味わう悲しみはどうだ。まるで他人事のようではないか。お祭りの村芝居を見ているようで、まったく現実味がない。ジンジツを失った衝撃でいつの間にか悲しむ心が麻痺してしまっていたのだろうか。それとも本当の悲しみを感じることができないほど自分は冷たい心の持ち主なのだろうか。いや悲しみよりも大きな安らぎがそれを乗り越えた先にあると信じるから平然としていられるのか……。では、その安らぎはこれから味わう喪失感も十分に埋めてくれるものなのだろうか。晴れて大人の仲間入りを果たしたとき。生涯において心の均衡を(たも)一助(いちじょ)となってくれるものなのだろうか……。たぶん、そんなことはわからない。大人になり、十分に歳を重ねたところで自分にはわかりそうにもない。だが今やるべきことはわかる。今度は人任(ひとまか)せにせず、自分がやらねばならないのだ。

 ジョウシの前には今にも息を引き取ろうとしているチョウヨウと彼女の抱きしめて悲嘆にくれるタンゴがいる。ただ一つ違うのは二人を(おお)う黒い(もや)の存在だ。その(もや)は呼吸をするように濃くなったり薄くなったりを繰り返し、二人の仲間を著しく(むしば)んでいる気がする。事実、(もや)が濃くなると二人の表情は(けわ)しくなり、何かに耐えているように(ゆが)むが、薄くなると反対に顔の(けん)が取れて気の置けない仲間であることを思い出させてくれる。間違いなく二人はこの黒い(もや)に悪影響を受けているのだ。しかもこの邪悪な存在を自分はどうすることもできない。

 ジョウシは二人の(かたわ)らに片膝をつくと自分の見解を手短に述べた。(もや)が薄くなるとチョウヨウはひらひらと片手を振って了解を示したが、タンゴは口を真一文字に結んで首を左右に振るばかりだった。

「タンゴ」ジョウシは大男を見つめた。「どのような血を使うかは、もはや関係あるまい。問題なのはお前たち二人に()りつきし、この黒き(もや)じゃ。これがお前たちを汚染しておるのは間違いなかろう。じゃが、我れはこれをどうすることもできぬ」

「言うな……」

「チョウヨウもそれがわかっておるからこそ自ら命を絶とうとしたのではあるまいか。それにナナクサが闘技場の中で助けを求めておるのじゃ」

「ナナクサが……じゃぁ、ファニュは?」

 苦しい息の中で仲間を心配するチョウヨウにジョウシは「わからぬ」と正直に答えた。

「ファニュは……あの娘はあたいが、ここへ戻れって()きつけたんだ……」

「自らを責むるでない」

「責めてなんかないよ」

「では、なんじゃ?」

「まだ責任があんだよ、あの娘に……」

「我れらは皆そうじゃ」力なく(こた)えたジョウシは、意を決してチョウヨウの目を見据(みす)えた。「お前が造ったという怪物どもじゃが、ここにいる人間たちには目もくれずに闘技場に向かっていきおった。で、お前が自分の胸を貫いたときじゃが、あの怪物どもも胸を押さえて苦しみだしおった。おそらく、お前自身と深きところで繋がっておるのじゃろう」

「あんたもそう感じたかい」次にチョウヨウは同意を求めた。「だったら、あたいは仲間を助けることができると思わないかい?」

 タンゴはジョウシの肩を(つか)むと首を左右に振り、これ以上言うなと無言の懇願(こんがん)をした。彼にもその方法がわかったのだ。もちろんジョウシにも。

「じゃぁ、頼めるかい?」

 ジョウシは(うなず)くと家宝の純銀製のナイフを(ふところ)から取り出した。そして目の前のタンゴの目を見た。タンゴが崖から滑落して瀕死のとき、彼の幼馴染(おさななじ)みのナナクサに楽にしてやるように(うなが)したことがあった。いま思えば偉そうなことをナナクサに言いながら、実のところ自分にはそれを実行するだけの勇気がなかったのだ。だから、あんな残酷なことが平気でナナクサに言えたのだ。ジョウシは自分のズルさを恥じた。だが今度は自分が仲間に責任を果たしてやる番だ。

「タンゴ」ジョウシは大男の目を見つめた。「お前から想い人を奪う我れを一生涯、憎み続けよ」

「言うな……」

「いいや。お前にこれをさせるわけにはゆかぬからじゃ」ジョウシはナイフの()を握り締めた。「もしさせることができたとしても、それでお前は自分自身を永遠に許せなくなるであろう。それ(ゆえ)これだけはお前にさせるわけにはいかぬのだ」

「それは」タンゴはジョウシのナイフを握る手を押し止めて、ゆっくりと左右に首を振った。「それは君も同じだろ、ジョウシ」

「これは我れの務めじゃ……」

「わかってる。いや君に言われるまでもなく僕にもわかってる。でも、それは君の務めじゃない……」

「タンゴ。お前はなにを言うておる?」

「すまなかった、ジョウシ。この黒い(もや)は強くてしつこい。それにとてつもなく邪悪だ。こいつに魅入(みい)られてる限り、チョウヨウを助けることなんて絶対にできないと思う。僕にはそれを認めるだけの強さがなかったんだ。それにこいつは僕も支配下に置いてる。そう感じるんだ。いつまた暴走するかって不安で仕方ないよ」タンゴはジョウシの頭越しに遠くの高層建築群に目をやった。「だから、チョウヨウと一緒に闘わなきゃいけないと思うんだ。黒い(もや)は、どちらか一方が残ってれば、また再生してしまうみたいだからね」

 ジョウシは目の前の大男の瞳の中に、(はる)か後方の建物群の屋上で自分の身体を焼いた巨大な反射鏡(ヒートレイ)が無数に首をもたげつつあるのを見た。

「止めろ、タンゴ。ならぬ!」

 タンゴの意図を察したジョウシが()かさず止めたが、今度はタンゴがジョウシを言い含める番だった。

「もう決めたんだよ。これしか方法はない。だから君は手を出さないでくれ」タンゴは微笑んだ。「心配しなくても大丈夫。強い奴のやっつけ方なら、ずいぶん前に君から聞いて知ってるから」

 タンゴはジョウシが止める間もなく広い胸にチョウヨウの身体をもたれさせたまま、器用に自分の上半身の衣服を引き裂いて()ぎ取った。そしてファニュに贈られた十字架のペンダントを外し、それをジョウシに手渡した。タンゴの姿にジンジツのそれが重なった。

「それ。ファニュに返してやってくれ」

「さぁ」とチョウヨウ。「もう行きなよ、ジョウシ。ナナクサが待ってる……」

 ジョウシは二人の顔をただ見つめることしかできなかった。見つめながら二人の顔が視界の中でぼやけた。彼女は時間を無駄にせず、周りの人間たちに向き直ると誰もいない建物を探して、なにがあっても中で隠れているように伝えた。しかし、それでも動こうとしないので「早く行け!」と追い立てた。栗色の髪の少年は最後までその場を離れようとしなかったが、やがて人々の後を追った。

 ジョウシは空を見上げ、欠けがえのない二人の仲間との別れがもうすぐそこまで迫っていることを悟った。彼女はいま一度振り返ると二人の後ろ姿を脳裏に焼き付けた。もう声は掛けなかった。ジョウシが闘技場に入ってすぐの物陰に身を(ひそ)めたとき、雲の切れ目から放たれた陽光が二十枚を超える大きな鏡で即座に跳ね返され、その集光された輝きがタンゴとチョウヨウの身体を包み込んだ。

 ジョウシは吹き上がる炎の音に混じって二人の悲鳴が聞こえたように感じた。そして彼女は他人事のような悲しみや、それを乗り越えた先に得られるはずの安らぎなど、すべてまやかしなのだと痛感した。

 人目は無かったが、ジョウシは幼子のように肩を震わせて泣いた。そして泣き終わると涙を(ぬぐ)い、二人の形見になった十字架を首から()げると残った仲間を助けに向かった。

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