遥かなる記憶の旅
52
始祖は遂に戦士たちの精神的支柱ともいえる闘技場内に足を踏み入れた。しかし、その感慨に浸る間もなく、全ての吸血奴隷が目の前で一斉に死に絶える場面に遭遇して苛立ちを禁じ得なかった。
体中にできた火ぶくれを掻きむしりながら苦しみ悶えて死んでいく吸血奴隷を見るまでもなく、始祖にはその創造主であるチョウヨウの死に様が手に取るようにわかった。なぜなら子孫二人の体内に残した自身の残滓が、彼らの身体ごと忌々しい陽光に焼き払われたことを瞬時に感じ取ったからだ。それにしても始祖である自分の一部を巻き込むとは何と不埒で愚かな滅び方であろうか。少し前にあの小娘の身体に戻っていたところを不覚にも陽光に焼かれ、その激痛を共有してしまうという恥辱を味わったばかりなのに。
だが、まぁいい。吸血奴隷や子孫の身体に残した自身のほんの一部など失ったところで、そんなものは大昔の舞踏会で生意気な貴婦人に横面をはり飛ばされた時の驚きほどのこともない。ただ自身の一部が滅びる前に危難からうまく逃れ去れなかった事実だけは無性に腹が立った。腹が立って苛立つと忌々しくも人間と同じように腹が減ってくる。その事実が始祖には、またいたく気に障った。怒気が空腹を刺激し、始祖は手始めに近くにいた二十人ばかりの屈強な戦士たちを血祭りに上げることにした。
戦士たちの眼には闖入者である始祖は狩場を無防備に淡々と歩いているだけの優男にしか見えなかった。だが、その身体の一部は目に見えないほどの薄い幕となって既に空気中に溶け広がっていた。不運な犠牲者たちは見えない手に掴まれたかと思うと、空中高く持ち上げられて一瞬で身体を握り潰された。悲鳴を上げる間さえなかった犠牲者たちの身体からは水の中に垂らしたインクのように、血液はおろか、身体中の全ての体液や水分が血煙となって一滴残らず空気中に絞り出された。しかし、それもすぐに見えなくなった。始祖の溶け広がった巨大な透明幕に吸収されたのだ。犠牲者たちの死体は幕から解放されると次々と石畳に落下したが、防具と武器が立てる乾いた音しかしなかった。あらゆる方向から瞬時に圧縮された身体は幼児ほどの大きさにミイラ化しており、乾いたタオルほどの重さしかなかったからだ。だが、そのミイラも暫くすれば再び息を吹き返し、始祖直属の吸血奴隷として新たな犠牲者を量産してゆくはずだ。
そんなミイラを尻目に、怒気と空腹を幾分か収めた始祖は再び歩き出した。やがて前方に横たわる大きな死体に行き当たると煩わしそうに手首を振って埃を払う仕草をした。その瞬間、象の二倍はある人造強兵の巨体は弾かれたように宙を飛び、数枚の鏡面モニターに激突すると地響きを立てて、破片とともにフィールドに落下した。人造強兵の死体も火ぶくれで覆われているところをみると、多くの吸血奴隷に襲われ、自らもその仲間となったが、創造主であるチョウヨウの死が引き金となって、これもまた必然的にその場で滅びたものと思われた。
突如現れ、人間離れした強大な力を示した人物に度肝を抜かれた戦士たちは為す術もなくその動向を見守った。彼らは生き残った千人ほどの戦力では相手に全く太刀打ちできないことを本能的に察知したからだ。
しかし静まりかえったフィールドで大声を上げて暴れまわっている者が、たった一人だけ存在した。ひときわ大きな身体を持つ第一指導者だった。始祖はフィールドに入って初めて歩みを止めると、その無様な姿をしげしげと眺めた。そして先程までの怒気と苛立ちが嘘であったかのように相好を崩した。そのとき始祖は大昔に見た子供用アニメのあるシーンを思い出していた。それは自分が皆殺しにした若いヴァンパイア・ハンターたちが、たまたまアパートの居間で時間潰しに観ていた他愛のないものだった。間抜けな釣り人が釣り上げた魚に指を噛まれて必死に振りほどこうと滑稽な努力をするだけのシーンだったが、目の前で繰り広げられているのが、まさにそのシーンを再現したものにそっくりだったのだ。
第一指導者は左腕に喰らいつくナナクサを振りほどこうと懸命に彼女の身体を振り回したり、右手の剣で、その身体を何度も刺し貫くのだが一向に埒があかないまま空しい一人ダンスを繰り広げていた。そして第一指導者の左腕にぶら下がるナナクサの身体はピラニア並みにしつこく食い下がっているだけでなく、剣で刺し貫かれた傷は元より、失われた左腕すらもう完全な再生を果たしていた。第一指導者の持つ比類なき悪の血がヴァンパイアの再生能力を凌ぐ強大な力を彼女の身体に注ぎ込んだとしか考えられなかった。
「さて」始祖はこみ上げる笑いをかみ殺した。
「お遊びはそれくらいにして、そろそろ我が求めに応えるがいい、ナナクサ……いや。ナナ・遠野・ジーランド。わが伴侶よ」
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最後の力を振り絞ったひと噛みはナナクサが想像すらできないものを彼女の内にもたらした。
噛んだ瞬間、熱湯を注ぎ込まれたような喉の痛みとともに、むせ返るほど強烈な血の刺激臭が口中に広がった。ナナクサは反射的に腕から口をもぎ離そうとしたが不可能だった。吸血による熱い痛みと刺激臭はすぐに影を潜めたので、次に彼女は鼻腔と食道をきつく絞めることを即座に考えた。人間の血など。特に目の前の残虐非道な者の汚らわしい血など一滴たりとも身体に取り込みたくはなかったからだ。だが、それも無駄だった。鼻腔と食道を絞めても相手の腕に深く差し込まれた彼女の牙自体が乾ききったスポンジが水を吸い取るように食道や胃を迂回して彼女の身体の隅々にまで急速に邪悪の血を撒き散らし始めたからだ。
細胞の一つ一つに宿った生き物の記憶。
普段は厳重に仕舞いこまれて決して姿を現すことのない歴史の銘板は強い衝撃が鍵となって掘り起こされることがある。衝撃が強ければ強いほど、また揺れ幅が大きければ大きいほど、深く細胞内に埋め込まれたそれが次々と頭をもたげては白日の下に晒されることになる。たとえ本人が望むと望まざるとに関わらず。
*
第一指導者の血が鍵となってナナクサの中に深く眠っていた前世の記憶が鮮明になりはじめたとき、彼女は闘技場に開いた大穴から小さな物体が自分に向けて落下してくるのを見た。物体は落下してくるにつれて黒い棒状の物体であることがわかった。そして黒い棒を追いかけるように、それよりはるかに大きい二つのものが同じ軌道を通って落下してきた。ナナクサはそれらが人であることをすぐに理解した。しかし彼女の眼が脳に送ったのは、その情報が最後だった。ナナクサは眼の中で幾つもの星が眩しく瞬いたかと思う間もなく気が遠くなった。どれくらい失神していたかはわからなかったが、気が付くと、いつの間にか彼女の身体はさっきまでいた闘技場ではなく、真っ青に晴れ渡る綺麗な空の中に浮かんでいた。身体がふわふわして自分のものでないような違和感に襲われた。地上に降りたくて下を向くと見たことのない色鮮やかな光景が眼下に広がっていた。そこには城塞都市はおろか、小さな頃から見慣れていた見渡す限りの氷原と所々に顔を覗かせる岩塊はどこにもなく、一面を覆い尽くす様々な大きさの建物群。遠くに見える緑の山々や森林。そして地平線の彼方まで延々と続く水……いや、海があった。緑……森林……海……。昔話で聞いたことしかなかったものの単語がなぜか目の前の景色それぞれと緊密に繋がった。どういうことか、さっぱりわからなかった。パニックに襲われたナナクサが再び目を上げると、真っ青に晴れ渡った夜空だと思っていたものが不意に夜空でないことに気付いた。そこには美しい光を放つ月や星々の姿さえなかったからだ。そこにあるのは強烈な光を放つただ一つの光源。太陽があった。咄嗟に両目を庇ったナナクサはその拍子に失速し、大空から地上へと真っ逆さまに墜落していった。止める方法など思いつかなかった。目の前にアスファルトの地面がぐんぐん迫ってきた。
もの凄い衝撃。
深い闇と静寂……。
目を開いたナナクサは荒い呼吸音が自分のものだと気付くまで暫くかかった。そして彼女は自分がまだ生きていることを知った。周りに頭を巡らせると、そこは道路ではなく白い壁で囲まれた狭い室内であることがわかった。頭がガンガン痛む。それでも倒れこんでいた床からなんとか立ち上がると、今度は足がふらふらしてよろけたので、目の前のでっぱりに両手をついた。そして顔を上げると眼の前に大きな鏡があった。
「だれ?……」
ナナクサは鏡の向こうに見える、自分そっくりの女にそう尋ねた。
*
「早くしてよ、ナナ」
声の方を振り向くと、健康そうな褐色の肌をした女が戸口に立っていた。混乱が解けないナナクサは自分をナナと呼ぶ女に「えぇ」と、曖昧に応えて鏡から視線を外して室内を見回した。白を基調としたその小部屋は質素で清潔そのものだった。しかも奥の壁際には中身が空っぽの大きな水桶が付いており、驚いたことに見たこともない材質で壁と一体成型されているようだった。
「本当に大丈夫?」
「えぇ、問題ないわ……」
「問題ないようには見えないけど」
女はバスルームをしげしげと眺めるナナクサの横に並ぶとスエットの袖を捲りあげて鏡の下の洗面台の栓をひねった。蛇口から冷たい水がほとばしり出た。ナナクサは小部屋の観察をやめると女に視線を戻した。
そう。女が身を包んでいる柔らかそうな灰色の上下の服は室内着のスエットだ。そして彼女の名前は……。
「ねぇ、正直に言いなさい」女は唐突に蛇口の栓を絞めるとナナクサの顔を覗き込んだ。「薬はきちっと飲んでるの。その調子じゃ飲んでないでしょ。薬の影響で仕事に集中できなくなるのはわかるけど、それで倒れたりしたんじゃなんにもならないわよ」
「倒れたりだなんて大げさよ、ルー」
そうだ。彼女の名前はルー。
ルーシー・ギャレット。自分と同じ海棲生物専門の遺伝子工学者で、同じラボの共同研究者。アメリカ人のルームメイトで親友。そして私は……ナナ……。ナナ・遠野・ジーランド。アイルランド人の祖父と日本人の祖母を持つ二十六歳の女。そして余命四カ月の宣言を受けた身。記憶を一つ一つ手探りで確認したナナクサは、もうナナ・遠野・ジーランドそのものだった。彼女は親友にぎこちない微笑みを向けた。
「わかった、降参よ。あなたの言うとおり。薬は暫く飲んでない」
「ナナ。でも、それじゃぁ」
「薬を飲んでも脳腫瘍の進行は止められないわ。進行が遅くなったところで死ぬのが少し先に延びるだけ」再び反論しようとするルーシーをナナは遮った。「何度も話し合ったでしょ。私には時間がない。だから最後までやらせてほしいの。あと一歩よ。でも、あなたが共同研究者として不安だと言い張るなら薬を飲み続けるわ。いつも酔っぱらいみたいになってるのがお望みならね」
暫く黙っていたルーシーは根負けしたように肩をすくめると「記憶障害がひどくなったり、倒れたりする場合は薬を服用すること」と条件を出してルームメイトの希望を受け入れた。
それから二人は歯を磨き、身支度を手早く整えると急いで冷たいシリアルの朝食を摂りはじめた。ナナは固形物を口に入れて咀嚼する違和感を感じながらも、なぜそんな感覚を覚えるのかわからずに口の中の物をごくりと呑みくだした。きっと新しい抗癌剤の影響かもしれない。そう思うことにした。
「無理を聞いてもらってごめんね、ルー」
「親友の頼み事は断れないでしょ」
「あら。頼み事ならサンタクロースが卒倒しそうなほど、まだたくさんあるわよ」ナナは親友の冗談におどけて見せた。
「例えばなに」とルーシー。「スキューバダイビング。それともサーフィン。日光浴で身体を焼くってのも捨てがたいわね。まったく、ご冗談でしょ、このご時世に」
「確かにね」
ナナは乾いた笑い声を立てると窓ガラスに映るシンガポール南西端の街並みに目をやった。常夏の島国に今朝もまた雪が降り始めていた。
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防寒ジャケットに身を固めたナナとルーシーは本島から研究施設のあるジュロン島に渡るため、双方を結ぶ一本しかない道路の入口に設置された大掛かりな対テロ用検問ゲートまで徒歩で移動した。ジュロン島はシンガポール南西部にある人工島で、沖合いの島々を埋め立てて一つの島にした面積約三十二平方キロメートルの同国最大の産業のみに特化した島だった。検問ゲートで静脈認証と眼紋チェックを済ませた二人はここから二・三キロメートルの距離を専用バスで移動するのだが、バスを待つ技術者たちの多くは、今ではジェロン島の大部分を占めていた石油プラント関連施設の職員から土木建築関係のスタッフにすっかり入れ変わっていた。しかし、これは二〇二五年から本格的に始まった『ブラム氷期』の到来がもたらした余波に他ならなかった。シンガポールのように資源はないが技術を持つ比較的小さな国は小回りが利く分、世界の国々と比較するとまだましだった。世界では大国や小国、先進国や途上国の別なく寒冷化による農作物の大幅な減産。日々、一千万単位を優に超える餓死者と凍死者を出すなど、既に圧倒的大多数の人類には餓死か凍死。もしくは生き残りを賭けた国同士の紛争で命を落とすかの三者択一の道しか残されてはいなかったからだ。そんな各国の危機的情勢の中にあって、ジェロン島だけが、なぜ土木技術スタッフの大幅増員をし続けるのかに対する答えを持つ者はいなかった。だから今なお細々と生き残っているネット上では多国籍企業群がジェロン島の地下に建設した原油備蓄用の巨大洞窟を人類最後の楽園に改造して、自分たちのために秘密裏に運用しはじめているという噂まで、まことしやかに囁かれる遠因にもなっていた。だが、そうはいっても検問ゲートでバスを待つ一団にそんなことは、さして重要なことではなかった。いま彼らが重要と考えるのは、一刻も早く暖かい空調の利いた研究室やプラントに入り、そこで熱い紅茶かコーヒーで暖をとるという一点のみだった。
寒さを紛らわせるため、ナナが足踏みをし始めたとき大型のシャトルバスが降りしきる雪の中から現れた。ナナはルーシーと一緒に技術者たちに混じってバスに乗ると車内後方の二人掛け用席に腰を下ろした。雪は激しさを増して車窓から外の景色すらまともに見えなくなってきた。二人は最後の技術者が乗り終わるまで車内に吹き込む身を切る冷気に耐えねばならなかった。
「東欧の内乱が西側にまで拡大……」発車までの時間潰しに携帯パッドを開いたルーシーが溜息をついた。「嫌なニュースばっかりだね。先週はロシア・インド連盟と中国の大規模衝突で二億の人間が死んだとこなのに。これじゃ、もうどこの国が先に核を使うか競争だね」
「不謹慎よ、ルー」
「どこが?」
「極端すぎるわ」
「私が極端すぎるって。なに甘いこと言ってんの。物の取り合いになったら人間なんて、すぐに見境なんかなくなっちゃうんだから。理性なんて所詮は夢想家のたわごとにすぎないってこと。そんなことより、マリクのメールをやっと拾えたわ」
「元気にやってるの、彼。タリサは元気かしら」
「えぇっと」ルーシーは携帯パッドの画面に目を走らせた。「ご丁寧に添付動画まであるわよ。『特別休暇を利用して、凍った海面を犬橇でピオンビーノからバスティアまでタリサと一緒に踏破したよ』ですって」
「バスティアって、コルシカ島の?」
「イタリア本島から片道九十キロはあるわね。なにをやってるんだか……相変わらず研究以外じゃ馬鹿なことしかしないわね、あの男は。それにしてもなにもそんな無謀なことにタリサも付き合わなくてもいいのに」
「でも、特別休暇が貰えてるんなら彼らの対極寒因子発現の研究が一段落したんじゃない?」
「そうね。でなきゃ研究所から放り出されたかだね、あの我がまま勝手な性格だもの」
ナナはイタリアにいる研究仲間の数々の奇行を思い出して笑い声を上げた。ルーシーは次のファイルを開いて目を丸くした。
「たいへん。嘘……まさか今日じゃないの、これって」
「どうしたの?」
「マリクとタリサの研究の出資者がここに来るわよ。私たちの研究にも興味があるんだって。しかも今日よ!」
「嘘でしょ。いまどき自由に世界中飛びまわれる人間なんているの。私たちだって本国に帰るときだけよ、飛行機が許されるのは。それに一度帰れば、今はもう出国自体を規制されちゃうし」
「超がつくほどの大金持ちは別なのよ、ナナ。世界が氷で閉ざされようが世の中の本質は変わらない。力のある者がすべてを動かす。それより、あんた嬉しくないの。研究費が増えるかもしれないんだよ」
「そりゃ嬉しいわよ。でも、大金持ちだからって緊急備蓄燃料を勝手に使って飛行機を飛ばせるだなんて」
「だから、そんなものどうにでもなるのよ」ルーシーはなおも反論しようとするナナを無邪気に制した。「しかも、この出資者は貴族様よ。腐るほどお金を持ってるのは間違いないんだから、なんとかしてそれを引き出さなきゃ。いいわね」
ナナとルーシーはバスがターミナルに着くや否や、雪の吹きすさぶ中を一目散に研究棟に駆け込んだ。そして暖をとる時間も惜しんで実験の成果を披露すべく、資料を整理して自分たちが陸棲転化に成功した海棲軟体動物のお披露目の準備に取り掛かった。
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結局、ジェロン島にいる研究員たちの中で出資者と直接対話が出来たのは数多くのグループの中で二グループの五名だけで、所長や上席研究員でさえ彼の興味が向かなければ挨拶はおろか、その顔を見ることすら叶わなかった。そんな中でナナとルーシーは自分たちの研究成果が認められたことを誇らしく思う反面、ともに選ばれたグループの中にシンガポール科学技術研究庁で自身の研究のためなら犯罪すら厭わないと噂されるほど傲慢で偏屈な奇人、ハーバート・イースト準教授が入っていたので、手放しで喜ぶ気にはなれなかった。特にルーシーなどは相互協力の名の下に準教授と行わざるを得なかった度重なる実験がナナの脳腫瘍発症の原因になったと信じて疑わなかった。とはいえ、どんな状況にあっても今回のように無尽蔵と思えるくらいの資金を有する出資者に研究の重要性を直接アピールできるのは何物にも代えがたいチャンスであることに違いはなかった。ナナとルーシーは、出資者が量子脳工学の権威である奇人との面談を終えて自分たちの研究室に足を運んでくれるのを今か今かと待ち構えていた。
しかし研究室の壁に掛けられた時計の短針が面談予定の真上から右側に大きく傾くにしたがって、喜びと期待から姿を変えた不安と苛立ちが、失望へと変わり始めてきた。ナナが淹れた四杯目のハーブティにルーシーは引き出しの奥から取り出した秘蔵のバーボンを溜息混じりに注ぎいれた。そして勧められた酒瓶をナナが手にしようとした丁度そのとき研究室のチャイムが心地よい電子音を響かせた。二人は顔を見合わせると居間のスツールから跳ねるように飛び降りた。慌ててバーボンの瓶を元の引き出しに放り込んだルーシーは、既にドアの前で来客を向けえる準備を終えていたナナに追いつくと、緊張しながらもにっこり笑うと共同研究者に頷いた。頷き返したナナは自分の掌紋と眼紋をセキュリティに認識させると、深呼吸を一つしておもむろに部屋と廊下を隔てる隔離ドアを開いた。
二人の若い研究者の前に黒ずくめのスーツを隙なく着こなした青白い肌の壮年紳士が立っていた。
「これはこれは」
それが壮年紳士の第一声だった。
皮膚からじわりと染み通るような、そのバリトンにナナは言い知れぬ不安を覚えた。彼女はそれを一介の研究者が、住む世界の異なる上流階級の人間を前にしたときの畏れからくる武者震いのようなものだと理解しようとした。だが心の片隅ではもっと根源的なところからくる警鐘に近い感覚に思われて少なからず動揺もした。そんなナナの脇腹を、業を煮やしたルーシーが肘でさり気なく小突いた。
「失礼しました」我れに返ったナナは慌てて口を開いた。「お待ちしておりました、ブロドリック卿」
「こちらこそ、ずいぶんお待たせして申し訳ない」ブロドリック卿と呼ばれた壮年紳士はそこで言葉を切ると二人の頭越しに視線をちらりと室内に走らせた。「さて。差し支えなければ早速お話をうかがいたいのですが……構いませんかな、お嬢さん方?」
「それはもう。どうぞ中にお入りください」
「えぇ、歓迎いたします」とルーシーに続いてナナ。
「ありがとう。それでは遠慮なく」
ブロドリック卿と呼ばれるこの長身痩躯の壮年貴族が経済界に俄かに登場してきたのは、つい最近のことである。新興国の財政にも匹敵する資産の持ち主が今まで脚光を浴びるどころか、社交界ですら少しも認知されていなかったのは誠に不思議なことであり、それは彼についての様々な憶測を呼ぶことにもなった。事実、マスコミだけでなく各国の信用調査機関や財務機関、果ては諜報組織に至るまでが彼自身と彼の資産の出所を徹底的に調べ上げたが、結局わかったのは未だに彼は謎多き人物であり、彼の資産自体が、過去の大多数の大金持ちたちが彼の一族に残した信託財産を相続したものだという不可思議な事実のみだった。もちろんこれを放蕩三昧に浪費でもしてくれれば充分なゴシップにはなったのだろうが、彼はその資産を慈善と研究開発の矢として、当時混迷し始めた世界に遍く撒き続けることによって、一躍時代の寵児となり、人前に滅多に姿を現そうとしない謙虚さも相まって、自身に向けられる敵意と嫉妬の目を、尊敬と羨望のそれに見事に転化させたのだった。
「少し狭いですが」ルーシーがブロドリックを部屋の奥へ促した。
研究室に隣接した居間に第一歩を記したブロドリックは清潔に保たれた空間をしげしげと見回した。
「管理が行き届いて整然としていますね。大きな成果はこんな繊細な環境からもたらされると私は信じています」
「ありがとうごいざいます。ところで私たちの研究成果を見ていただく前に、お茶はいかがですか。丁度いま炒れたところですので」
「ええ、いただきましょう」と緊張の面持ちのルーシーに返答するとブロドリックはナナに視線を向けた。
ナナの背筋に微かな悪寒が走った。しかし彼女はそれを無視して彼を居間の奥の研究室へ案内した。
「早速ですが、私たちの研究の重要性についてなのですが……」
「ナナ。まだお茶も召し上がってないわ」
「いえ」ブロドリックは右手の人差し指を軽く掲げて彼らに追いついたルーシーを優雅に制した。「今の緊迫した世界情勢を鑑みるに、お二方の研究が重要かつ緊急を要するものと考えればこそ、こうして直にお話を伺いたく思って足を運んだのです」
ブロドリックはルーシーから湯気の立つ茶碗を受け取ると口もつけずに言葉を続けた。
「なんでも、お二方は海棲生物の陸棲化に成功なさったとか」
「えぇ、そうです」とルーシーが即答した。「正確には海棲軟体動物。頭足類である烏賊の陸棲化です。陸上の動植物が絶滅の危機に瀕した今、寒さに強い彼らは人類の希望になるはずですわ」
「これですか?」
「えぇ、そうです」
三人は室内の三分の二以上を占める幾つかの水槽のうち一番奥のひときわ大きな水槽を覗き込んだ。水槽の中は、その半分の高さまで雪と氷が敷き詰められていた。
「これが今の地球表面の六〇パーセントの状況です。来年には最低でも七二パーセントが雪と氷に覆われます」
「スノーボール・アース……スーパー氷河期ですね」
「えぇ、そうです。そして凍った海では漁も思うように出来ません。もちろん大量の魚類が残っていればですが」
ルーシーが水槽横のラップトップを開いて操作すると水槽上部の照明が徐々に明るさを増していった。
「太陽灯です」ナナは、その言葉を聞いたブロドリップが、一瞬忌々しそうに顔を歪めたことには気付かなかった。「氷河期でも、まったく陽の光が望めないことはありません。私たちはそこに着目しました。この烏賊たちは雪の中に混じりこんだ少量の不純物やシャーベット状の海水からエネルギーを取り込むだけで生育できるだけでなく、光合成も行えるんです」
「さぁ、ご覧ください。やや左側の雪の中です」
ルーシーの声が合図であったかのように雪の下から六匹の二十センチほどの陸棲烏賊が、もぞもぞと雪と氷をかき分けて灰色の胴体を現すと、個々にその表面を電飾のように青く光らせ始めた。
「彼ら喜んでます」とナナが画面に見入りながら嬉しそうに口を開いた。
「海棲生物の気持ちがわかるんですか、ミス・ジーランド?」
「いえ」ナナは質問者の貴族に肩をすくめた。「たぶん、そうではないかと考えているだけです。こんな色素胞の変化は昨年まで私たちも見たことがありませんでした。恐らく遺伝子の組み合わせ過程で今まで眠っていた何らかのスイッチが入ったか、働きが未解明だった遺伝子にこのような反応をするものがあったかだと思います。いずれにしても太陽灯が点くと、こうして気持ち良さそうに日向ぼっこです」
「可愛らしいですね」
「えぇ。私たちも軟体動物にこんな感情を抱くなんて思いもしませんでした」
「いえ。彼らがではなく、あなたがということです」
久し振りに掛けられた異性からの好意的な言葉にナナは思わずブロドリックを見つめ返した。不安を掻き立てられる雰囲気が減じたわけではないが、なかなか魅力的な男だ。
「ところで」ルーシーは咳払いをすると次の説明に移った。
いよいよ本題だ。
「わたしたちはこの烏賊の再生能力の高さにも着目しています」
「再生能力……傷を治すということですか。私はこの生き物がどれ程の時間で傷を治すのか、わかりませんが」
「えぇ。ですが時間だけではありません」とルーシーはラップトップ上で別の動画画面を呼び出した。「これをご覧ください。画面上にいるのは、この烏賊たちです。私たちは、それぞれ5本、6本、8本と彼らの足を切断してみました」
「というと」
「元通りになるかどうかの実験です」ルーシーはそう告げると、動画を再生した。「もちろん成功しました。一体残らず足の再生実験に成功したのです。しかも九六時間で欠損箇所を完全再生します」
早送りされた動画の中で、高速度撮影された植物の発芽のように六体の中の四体の烏賊の足が完全に再生された。
「これを雪の中で飼えば、特定の餌もいりません。定期的に足を刈り取ればいいのです。まるで、その……」
「羊毛のように」ナナが助け舟を出した。
「羊毛ですか」
「えぇ」とルーシーは頷いた。「羊毛は食べれませんが、彼らの足は食糧になります。この氷河期に手に入る唯一無限の食糧資源です」
「なるほど。そしてこれを量産すると言うことでしたね、ミス・ギャレット?」
「えぇ。正直に申し上げて遺伝子操作で繁殖力こそ落ちてしまいましたが、私たちはその問題を必ず解決できると考えています」
「ですが」ブロドリックは納得できないように視線を落とした。「世界の人々には食べ慣れたものではないですね、この烏賊という魚は。宗教によっては、かつては悪の存在に分類したこともあるのでは?」
「まず、烏賊は厳密には魚ではなく貝類に分類されます」貴族の考えを推し量ったナナも陸棲烏賊の可能性に慌てて援護を開始した。「それに一概に食べ慣れないものでもありません。例えば祖母の国では寿司にして生で食べたりもします。もっとも生牡蠣のような人気は出ないでしょうが、加工すれば誰もが抵抗なく食べれるようになると思います」
「申し訳ありません」ルーシーも口を開いた「もしご気分を害されたのでしたら謝ります。しかし、わたしたちは……」
ブロドリックは再び人差し指を上げてルーシーを制した。「いえ。お二方は氷河期に突入した世界で人類を助けようと奮闘なさっておられるのです。賛辞がありこそすれ、それを貶すなどもっての外だ。それを忘れた私が悪かったのです。思慮が足りませんでした。どうか今以上の援助に免じて、私の無礼をお許し願いたい」
「『今以上の援助』?」ナナは身を乗り出した。「それでは私たちの研究は……」
「もちろん、大いに続けてくださって結構です。これからは金銭面だけでなく、その他に各国の許認可などもご心配なく。協力させていただきます」
「ありがとうございます。なんと御礼を申し上げればいいか!」
「いえ、礼には及びませんよ。お二方の研究をイースト準教授からも少しは伺っていたのにも関わらず、失礼なことを申し上げたのは私の方ですから」
「そうでしたか」ルーシーから笑顔が消えた。
「えぇ、先ほどお会いしたときにお聞きしました。どうかしましたか、ミス・ギャレット?」
「いえ」
イースト準教授の試作型量子脳コンピューターのバージョンアップのための度重なる脳トレースがナナの脳腫瘍発症の原因だと信じて疑わないルーシーにとって、彼の名前は浮き立った心を穏やかならざるものにするのに十分な呪詛の言葉だった。もちろん『電脳の心を培う』だか何だかの変人の実験を二人して好き好んで手伝ったりしたかったわけではなかった。しかし陸棲烏賊を生み出す過程で必要な生物間の遺伝子の組み合わせ演算とその予測。その他の膨大な理論上の処理をイーストに依頼する見返りに、親友をMRIの化物のような不快極まりない人工知能の犠牲にしてしまったという忸怩たる思いをルーシー自身は未だに持ち続けていた。
「実験は持ちつ持たれつということですわ、ブロドリック卿」ナナは自責の念に駆られているであろう親友を気遣って代わりに口を開いた。「特にそれが重要であればあるほど。それで互いの研究に得るものがあれば私たち学者には他に何も言うことはありません。前に進み続けるだけです。ちなみに準教授からは他にどのようなことをお聞きですか?」
「同僚の評価が気になりますか?」
「えぇ少し」本当は凄く。しかしナナは何とかその思いが表情に出るのを抑えた。
「では正直に。『研究の着眼点は素晴らしいが、実用段階までには改良の余地が多々残されている』と評価されていました」
評価は評価でも、これでは完成には程遠い欠陥品との酷評と同じではないか。傲慢で偏屈なイーストらしいといえばそれまでだが。ナナとルーシーはその評価にそろって鼻白んだ。ブロドリックがいなければ、やり場のない怒りと反感で二人とも朝食を床に吐いてしまうところだった。
「ですが私の見る限り、準教授の研究もまだまだ改良の余地はありそうでしたね」
「『まだまだ』ですか?」とナナは、目の前の貴族の言葉を繰り返した。
「そう。まだまだです。だからお二方を含めて皆さんには今後も私の援助が必要だということです」ナナの気持ちを知ってか知らずか、ブロドリックは微笑んだ。「特に有望な研究にはですよ。さて。お忙しいのに長居をしてしまいました。次には完成に近づいた成果を見せていただくことにしましょう」
失敗とは言えないまでもスポンサーの興味を失わせずに済んだようだ。それどころか今以上の援助を取り付けることもできた。
こうして、魅力的だが、どこか言い知れぬ不安に駆り立ててくれるスポンサーは去っていった。しかし彼が去っていった日からナナは奇妙な夢を毎日見るようになった。
*
見渡す限りの緑の大地を遙か眼下に望み、自由に大空を滑空する夢。妙に鮮明なその夢の中でナナは大空に漂う真っ赤な風船を懸命に追いかけては、それを掴み取ろうと必死に手を伸ばす。気流に翻弄される風船は彼女の手をすり抜けてゆくときもあれば、運よく掴むことができることもある。しかし、やっと掴むことができても、その瞬間に風船はシャボン玉のようにぱっと弾けてしまう。その反面、掴むことができた日は一日中気分よく過ごすことができた。いや、気分よくというより末期の脳腫瘍患者であることを忘れてしまいそうなくらい心と身体に力がみなぎって、すこぶる調子がいいのだ。そんなことが、もうひと月は続いていた。ブロドリックとの面談の後、ナナとルーシーは研究室に毎日泊まりこんで陸棲烏賊の更なるデータ収集と生態観察に明け暮れた。その間、ルーシーがアパートに戻っても、自分にはもう時間が残されてないのだと言い張って、ナナは戻るのを拒否して研究室に籠りつづけた。そして今日は着替えを取りがてら、久しく帰っていないアパートに戻っていた。
アパートの中は氷点下近い室温だというのに、どこも黴の匂いがした。ナナは洗濯物を洗濯機に詰め込むだけ詰め込むとスイッチを入れた。有難いことに、ここでは電気と水道だけはまだ生きていた。次に彼女は台所で冷蔵庫を開けてみた。さして中身はなかったが、帰宅してから喉の渇きを覚えていたのでトマトジュースのボトルを引っ張り出してコップに注いで飲み干した。さして旨くはなかったがお代わりを注いだ。そこではじめてラップトップの呼び出し音が鳴っているのに気が付いた。ルーシーは二週間前から南スマトラ沿岸から少し内陸に入った新たな研究施設で陸棲烏賊の放牧実験に出かけていた。ナナは実験の過程を知りたかったので、いつでもルーシーと話せるようにしておいたのだ。
ナナはコップを持って居間から狭い自室に戻ると、ベッドの上のラップトップに顔を近づけた。通信事情の悪化のため画像の乱がしばらく続いたが、すぐに目の前にやつれ切ったルーシーの顔が現れた。そして親友の横には同じようにやつれ切った友人のマルクの顔も見えた。彼は婚約者のタリサとイタリアで対極寒因子発現血清の最終試験中のはずだが……。
「ハイ、ルー。ハイ、マリク」
「そんな……ナナ……」
画面から戸惑いと怯えを滲ませたルーシーの声が漏れた。ナナは思わず聞き返した。
「どうしたの、ルー?」
マリクがルーシーの耳元で何か囁いたがナナには聞こえなかった。だが彼の顔は引きつって蒼白だった。
「ねぇ、いったいなに?」
「いえ。何でもないわ……」
「嘘よ。何もないわけないわ。どうしたの?」
ナナの問い掛けは沈黙で返された。
「ねぇ。ふざけてるんなら怒るわよ」ナナは彼らの沈黙の理由をあれこれ考えてみたが行き着くところは一つだった。「実験ね。そうでしょ……正直に話してちょうだい。実験で烏賊たちに何かあったのね?」
「何もないって言ってるだろ!」
突然怒りを爆発させたマリクが画面に割って入った。冗談好きで温厚な彼とは思えない言動と表情に、ナナはますます疑念を募らせた。
「何もないわけないじゃない!」ナナも声を荒げた。「第一、あなたはタリサとイタリアでまだ実験中のはずでしょ?!」
タリサの名前を耳にした途端、マリクは「くそ」と呟いて画面からフレームアウトした。残されたルーシーの目に涙が浮かんだ。
「いったい、どうしたっていうのルーシー?」
「本当にわからないの、ナナ?」
「えぇ。わからないわ、説明して」
フレームの外から「無駄だ」というマリクの吐き捨てる声が聞こえた。ルーシーは声の方をチラリと見やると意を決して口を開いた。
「烏賊たちの放牧実験は順調に進んでるわ。それだけは確かよ、だから安心して」
「本当に?」
「えぇ、本当よ……でもね……」
「だから、いったい何なのよ?!」
ルーシーは踏ん切りがつかないらしく、しきりに唇を舐めては、ちらちらと画面の中を覗き見ていた。
「お願い。話して」
「タリサが死んだの」それだけ言うとルーシーは目を伏せたが、大きく息を吸うと再び画面に向き直った。「いえ。死んだんじゃなく私たちが滅ぼしたの。そうせざるを得なかったから」
ナナの沈黙は長かった。やがて彼女は怒りに顔を強張らせた。「なんの話なのルーシー。冗談でも酷すぎるんじゃない?」
「冗談でこんなこと言えるわけないでしょ。彼女はね………タリサはヴァンパイアだったの。多くの人が彼女の犠牲になったわ。こんなご時世だもの、仲間の研究者に犠牲が出始めるまでマリクも気付かなかったのよ。もしかしたらタリサ自身も自分が何をしてるのか、わかってなかったかも……」
「いったい何の話をしてるの。せっかく繋がった通信なのに唐突に下らないお伽話なんて、いくらなんでも付きあってられないわよ」
「まだわからないの、ナナ。ブロドリックよ。奴はヴァンパイアだったの。タリサを仲間に引き入れて」そこまで言うと画面の奥でルーシーは涙をぬぐった。「タリサはスマトラまでマリクを追いかけてきた。そして私たちに滅ぼされて枯葉みたいに燃えて灰になったわ、弱々しい薄暮の下でね。そんな死に方ってあると思う。冗談なんかじゃないのよ」
「そんな話、信じられないわ」
「あなたの周りでも行方不明者が出始めてるんじゃないの、ナナ?」
「ずっと研究室から出てないから、わからないわ」
「ネットのニュースは、まだあるでしょ?」
「最近のアクセス状況の悪さは知ってるでしょ。どんどん悪くなってるのよ。それに研究ばかりだったから」
ルーシーは再び大きく息を継ぐと、自分を納得させるかのように何度か頷いてみせた。
「あなたが、いつからそうなったかはわからない。でも少なくとも私は……私はそうなってない。もし、あなたに人間らしい心がまだ残ってるのなら……あぁ。親友にこんなことを言うなんて……でもお願い。まだ、あなたがあなたなら自殺して。手遅れにならないうちに」
「もう切るわ。付き合ってられ……」
「ナナ」ルーシーはナナを遮った。「たぶん、あなたは手にコップは持ってるはずよね。それは私にも見えるわ。でも、それだけ。宙に浮いたジュース入りのコップだけよ、私に見えるのは。声は聞こえるけど、あなたの姿が見えない。画面に姿が映らないのよ、あなたはもう魂を持たないヴァンパイアだから。さよなら私の親友。大好きだったわ……」
ルーシーは泣いていた。そしてナナは一方的に切れた通信画面を暫く見つめていたが、ラップトップを畳むとベッドから降りてバスルームに向かった。そして洗面台に据えつけられてる鏡の曇りを手で拭うと食い入るように覗き込んだ
彼女の喉からクックックッと声が漏れた。それが笑い声なのか嗚咽なのか、ナナ自身にもわからなかった。研究棟では毎朝顔も洗っていたのに鏡さえ、まともに見なかったのはなぜなのかもわからなかった。ナナは叫び声を上げるとバスルームの壁しか映し出していない鏡を素手で叩き割った。血が飛び散るほど何度も鏡に向かって手の平を打ちつけた。ガラスで切れて血が流れ出たが、すぐに傷が塞がって元通りになった。その不思議な光景に心を奪われている彼女の頭の中に声が響いた。声はしきりに部屋へ招き入れるように要請していたが、ナナはそれを無視した。声は要請が聞き入れられないことに心底驚いているようだった。しかし諦めず執拗に命令してくる。
ルーシーの言うようにブロドリックがヴァンパイアで、自分を仲間に引き入れたのだとしたら、これほど腹立たしいことはない。いや。そもそもこんな馬鹿らしいことが現実であるわけがない。きっと脳腫瘍がもたらす白日夢の中にいるのだ。だが自分にそう言い聞かせようとするナナの頭の中では「部屋に入れろ」となおも命令する強圧的な声が響いている。頭の中に響く声がどこからするのか不思議とナナにはわかった。彼女は声の主に怒りをぶつけようと急いで居間に戻ると道路に面した窓を勢いよく押し開けた。雪が深々と降り続く中にブロドリップが佇んでいた。
やはりそうか。ここまできてナナもやっと納得した。人間なら三階の窓の外の空中に立てるわけがないのだから。
「そなたのような娘は初めてだ」
ナナは古風な言い回しをするヴァンパイアのブロドリックを無言で激しく睨みつけた。
「さぁ、そろそろ部屋へ招き入れてはくれまいか。でないと、この寒空で凍えてしまいそうだ」
自分の言ったことが面白くて堪らないというように寒さを感じないヴァンパイアは笑い声を漏らした。それでもナナは彼を無視して、ただただ憎悪を込めて睨み続けた。
「私はお前が何を怒っているのかわからぬ。だが、それ以上にお前が我が命に、なぜ背けるのかが謎なのだ」初めて会った時の謙虚さは、もう欠片も残っていなかった。ヴァンパイアはなにか閃いたかのように自分のこめかみを指先でトンと突いた。「死の病がそうさせるのか。いやいや、そうではあるまい。以前、お前と同じ病の者もほんのひと噛みで我が傘下に馳せ参じたのだ。ではなぜだ?……」
「あんたが嫌いだから。憎いからよ」
すぐさまヴァンパイアは人差し指をたててナナを制した。
「そなたの気持ちなど関係ない。多くの下僕同様、お前は既に身も心も我がものだ。だが事実は違う。それを、そなたが理解しようとせぬのが誠にもどかしい。既にそなたは人ではない。招待の言葉など端から無意味なのだ。しかし我が心が部屋に入れぬと警鐘を鳴らしておる。なぜだ。一族の部屋になぜ始祖たる我れが入れぬ。人の部屋のようになぜ結界を感じる……」ヴァンパイアはニヤリと笑って鋭い犬歯を覗かせた。「だが、さればこそ面白い。お前は特別な何かを持っておるようだ。この上は下僕とせず、伴侶として迎え入れ、その謎を解いていくとしよう。これは長い時の中でも最良の暇つぶしの一つになるはずだ」
ナナはヴァンパイアが言い終わらないうちに怒りに任せて窓外の彼に飛び掛かっていた。しかしその人間離れした体当たりも難なくかわされ、遥か下の凍ったアスファルトの路面に激しく叩きつけられた。身体の中で骨の砕ける音と内臓が押し潰される音がした。ナナは全身を貫く激痛に咳き込むと雪の上に大量に吐血をした。
「なぜ我れに牙を向けられる。なぜ己の運命に抗える?」
ナナの耳元でブロドリップの声がした。
「あんたは友人を殺した!」
ナナから流れ込んだタリサのイメージにブロドリックがすぐさま反論した。
「あれを滅ぼしたのは人間だ。お前のかつての友人たちではないか」
「じゃぁ、やっぱり事実なのね。ヴァンパイアにされなきゃ彼女は死なずに済んだ!」
「人間のままなら、いずれはこの氷河に押し潰され、すり潰されて死んでゆくのだ」
「人間はそんなに弱くないわ!」
「買い被るな。弱いからこそ他人を押し退けてまで食糧に群がり、自分だけ暖をとろうとするのだ。氷河期が訪れ、どれほどの人間が死んだことか。どれほどの国が反目し合って滅ぼしあっておることか」
「許せない」
「何が許せぬ……友が滅んだことか。それとも人の文明が滅ぶことか。まさか我が一族にお前を迎えたことではあるまい。ヴァンパイアになろうと、お前はナナ・遠野・ジーランドのままだ。変わったのは、お前の周りだ。なぜなら今もお前は人間のために研究を続けようとしておるではないか。翻って親友たちはどうだ。友人を滅ぼし、あまつさえ、お前を見捨てた。違うか?」
「ルーシーが私と関係を絶ったのは、ヴァンパイアが人間を襲うからよ。私がその化け物になったからよ!」
「左様。されど我れらが殺めるのは悪人のみ」
「嘘よ!」
むろん、嘘だった。
しかしナナの眼前にいるヴァンパイアが古来より悪人の方を多く餌食にしていたのは紛れもない真実だった。なぜなら悪人の血は、より強い力を授けてくれるだけでなく、善人より遥かに刺激的で美味だったからだ。それゆえに彼は長い休息から目覚めるたびに世界のどこかしこに内紛の芽を見つけては、それを育てたり、疫病を流行らせては、人心を荒ませ、悪心の量産と高濃縮化に腐心してきたのだった。
「人間の本質は悪だ。異質というだけで残酷な仕打ちを何の呵責もなくやってのけられる。まずはお前もその事実を知らねばならぬようだ。そして我が命に従わぬ愚かさを悔い改めるのだ、我が妃よ」
ヴァンパイアの姿が風雪の中に掻き消えた。
暫くして派手に警告灯を点滅させた警察車両がアパートの角を曲がって通りに何台もなだれ込んできた。車両はどれもナナの前で急停車するや否や、重武装の警官を次々と吐き出すと血まみれのナナに眩しいライトと銃を向けた。
「さぁ、どうする。あの者たちはお前を害しようとしているぞ。だが、そうさせなくするのは簡単なはずだ。ほら、夜ごと風船を掴んだように」
ナナの頭の中にヴァンパイアの声が響いた。その途端、毎晩自分が見ていた夢が意味するものを彼女は直感的に理解した。空に漂う風船は見たままのものではなかった。逃げ惑う人間であったということに。
ナナの目は涙と後悔で曇りはじめた。彼女は銃を向ける警官たちに両手を上げて敵意がないことを示しながらも、自分が犯した罪の大きさに恐れおののき、激しく震えはじめた。
「容疑者は怪我をしてるぞ」一人の若い警官が小声で横の同僚に囁いた。
「黙ってろ、シン」若い同僚を制した年かさの警官はナナから目を離さず、抗弾ベストに装備された無線機に向かって報告した。「通報通り、臨海居住区裏で容疑者を発見。複数の目撃情報と完全に一致している」
「怪我をしてるのか。手当ては必要か?」
シンと呼ばれた若い警官がナナに再び呼びかけるとナナは黙って首を横に振った。既に痛みは消えていた。ヴァンパイアの治癒力は短い時間の間に三階から転落した彼女の身体を完全に修復していたからだ。もちろん死の病であった脳腫瘍すらも。
「貿易商及び警官殺害の容疑で逮捕する。両手を頭の上で組み、路面に膝をつけ!」
年かさの警官の言葉に、その傍らにいる女性警官も「言われた通りになさい!」と追随した。
「容疑者は普通の状態じゃないです」若い警官のシンは慎重にナナに近づいた。「怪我の程度を見ないと、後で何かあったら訴えられますよ」
「やめろ。距離をとれ!」
「大丈夫。危険な兆候は見えません」
しかしナナにあと一歩の所でシンの喉がぱっくり開いて鮮血がほとばしった。ブロドリックの仕業だった。しかしナナは喉を押さえたシンを助けるでもなく、彼が路上に倒れ伏すまで顔にふりかかる血を無意識に手の平に受けて喉を鳴らして呑んでいた。遠くの方で悲鳴や叫びを聞いた気がしたが気にならなかった。頭や体を何度も小突かれる感触を味わったが、湧き上がる陶酔感に我れを忘れた。これでは駄目だとナナが意識を強く持って自分を取り戻したときには恐怖に引き攣った警官たちの銃撃を一身に浴びている最中だった。
警官たちにとって、頭と言わず胴体と言わず拳銃やショットガンの弾を無数に浴びても倒れないナナは不死身の化物そのものだった。ナナは悲鳴を上げると、その場から逃げだした。人間には到底追いつけないスピードで逃げ去ったナナのあとを彼女の悲鳴だけが不気味に追いかけた。ブロドリックの高笑いがその悲鳴に微かに混じっていたのを聞けたのは、悲鳴を上げた本人だけだった。
*
数時間後、パニックから解放されたナナは研究棟まで戻ってみたが、エントランス前で緊急配備された警官や警備員たちの激しい銃撃を受けて早々に退散した。予想されたこととはいえ、人々の反応にナナは途方に暮れるしかなかった。しかもヴァンパイアになってしまったとはいえ、体力が無限に続くとも思えない。明け方近くにナナは激しさを増した吹雪に紛れて再びジェロン島に舞い戻ることに成功した。そして人気のない工場群の屋外に雪の吹き溜まりを見つけると、寒さを全く感じなくなった身体をそこへ横たえた。疲れ切った身体に雪が降り積もってゆく。無事に目覚めることができればルーシーのいる南へ出発しよう。自分が以前のナナと変わりないことを信じてもらい、そこでこの身体を元に戻す努力を一緒にしてみるつもりだ。だが、もし親友の所にたどり着く途中で息絶えるとしたら、それはそれでいい。突然ヴァンパイアにされ、人殺しまでさせられてしまったという事実は、そこまで彼女の心を投げやりにさせていた。
やがて眠りに落ちたナナは、この日だけは夢を見なかった。
*
シンガポールからスマトラ半島にかけての海は水深が浅く、そのほとんどが既に固い氷に覆われていた。ナナは凍った海面を吹き渡る風よりも速く夜の闇を駆け抜けた。ヴァンパイアに転生した今は息切れもしなければ疲れや寒さを感じることもなかった。途中の洋上で打ち捨てられた大型の豪華クルーザーを見つけて、そこで幾晩か過ごした。
船内に入った時、喉の渇きを覚えたが遺棄されていた凍った船客たちの遺体から血を飲もうとは考えなかった。このとき頭にあったのは親友と再会して誤解を解くことと残された研究の事だけだった。だから凍りついた空の船室で眠っている時に赤い風船の夢を見ても完全にそれを無視することができた。それでも我慢ができなくなると船内に残された食べ物を試してみた。固形物は見ただけで胃がむかついた。酒を呑んでみたが酔いもしなければ味もせず、渇きを癒すことすらできなかった。味覚だけでなく代謝も人間とは変わってしまっていたのだ。しかし倉庫にあったトマトジュースだけは少しずつ噛むように飲み込むと、アパートで過ごした最後のひと時と同様に咽喉を潤すことができた。その色が血を連想させて偽薬効果でももたらすのだろうか。ナナには、なぜこれだけは飲めるのかその原理は皆目わからなかったが、人を襲って血を糧にするヴァンパイアが菜食で命を繋ぐことができるかもしれない皮肉な発見に思わず笑い出しそうになった。
四夜目。
クルーザーの船長室で目的地である南スマトラの詳細な地図を物色する間もナナは学者として今の自分にできる簡単な実験に明け暮れた。
そう人体実験だ。
ナナは医務室に入ると、そこに残された数少ない薬品でパッチテストを行ったり、身体修復能力を試すため、体内に致死量の劇薬を注入してみたりした。自分の他にヴァンパイアにされた者がどうしてもその状態を受け入れられない場合、自決の手を差し伸べる方策を得ることができるかもしれないという思いからだ。しかし予想通り医薬品類はおろか、劇物も毒薬もナナには無害か役には立たなかった。再び空腹を覚えたナナは、次にクルーザー内を調べて凍った死体の血液以外に摂取できるものが残されていないか試すことにした。試す食料が底をつくと洗剤から船の燃料まで口に含んでみたが、口にした途端に咽て吐き出してしまった。ヴァンパイアになったとはいえ口にできないものは、やはり口にできないのだ。次に彼女は船の外で固い氷を深く掘ってシャーベット状の海水も口にしてみた。『海水は血液の代わりになりうる』という二十世紀初頭のルネ・カントンの『海水療法』を思い出したからだ。疑似科学に類するものなので、さして期待はしてなかったが口にしてみると海水は塩辛さは全くなく、それどころか微かな甘味すらしてトマトジュースと同様に喉の渇きを少しは癒す効果があることが分かった。
「塩分やミネラルに期待してたわけじゃないけど、無限の海水で生きれれば、私もあの子たちと同じね」
ナナは研究していた陸棲烏賊のことを思い出すと、居ても立ってもいられなくなり、自身の人体実験レポートを船内で見つけたデイパックに突っ込むと、六夜を過ごした難破クルーザーを後にした。
そして翌日には南スマトラに上陸を果たし、その山中を飛ぶように頂上へ向けて駆け上っていった。
山頂から見ると、遥か前方の凍った湖を臨む山間部一帯に目指す研究施設が見えた。いや研究施設というより、それは四方を高い城壁に囲まれた城塞都市だった。以前、ルーシーが送ってくれた動画で見た研究施設とは似ても似つかないその禍々しさに、ナナはただただ目を見張るしかなかった。
56
疲労と諦めを顔と身体に刻み込んだマリクが、工場棟の建設現場で技術者たちの陣頭指揮を執り続けているルーシーに黙って歩み寄った。
「その様子じゃ、金持ちどもは良い顔はしなかったようね」
心の中を見透かされたマリクは熱意を使い果たした目で建設中の工場棟を見上げた。
「口をきくのも疲れたってわけね。で、工期が遅れてるから急げって?」ルーシーは金持ちという死語が彼に響かなかったので、少しおどけて見せた。「それとも量子脳が、また補助デバイスを欲しがったとでも?」
「補助デバイスじゃなくて、人間だろ」
「そうだったわね」
ルーシーの目に自嘲の色が浮かんだ。
「まるで悪魔に捧げる生贄だな。あんなモノとっとと廃棄して、俺たち人間だけで何とかすべきだ。そのための執政委員会だろうに。出資者どもときたら……」
「私たちの数はあまりに少なくなったわ。でも、やらなければならないことは多い。あのクソ忌々しい量子脳なしじゃ、この都市は過酷な氷河期を生き残れない」
「だからって、あんなモノに繋がれて三年も経たないうちに最後は衰弱死だなんて、まともじゃないだろ。人工子宮の実験が成功したんだから、せめて脳だけ培養して繋げられれば、まだしも良心的ってものだって思うんだがな」
「そうね。でも……」
「わかってるさ」マリクはルーシーの言葉を遮った。「培養された脳にはアレが望むような共有できる記憶自体がない。だから生き残りの中から毎回公平な抽選で生贄を選ぶ。選ばれたところで繋がれた本人には苦痛はないし、死ぬまで幸せな夢の中だってイーストの野郎は言いたいんだろうけど、俺から言わせれば嘘の人生の中での安楽死さ。なんでアレは、そんなにも人間と繋がりたがるんだ?」
「寂しいのよ」
「機械のくせに」と、マリクは吐き捨てた。
「少なくとも、イーストはずっとそう言ってたでしょ。『お前たちにはわからんだろ。人間のように心があるから寂しがる。寂しすぎると神等は死ぬんだ』って」
「神等?」
「イーストが名付けたあの量子脳の名よ、なんでも神々という意味らしいわ。確か日本語ね。あの国は多神教で生贄にされた犠牲者は神に昇格すると言われてるらしいから、イーストは当選者をそれになぞらえてるみたい。それに自分の母親の名前がカーミラっていうのも、ちょうど語呂が合うんでしょうね。彼のお気に入りの名前よ」
「機械に母親の名を付けたり、機械が寂しがると言ってみたり、まるで人形遊が大好きな子供だな、あの変態野郎は」
「子供に失礼よ。それに変態でも彼は天才。それはあなたも認めてるでしょ」ルーシーは手を振った。「さぁ、この話はもうこれくらいでいいでしょ。で、今回の抽選では何人必要なの?」
「執政委員たちの話は生贄抽選の話じゃなかったよ」
「良かった」ルーシーはマリクの言葉に胸を撫で下ろしたが、途端に真顔になった。「まさか……彼らはまだ私を都市の運営委員に?!」
マリクは首を横に振った。
「じゃぁ、なに。自動機械の増産。それには電力が足りないわ」
「違うよ。城壁をもっと高くするのに、ここから人手をもっと回してほしいそうだ。もちろん人工子宮群が入るこの工場棟の緊急性は君と同じように執政委員たちも頭の中じゃわかってはいるんだろうが」マリクは侮蔑を隠そうともしなかった。「まぁ、そういうことさ」
「わかっちゃいないわ」ルーシーは首を振った。
「オオツカも君と同じことを言ってた」
「オオツカ主任にも。まさか原子炉管理班の方にも人員を割けっていうこと。ここには旧型の黒鉛型ガス冷却炉しか設置できなかったのよ。あの不安定さは皆わかってるはずよ」
「世界の破滅と競争だったからな」
「だったら、あの厄介な原子炉の面倒は誰が見るのよ。自動機械はまだ単純作業しかできないのよ。あんな鈍い陸ガメどもをあそこに使えるわけないわ!」
「熱くなるなよ、決定は決定だ」
「わかった。なんとか人員は工面してみるわ。でも彼らの我儘も、これが最後にしてもらってよ」
「了解」マリクはボーイスカウトのような敬礼をして見せた。「でも執政委員たちみたいに恐れてばかりじゃ、なにも解決しないぞ」
「そうね、私は彼らとは違う。憤りと恐怖を原動力に変えてるから」
「わかってるよ」
マリクはルーシーの肩にそっと手を置いた。防寒着の上からでも肩は岩のように固くなっている。マリクは彼女の後ろに回ると凝った肩を優しく揉んだ。
「怖いのは私だって執政委員たちと同じかもしれない。でもヴァンパイアより怖いのは蝋燭の炎が消え入るように文明が地球上から消え去ることよ」
「こんなアイスボールの上で文明の心配か?」
「マリク」ルーシーはマリクに首を振り向けた。「なぜ、今更そんなことを言うの。人類は今まで馬鹿なことをたくさんしでかしてきたけど、これは唯一誇れることよ。どんな犠牲を払ってでも氷河期やヴァンパイアから種を守って次世代に受け継ぐの。人間の知恵や歴史をね。そのためには量子脳や人工子宮に頼ってでも、未来のための土壌を整備しておかなきゃならない。あなたもその趣旨に賛同したでしょ」
「もちろん……」
「じゃぁ、今更なぜ?」
「攻撃は最大の防御って言うだろ」
「まただ」とルーシーは思った。幾度となく議論して互いに納得したことを蒸し返された彼女は苛立ちを感じたが顔には出さなかった。
「奴らの力は知ってるでしょ。こっちから仕掛けたって全滅するだけ。さっきも言ったけど私たちの数は少ない。ここにはもう三万八百十七人しかいないの。しかも老人や子供も勘定に入れて。たぶんこれが地球上に生き残ったすべてよ。それが理解できないあなたじゃないでしょ」
「二度も撃退したろ」
「確かに撃退したわ。それで十分よ」
「そんな消極姿勢じゃ、いつか殺られる。だから、こっちから出かけて行って一匹残らず滅ぼさないと根本的な解決にはならない」
「撃退されたのが奴らの罠だったらどうするの」
「どういうことだ?」
ルーシーはマリクにわからないように軽く溜息をついた。
「一度目は本当に撃退できたのかもしれない。幸運にもね。でも二回目はあまりに呆気なさすぎたと思わない。奴らは狡猾よ、きっと待ってるんだわ。私たちが勝てると過信して自ら仕掛けてくるのを。恐怖心に耐えかねて自暴自棄な攻撃に移るのを。私はそう思う。とにかく今は籠城が一番よ」
「緩慢な死を待つだけだ」
「マリク。あなたは復讐心に駆られてるだけ」ルーシーは反論しようとする男を遮ると、その目を真正面から見据えた。「そんなことはタリサだって喜ばないわ」
死んだ恋人の名前がマリクの理性を少なからず呼び戻した。ルーシーは間髪入れずに城砦建設責任者としての顔に戻った。
「人手は必ず回すわ。でもここの設備ができて稼働を完全に確認できてからよ。過去二回のヴァンパイアの侵攻を防いだ城壁を信用できない馬鹿どもに、あなたから建設現場は何も心配はないって言っといて。それにもう一つ。こっちからの攻撃もなしよ。これは特にあなたに言っておくわ」
「そんな馬鹿な……」
「何が『馬鹿』なの。まだ私に言いたいことがあるの?」
マリクの絶句にルーシーはその視線を追った。
少し離れた資材置き場の陰から不安そうに自分たちを見ているナナの姿がそこにあった。
*
「人を呼ばなかったのは感謝してるわ」
「人を呼んで立場がマズくなるのは私たちの方だからね。別に感謝なんかしてくれなくて結構よ。ヴァンパイアを城砦に引き入れたなんて思われでもしたら大事だから」
「ルー、こいつは」
「いいの」ルーシーは今にも怒りを爆発させそうなマリクを制すると、ナナに探るような視線を向けた「問題は、あなたがどうやって城砦に入れたかよ」
「出入管理は人間と量子脳のダブルチェックだが、ここ二年間は城門を開いたことすらない。裏切り者がいるとしか考えられない」マリクはナナを睨みつけた。「そいつが手引きしたとしか考えられない。誰だ。誰の手引きだ?!」
「やっと、まともに口をきいてくれたと思ったら、尋問なのマリク?」
「軽々しく俺の名前を呼ぶな、ヴァンパイアの分際で!」
「あなたこそ黙って!」再びマリクを制したルーシーは射抜くようにナナの瞳を見据えた。「正直に言うわ。私たち人間はヴァンパイアを恐れてる。その気になれば、あなたは私たち二人を簡単に殺すこともできたはず。それをしなかったのは何らかの計画があるのか、それともあなたに人間の理性がまだ少しは残っているのかのどちらかよ。でも考えてもわからない。だから自分の勘に賭けてみるしかない。私は後者に賭ける。だから教えてくれる。どうやって城砦の中に入れたの、ナナ?」
「『どうやって』って、ただ壁を乗り越えたわ」
「嘘よ!」
「嘘じゃないわ」
「ナナ。ヴァンパイアは嘘偽りのない人間の心からの招待なしには、人間の領域に入ることはできないのよ。今まで私たちはそれで奴らの侵入を防いできた」
「でも乗り越えた。それしか方法がなかったから」ナナは頭を左右に振るマリクを無視して、自分の疑念を口にした。「ねぇ。私も聞きたいことがあるんだけど」
「なに?」
「この城壁で囲まれた街は出来てしばらく経つみたいだけど、あなたと最後に会話してから、まだ一週間くらいしか経ってないわ。なぜこんな大規模プロジェクトが進行してた事実を私には教えてくれなかったの?」
やがて口を開いたルーシーは怪訝な表情を隠そうともしなかった。
「あなたこそ何を言ってるの。あなたとの最後の会話から、もう九年半も経ってるのよ」
57
ルーシーはマリクの激しい反対を押し切って、ナナを居住棟にある自分たちの部屋に招き入れた。九年半の歳月は城砦建設と整備の重責を一手に背負わされたルーシーの心と、恋人を失って心に深手を負ったマリクのそれを結び付けていた。ルーシーはマリクと生活している既婚者用の広い居間でヴァンパイアに転生したナナの話を聞き終えると、九年半の間に絶滅に瀕した人間社会全体に起こった絶望的な数々の事件を、かいつまんで説明した。最初はルーシーの説明に聞き入るだけのナナも二時間もするとショックから立ち直り、現在の状況に関する質問をするようになった。
「じゃぁ、この城砦は安全というわけね」
「えぇ、そうよ。自らの意志で人間がヴァンパイアを招き入れない限りは」
「あのブロドリックも?」
「もちろんよ。侵攻を阻止した時の奴の悔しそうな顔を見せたかったわ、あなたにも」
ぎこちなさは残るものの、以前のように接しはじめてくれる親友にナナの顔は微かにほころんだ。その表情を読み取ったルーシーはそれに気づかなかったかのように話を続けた。
「ブロドリックは城門から手下のヴァンパイアを何十体も突入させたけど、三メートルも進まないうちに手下どもは全身から血を噴き出して悶死したわ。私は門の前まで行って奴を挑発してやったけど、奴は入ることができなかった。その後、何度となく天候を操られたりして都市に被害は出たけど、私たちは耐え忍んだ。それから、ここ五年は小さな旋風さえ起ってない」
「諦めたの?」
「それなら良いんだけど。私には虎視眈眈と人間が油断する機会を狙ってるとしか思えない。でも、ここで頭を引っ込めた亀みたいに頑張ってる限り、私たちは負けないわ」
「勝つこともないがな」と苦々しくマリクがルーシーに横槍を入れた。ナナは再び口を開いた。
「私はあなたたちが忌み嫌うヴァンパイアになってしまったかもしれない。でも今も大切な友人だと思ってる。これは本当のことよ。だから出来ることは何でもするわ」
「ここで、お前にできることなんてないぞ」とマリク。
「ここではね」意味あり気にルーシーは、そう呟いた
次の日からナナはルーシーの許可の下、城壁外に秘密裏の長距離偵察に出ることになった。
*
肩身の狭い城塞都市から離れる口実ができてほっとしながらも、帰れる場所があるだけでナナの心は少なからず安らいだ。ただ偵察中に眠ると、また何年も失ってしまうかもしれないという漠然とした不安を拭い去ることができなかったので、昼間は雪のなか深くに留まって眠らないようにした。そして日が暮れるのを待って偵察を行った。一度、昼間に活動してみたらどうなるかと陽の下に出たこともあった。だが露出した肌に大火傷を負ってしまい、やはり人間ではなくなったことを痛感させられた。
長距離偵察は城砦の周りからはじめて半径二十キロに渡って、ヴァンパイアの感覚で敵である同族を探知することだったが、来る日も来る日も空振りに終わった。しかしある日、ナナは城塞都市の放牧場からブロドリックが起こした嵐で遥か遠くに飛ばされたと聞いていた陸棲転化した烏賊の集団を偶然にも発見した。雪原と化した海面で粉雪を蹴立てて疾走する彼らは力強く、勇壮そのものだった。過度な身体再生能力を発現させたおかげで繁殖能力の著しい低下に見舞われた烏賊たちはルーシーの報告にあったように自らの身体を巨大に、そしてより強靭にすることで種としての存続バランスをとるのに成功していた。今では彼らの一匹一匹、いや一頭一頭は牛ほどの巨躯を有しているが、飛ぶように駆けるナナと並走しても遜色のない速度で雪上を走ることができた。
並走しながらナナは烏賊たちをもっとよく観察しようと思い、三十頭以上いる群れの先頭にいた、ひときわ大きな一頭の胴に飛び乗った。粉雪に見え隠れしている大きな目が馬乗りになったナナを見て体色をピンクに変えたが、すぐに落ち着きを示す青い色を放ち始めた。ナナを脅威とは感じなかったのだ。
「お前たちは賢いのね」
ナナは久し振りに。正確にはヴァンパイアに転生して以来の爽快な気分を味わった。
「さぁ」ナナは烏賊の胴を優しく叩いた。「どこまで走るのかわからないけど、今夜はあななたちに付き合うわよ!」
走るにまかせた群れは雪原をどこまでも駆け抜けた。夜明け前に群れが停まると、ナナは分厚い防寒具とサングラスで身体を覆うと、チリチリと皮膚を苛む陽光も気にせず、彼らとスキンシップを十分にとって群れを手なずけにかかった。これといった方法があったわけではなかった。しかし賢い烏賊たちは二日目には彼女の指笛や声に反応して簡単な指示を理解できるようになった。それから更に一日経って、ナナは烏賊の背に身を預けると彼らを城砦に向けて走らせはじめた。
*
烏賊の背に乗って二日目。
氷河期の到来と同時に白い地平線に聳えはじめた海退山。その上に鎮座する城塞が砂粒のように見えた段階で、ナナは早くも同族が放つ波動を感じ取った。うなじの毛が逆立って背筋に電気が走る感覚を味わうと思わず身震いした。ナナの感覚が烏賊たちにも通じたのか。はたまた彼ら自身もナナと同じくヴァンパイアの存在を感じ取ったのか。彼らは走る速度を徐々に緩めると怯えを感じたときのピンク色に体表を染めて雪の中に潜り込んだまま動かなくなった。ナナは群れを雪原に残して一人で城砦を目指すことにした。初めて城砦に来たときよりも到着に時間がかかったのは、ここ最近、ドライトマトを海水でもどしたものしか口にしなかった体力低下のためだろうか。城砦に到着するのに半日以上を要した。
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闇夜に佇む城塞は昼夜兼行の突貫工事の音どころか、まるで真空の世界にでも放り込まれたかのように冷たく静まりかえっていた。しかし城塞の四方を囲む高い城壁の中でも城門周辺は内側からの強い照明を受けて、その不気味な輪郭を漆黒に浮かび上がらせるだけでなく、一種異様な緊張感を遠く離れたナナの所にまで漂わせていた。城門周辺の城壁上を注意深く見ると、ひしめくほどの人影が下から照らすサーチライトの照明を見下ろしながら微動だにせず立っており、ナナはその一つ一つから邪悪さを孕んだ同族の気配を容易に感じとることができた。ヴァンパイアの集団が城壁上にいるが、城門は未だに固く閉じられていることから、ルーシーたち人間はヴァンパイアたちと無言で睨みあっていることだろう。だがナナの心は親友らの無事に胸を撫で下ろすよりも激しく、我慢しがたい憎悪の奔流をただ一点に放射するのに全力を傾けていた。それでも放射される憎悪より体内に蓄積されるそれの量が遙かに上まわると、理性ではどうにも制御ができなくなり、身体が弾かれたように自然に動いた。彼女は一本の矢となって小高い丘を一気に駆け下りると、城壁に向かって風を切って突き進み、そのまま手と足を使って三十メートルに達しようかという城壁の一番高い部分に、瞬時に駆け上がった。壁を登りきった先にそれはいる。初めて会った時に感じた言い知れぬ不安を覚える波動は間違いようがない。自分をヴァンパイアに変質させたブロドリックだ。ナナは壁を登り切ってジャンプすると、攻撃本能に反応して伸びた鋭い爪を目の前に迫った後頭部に思い切り叩きつけた。確かな手応えがあったが彼女の機関車のような猛進は止まることはなかった。周りにいた数名の同族にも絶え間なく斬撃を浴びせ続けたナナは、彼女を攻撃し始めた同族にもその矛先を向けると彼らをことごとく壁の内側に叩き落とした。そして六人目に襲いかかったところでナナ自身も残ったヴァンパイアに壁の内側に叩き落されてしまった。落下の途中でバランスを崩したものの何とか両足で地面に軟着陸したナナは城壁前に集まっていた銃で武装した数百人の人間たちには目もくれず、既に身体中から血を噴き出して事切れている同族の死体の中にブロドリップの姿を探した。だが、その中に奴の死体がないことに困惑と怒りを爆発させた。
「なぜ。確かに斃したのに、どうして奴の死体がないの。なぜ。なぜ。なぜ?!」
「ブロドリックならあそこよ!」
城壁前に集まった人間たちの中から、ナナの探すものを察知したルーシーが双眼鏡越しに照明に照らしだされた城壁上の一角を指差した。
「我が妃よ。お前の考えていることなどお見通しだ」壁の上のブロドリックに連動してナナの口から彼の声が流れ出た。「なぜなら、お前と私は一族の強い絆で今も結ばれているのだからな」
ルーシーの周りに集まった人間たちの武器がブロドリックの声を発したナナに向けられた。彼女はすぐに我れに返ると城壁上のブロドリップを睨みつけた。
「だったら好きにすればいいわ!」声帯を一時的に支配されたナナは怒りもあらわに声を張り上げた。「その絆とやらで思うがままに、私に自分の咽喉を裂かせたり、城門を開かせたりしてみなさいよ。でも無理ね。出来るんだったら、とっくに私を操ってそうさせてるもの。だって、あなたは嘘偽りのない招待がないと、たとえ城門が開いてても中に入れないんだものね。ほんと不自由で可哀相。だからって同情はしないから、これだけは覚えておいて。あなたに出来ることといったら、せいぜい私に薄汚い言葉を吐かせたり、徒党を組んで人間の生活を壁の上から覗き見することぐらいよ!」
「無礼がすぎるぞ!」
ブロドリックの怒気を含んだ言葉が城壁上の数百を超える口から同時にほとばしった。しかしナナは怯まなかった。
「一番無礼なのは、私を妃呼ばわりするあんたよ。気持ち悪さに吐き気が止まらないわ!」
「悔しかったら、降りてきて面と向かって堂々と彼女に文句の一つも言ってみたらどうよ?!」ナナの挑発に気付いたルーシーもブロドリックを罵倒しはじめた。「言い返せないの。馬鹿な男が女の家に踏み込んで暴力を振るうように、また力を誇示してみたら。私たち人間はいつだって受けて立つわよ!」
数百を超す口から獣の咆哮が同時に上がり、ヴァンパイアは城壁の内側に次々と飛び降りて砦内に侵入しはじめた。だが侵入したヴァンパイアたちは三メートルも進まないうちに身体中から勢いよく血煙を吹き上げてバタバタと倒れていった。それでも仲間の屍を踏み越えて更に奥へと突き進んでくる者もいた。彼らの滅びを恐れぬ突撃を、はじめは冷ややかに見つめていた人間たちも、やがてその勢いに飲まれてヴァンパイアの血で赤く染まった城壁前から徐々に後退しはじめた。
「殺っちまえ!」
誰が発したかはわからなかったが、極限まで圧縮された人間たちの緊張感は、その一声をきっかけに破壊本能を一気に噴出させた。侵入したヴァンパイアは闇雲に突撃するだけでなく、時には凄まじい跳躍力を駆使して上方から襲いかかったが、人間たちは彼らにショットガンで銀の散弾を浴びせかけた。しかし無秩序でヒステリックな集団射撃はヴァンパイアだけでなく周りに展開する人間をも誤射する事態を続出させ、その場にいる人間とヴァンパイアは互いの血煙を頭から浴びて真っ赤に染まっていった。
「射撃中止。射撃中止。あぶないから撃つのはやめて。どんどん後ろへ退くのよ。後ろの人間は早く退いて。もう撃たないで!」
騒乱状態の城門前ではルーシーの張り上げる悲鳴にも似た叫びは空しく打ち消された。侵入してきた同族たちに反撃していたナナが気付いた時には、既に武装した人間の半数が死ぬか重傷を負ってヴァンパイアの屍と仲良く横たわっていた。その惨状を見たナナの身体が、またも自然に動いた。彼女の中のヴァンパイアの血は混戦状態の大集団に向けて両腕を真一文字に空気を引き裂くように一気に広げさせた。その瞬間、見えない巨大な手に翻弄されたかのようにヴァンパイアの集団と人間の集団はきれいに二つに引き剥がされて宙を舞うと、雪の上に一人残らず薙ぎ倒された。何が起こったか、その場の全員が理解するのに数瞬を要した。
「欲しくはないのか、恐れのない世界を?!」
戦場に突如出現したその空白にブロドリックの声が轟いた。それは戦闘を一時停止に追い込んだナナ個人にではなく、全身を真っ赤に染めた生き残りの人間たちに向けられたものだった。
「今や絶滅危惧種に堕したお前たち人間が、この永久氷河に閉ざされた世界でこの先も生きてゆけるのか。甘い幻想は捨てて、今一度考えよ。いずれ旧型の原子炉は使い物にならなくなり、食糧も底をつく。寒さと空腹から、いさかいが始まる。そのいさかいは今日の闘い以上の惨状をお前たちにもたらすのだ。しかしお前たちの指導者や、ほんの一握りの特権階級は、そんなことは断じて起こらないと言うだろう。だが果たしてそうか。今まで自分の国でそんな為政者の言葉に騙されてきた者はいないのか。私はお前たちの敵だったが、今日は手を差し伸べに来たのだ。助けてやろうとしたのだ」ブロドリックは城壁の上からルーシーを指し示した。「だが、お前たちの指導者の一人に操られた我が妃に邪魔されたのだ」
「嘘よ。お前は人間を襲いに……」
ナナが最後まで言い終わらないうちに彼女の目の前に中身が詰まった薬用タブレットケースが投げ入れられ、固い雪上に落ちた衝撃で中から小指の爪ほどの白く小さな錠剤が何粒もこぼれ落ちた。
「ジェロン島の地下で生成したヴァンパイアの食料だ。我れら一族は既にお前たち人間の血など必要としないほどに進化を遂げたのだ。それ故お前たち人間を滅ぶに任せて無視することにしていたのだ。だが、ここに集いし我が一族の者たちに懇願されてな。城砦に囚われている家族をぜひ一族に迎え入れてはくれまいか。手遅れにならないうちに新たな世界に適応する力を授けてはもらえまいかと……今宵の訪問は我が最後の慈悲にして、お前たちに対する最大の福音であったのに」
「お前の軍門に下るなんぞ、死んでもごめんだ!」かつて恋人を、その毒牙にかけられたマリクがブロドリックに向けて銀の散弾を浴びせかけた。「滅びろ。滅びろ。滅びろ!」
散弾銃の弾倉が空になり、内蔵ハンマーが乾いた音を空しくたて続ける頃には城壁の上にいたはずのブロドリックとヴァンパイアたちの姿は消え去っていた。それにもかかわらず、ナナの口は消えたヴァンパイア貴族のプロパガンダを再び流し続けた。
「一族となれ。極寒や空腹などものともしない強い身体を手に入れよ。お前たちの目の前にいる我が妃のように不治の死病をも撃退できる強い肉体が待っているぞ。さぁ、その階段を自らの意志と勇気で上がってくるのだ」
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城塞都市機能の大部分を司る巨大な量子脳はネイティブアメリカンが部族のシンボルとした聖なるトーテンポールを醜悪にしたサボテンのお化けそのものだった。また、その収容に当てられた施設は元もと屋内競技場を兼ねた緊急避難場所として都市の中央部に建設された一番大きな施設の地下が選ばれていた。だが今は、その地上フロアの三分の二を黒い死体袋が。そして残りの三分の一が死を待つ重病人が占め、数少なくなった健康な生者を締め出す隔離病棟と成り果てていた。
屋内競技場の分厚い二重ドアの一つが電子音を鳴らして開いた。ドアに密着して急ごしらえで設置されたチューブ状の通路を通り抜けて、ストレッチャーを引いた陸ガメのような自動機械と防毒マスクに白い防護服の人間。そして防護服なしのマスク姿の五人の男女が現れた。防護服なしの男女は再び電子音がしてすぐさま閉じられたドアの方を諦めの表情で振り向いたが、施設内にいる武装した警備担当の防護服に促され、更に奥にある重要隔離区画のビニールテントのエリアに入って行った。
ストレッチャーを引く自動機械と先ほどの防護服は五人の連れて行かれた場所とは反対方向に進むと周辺に空いたベッドを求めた。ベッドはほぼ満床で、そこに横たわる老若男女は身体を二つ折りにして、のべつまくなしに咳き込むか、昏睡に陥って瞼を震わせながら早くて浅い呼吸をしていた。ようやくベッドを見つけた防護服は、近にいた別の防護服に手伝ってもらうとストレッチャーの上で激しく咳き込む中年女性を二人でベッドまで運ぶと彼女を横たえ、その作業を終えると自動機械や手伝いの防護服から離れて、ここにいるはずの人物を探しはじめた。
防護服が探す人物はすぐに見つかった。彼女は身を守るものを一切身に着けず、二千床にも及ぶベッドで死を待つだけの患者たちを昼夜を分かたず献身的に看病していた。防護服は、その人物の傍までやってくると、人気のない場所まで連れて行って作り付けのベンチにどさりと腰を下ろした。
「仕事に精が出ることだな、不自由はないか?」
「えぇ」
「そうか。まぁ、ここなら疑り深い代議員たちやお前を逆恨みした暴徒に襲われることもないだろう」防毒マスク越しのくぐもった声は疲れ切っていた。「そんなことより結果はどうだった?」
「予想通り駄目だったわ」
「やはりな……」
焦慮で落ち窪んだ防毒マスク越しのマリクの目からは、わかっていたとはいえ、かなりの落胆が見て取れた。
「私はヴァンパイアだから二、三日眠らなくても平気だけど、あなたは違うわ」とナナ。「少し休んで」
「ありがとう」
「どういたしまして」
もう聞くことはないであろうと思われていた旧友からの感謝の言葉にナナは戸惑いを隠せなかった。七日前のヴァンパイアとの戦闘の夜から、ようやくナナを仲間と認めてくれたのだろうか。もちろん城塞都市居住者の大部分は彼女を快くは思っていないどころか、隙あらば憎い敵として滅ぼしてやろうとしか思ってはいないだろう。なぜなら、あの夜から情勢が一気に変わってしまったからだ。
「しかし参ったな、新型のH5N1なんて……」
「ヴァンパイアたちが死ぬとき身体から噴き出したのは血だけじゃなかったのよ。ドクターもそう言ってたでしょ」
マリクは力なく頷いた。
「鳥インフルエンザ用のH5N1ワクチンなら、ここの人口の倍はストックがあるのに使えもしないなんてな……しかもこいつの致死率は従来型の五十パーセントどころじゃない」
「変異株ね」
もしくはブロドリックが変異させたのか。どちらにせよ、そう思うとナナは自分が感染源ででもあったかのように気分が滅入った。
「気にするな。端からブロドリックはウィルスをここにばら撒いて、人間が全滅するか、仲間にしてくれって弱音を吐くのかを待つつもりでいたんだろう。俺たちは奴の策にまんまと乗せられたってわけさ」マリクも気が滅入ったように目を伏せた。「この都市は、もう死んだも同然だ」
「希望は捨てないで。罹患者はここに隔離してるし、ウィルスはヴァンパイアの死体と共に太陽が焼いてくれたわ。潜伏期間がとても短かったから封じ込めだって従来型よりうまくいってるんでしょ。それに発症しても快方に向かってる人だっているのよ」
「十七パーセントにも満たない今の治癒率に賭けて死ぬのを待つ気なんてさらさらないよ。たとえ治っても、脳にどんな障害が残るかもわからないしな」
「あなた、いったいどうしちゃったの?」
ナナが疑問を口にし終わるや否や、マリクは防毒マスクを勢いよく顔から剥ぎ取った。「ふぅ。清々した」
「あなた、何てことを!」
「四時間前から発熱と頭痛。激しい咽喉の痛みのトリプルパンチ。一縷の望みを託してワクチンを試してみたけど熱は上がる一方だ。だから君に頼みたいんだ。この病に耐性のあるヴァンパイアの君にしかできないことを」
マリクがナナの背後に目配せをすると、同じように防毒マスクを取りさった若い男女とベッドから力を振り絞って起き上がってきたであろう数名の男女が熱に浮かされた目でナナを見つめていた。しかし、彼らの瞳には決意がみなぎっていた。そして彼らの望みがナナに対して自身の殺害依頼などとは縁遠い、もっと別のものであろうことは容易に察しがついた。だが、それはナナの心にとっては苦痛と嫌悪を催す以外の何ものでもなかった。彼女は懇願する男女に震える声で、これしか言えなかった。
「お願いよ……考え直して……あなたたちの血を私に吸わせないで……お願いだから………」
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結局、ただ死を待つだけの十三人の男女の切なる思いに押し切られたナナは、彼らに闇の洗礼を与えるしかなかった。三日間に分けて行われたナナの吸血行為で十人が生き残り、更にその中からマリクを含めて八人の人間が彼らの思惑通り、無事にヴァンパイアへと転生を果たした。もちろんナナはシンガポールで若い警官の血を呑んで我れを忘れた経験から、自身の身体を頑丈な鎖で何重にも縛らせた上で、銀の弾が詰まった散弾銃で自身を狙わせるという万全の対策を講じて吸血行為を行った。毎夜、人目に付かない深夜の資材管理棟で行われたそれは秘密結社の儀式を思わせた。その行為の際、ナナの策は功を奏して吸血の影響で無意識に暴れ出す自分の身体を何とか抑え込むことができた。もちろん銀の散弾で楽に死なせてもらえるという密かな思いもあったが、それだけは成功しなかった。だが二人の志願者だけは違った。彼らはヴァンパイアに転生して間もなく、血への渇望をナナのように理性と鎖ではどうにも抑えられなくなり、これ以上手が付けられなくなる前に他の転生者によって命を絶たれた。そしてすべてが終わった後、ナナは転生前と転生後に犠牲になった彼ら五人も覚悟の上だったとマリクや新たな仲間たちから言葉をかけられた。だが、そんなものは何の慰めにもならなかった。直接的にせよ間接的にせよ、ナナの吸血行為が彼らの命を奪ったことに変わりがなかったからだ。ただ一つだけ計算違いがあった。映画や本で有名なヴァンパイアとは反対に自らの意思において行った一連の吸血行為以来、ナナの心は急速に疲弊し、その影響は身体まで著しく蝕みはじめた。人間であろうとすればするほど、もっと血を呑みたいという衝動を抑えれば抑えるほど、その影響は大きくなり、何度も襲ってくる内臓を捩じ切られるような激痛に立っていられなくなることもしばしばだった。だからといって身も心も完全なヴァンパイアになってしまえば楽になるのにとは微塵も考えなかった。そんなことよりナナはいっそのこと自分も転生後におかしくなった二人のように殺害してもらえれば、どんなに楽になれるのだろうかと夢想した。それほど彼女の心だけは人間でい続けたいという執着と、人間の血を吸う嫌悪感は強いものだったのだ。そんな日々の中で彼女の理性は身体を苛む激痛を辛うじて受け流すことに今のところ成功していた。それがいつまで続くかは彼女自身にもわからなかったが。
そして今回で三回目となる新生ヴァンパイアのミーティングが薄暗い資材管理棟の片隅ではじまった。
「僕らが転生して、もう十日目だよ。もっと仲間を増やさなきゃ」
開口一番、顔にまだあどけなさが残る若いヴァンパイアが賛同を促すように仲間たちの顔を見回し、最後にナナのやつれ切った顔に視線を止めた。ナナは物憂げに頭を上げると聞きたくもないという仕草で片手を振って、その意見を退けた。それを見た若いヴァンパイアは、今度は向かいに腰掛けている綺麗な赤毛をボブに切りそろえた年かさの女ヴァンパイアに意見を求めた。
「アンナはどうなの?」
「そうね……」
「『そうね』だけじゃ、わかんないよ」
「ケン。あなたの言うとおりだと思うわ。だから、ナナがやってくれないんだったら、次は私らがやるしかないわね……」
消極的なアンナの賛同にその場が静まり返った。つい二日前も味方を増やす負担をナナばかりにかけまいと吸血行為を行った二人の仲間がその直後からおかしくなったからだ。変異したH5N1ウィルスに侵された人血が影響したのか、ナナにだけその耐性があったのか真相は全くわからなかったが、吸血を行った方も、吸血された方も完全に理性をなくし、手が付けられないほど凶暴化したため、銀の散弾による仲間の殺害を余儀なくされていたのだ。
「卑怯な言い方だな、ケン。そんな言い方で仲間に選択を迫るものじゃない」
沈黙を破ってナナを擁護した初老のヴァンパイアにケンがすぐさま反論した。
「でも他に方法がないよ」ケンはまくし立てた。「僕らが転生したのは何のためだい。ブロドリックが言ったように奴の仲間になるためか。そんな馬鹿な。奴を滅ぼすためだろ?!」
「いい加減にしろ。ナナはヴァンパイア・ハンター製造機ではなかろう!」初老のヴァンパイアは白髪交じりの立派な口髭を震わせた。「彼女は儂らの命を救ってくれた恩人だぞ。彼女を見たまえ。お前の要求を喜んでいるように見えるかね?」
「でも」と、小鼻にピアスをした若い女ヴァンパイアが口を挟んだ。「ケンの言い分にも一理あるわ」
「みんな落ち着けよ。毎回仲間割れするために集まってるわけじゃないんだから」
マリクの言葉に再び沈黙が訪れた。
「そうね」年かさのアンナが口を開いた。「さっきのは私の失言だったわ。許してね、ナナ」
「なに言ってんの、アンナ。子どもの敵討ちをするんじゃなかったのかい。それはもう無しにすんの。僕は誰がなんて言おうと両親の敵を取るぞ!」
「やめなよ、ケン」
若い女ヴァンパイアが堪りかねて再び口を挟んだが、ケンは止まらなかった。
「いや、やめない。奴は両親を殺したとき、僕にはっきりこう言ったんだ。『最近は食べすぎなのか、どんな人間も旨くない』って。しかも欠伸をかみ殺しながらさ。それって何なの。奴にとって人間はスナック菓子以下なのかい。あんたたちだって似たような目に遭わされてきたんだろ!」ケンは先ほど自分をたしなめた口髭のヴァンパイアを指差した。「ニコライだって、目の前で息子と孫が殺された恨みを忘れたわけ?!」
「よくお聞き!」アンナはニコライが口を開く前に声を荒げた。そして鋭い眼光でケンを射すくめた。「人を人とも思わない。目的のために仲間に対しても手段を選らばない。そんなこと。まるであのブロドリックと同じじゃないか。私たちはあの悪魔を滅ぼすためにはどんなことだってすると誓ったさ。もちろん、そのための犠牲だって厭わない。だからヴァンパイアになった。それに転生に失敗して同じ境遇の仲間だって死んだ。でも、これは違うわよ。奴と闘う前から、それとわかった上で恩人に死ぬかもしれないような苦痛を強いるなんて」
「馬鹿じゃないの、アンナは!」
「ケン!」ニコライが掴みかからんばかりにケンに詰め寄ったが、彼は怯まなかった。
「そうかいそうかい。わかったよ。色々言いながら、結局あんたたち年寄りは怖いんだ。一度命を取り留めたら、また失うのは恐ろしいからね。いいさ。やらないなら、やらないで。でも僕は一人でもやってやるからな」
「誰もやらないなんて言ってないぞ」
「へぇ」マリクの反論にケンは見下したような視線を向けた。「じゃぁ、あんたがリスクを承知でナナの代わりに仲間を増やすって言うの?」
「俺はやらない。ナナもやらない。ここにいる誰も仲間を増やすことで、もう危険に晒されることはしない」
「はぁ……あんたはもっと賢いと思ってたよ」
「臨機応変さに欠けるガキのお前よりはな」マリクは声を上げかけたケンを制して言葉を続けた。「攻撃はここにいる俺たちだけでやる」
ざわめきの中に疑念と不満が飛び交った。それが少し収まるのを待って、マリクは再び口を開いた。
「みんな聞いてくれ。数には数で対抗しようとしたのが、そもそもの間違いだ。最初からブロドリックの軍団に匹敵する数を揃えることなんて最初から無理だったんだ。だから、こっちは少人数で仕掛けることにする」
「それこそ犬死にだ」
「だったら君は抜けてかまわんよ。儂はマリクの意見に賛成だ」
ニコライの静かな物言いがケンの反論を封じたが、若い女ヴァンパイアが疑問を投げかけた。
「じゃぁ、いま病気で苦しんでる連中は、あたしたちみたいに反撃の機会も貰えずにただ死んでくだけなの。あたしみたいに生き残った家族のために、ヴァンパイアになってブロドリックを斃したいっていう奴もいるはずなのに……」
その場の沈黙が何よりの答えだった。その空気に堪えかねたかのようにニコライが話を先に進めた
「彼らの恨みも儂らで晴らすさ。で、作戦はマリク?」
「手下どもの目を盗んで奴の根城に潜り込む。そして奴だけをピンポイントで狙う」とマリク。「奇襲になるから、もちろん太陽の出てる昼間の攻撃になる」
誰ともなしに口笛が鳴ったが、誰もが呆気に取られて、それを咎める者はなかった。
「わかった。で、根城はジェロン島の地下区画か?」暫くして、今まで黙っていた無口なヴァンパイアがマリクの案にぼそりと賛同の意を表した。
「あぁ」マリクは無口なヴァンパイアに頷き返した。「その公算は大だな、コルテス。というより、そこしか考えられない。情報によれば、奴はジェロン島の地下に莫大な金を注ぎこんでた。自分の根城にするにはもってこいだ。そうだったよな、ナナ?」
「えぇ」と、ナナ。「建設関係者と資材を大量投入してたみたいだったから、ルーと私は大富豪用のシェルターだと思ってたわ。それに一週間前のヴァンパイアの攻撃者の死体の中にジェロンで見知ったエンジニアの顔が幾つもあった」
「話になんないよ」若い女ヴァンパイアが声を上げた。「いくら奇襲だからって奴らの方が圧倒的に数も多いし地の利もあるじゃん。まったく正気じゃないよ」
「儂らは皆正気じゃないよ、キャス。それより問題なのは何人生きて奴に迫れるかだ」
「いえ、問題はもっと根本的なことよ」
「なにが問題だ?」と、マリクは発言者のアンナに尋ねた。
「『なにが問題』かって?」アンナは大きく息をついた。「私たちは、そのジェロン島とやらの地下に正真正銘の人間から誰一人招待されたことなんてないのよ。そして今の私たちはヴァンパイア。奴がマリクの言う根城で眠っていたとして。じゃぁ、どうやって、そこに入り込めばいいの。警備のことを言ってるんじゃないわよ。入れたとしても、先週、攻めてきた奴らみたいに何もできないまま身体中から血を噴き出して死ぬことになったら元も子もないのよ」
「それは、どうかな」ニコライは皆の顔を見回した。「ナナは招待もされないのに城砦の中に入れた。儂らはそのナナに生まれ変わらせてもらった。少なくとも招待状はいらんと思う。それにヴァンパイアがヴァンパイアの根城に行くんだ。人間がいる家を訪問するわけじゃない」
「でも失敗したら」とケン。
「とにかく、やってみるしかない」
無口なコルテスの二度目の呟きがすべてだった。後には誰の言葉もなかった。
*
決して少なくない問題を抱えながらも、三日後に討伐パーティは城塞責任者の誰に許可を得ることもなく密かに出発した。ナナを入れて総勢七名。移動はブロドリックの侵攻前にナナが見つけて連れ戻していた陸棲烏賊を使うことになった。行程三日目にナナたち一行はジェロン島に到着した。だが死を覚悟した遠征も、せっかくの奇襲も大きな肩すかしで幕を閉じることとなった。
60
地平線の遥か向こうのジェロン島は小さな岩場に小高く積もった雪の吹き溜まりのように見えた。陸棲烏賊が曳く橇のスピードを落として徐々に近づいてゆくと、それがただの吹き溜まりではなく、雪と氷のベールをまとった文明の残滓であることが見てとれる。人の姿だけが消え去ったオフィスビル。それに隣接する研究棟や簡易レストランなど最低限の生活欲求を満たすための一握りの商業施設。ジェロン島に上陸を果たしたナナたち一行は、かつてそれらを結んでいた道路をさらに先へと進んだ。そして最後まで工事車両と人員が大量投入されていた工場区画を遠く見通せる建設放棄地にたどり着くと、各々が双眼鏡を登山用遮光ゴーグルに当てて凍てついた工場一棟一棟をつぶさに観察し始めた。たとえ昼間であってもブロドリックの手下が予期せぬ訪問者を警戒していないとも限らないからだ。だが双眼鏡の中の工場群周辺で動くものといえば緩やかに吹き渡る風に舞い上げられる粉雪のほかは何もなかった。暫くそれらを観察して安全を確認したリーダー格のマリクは皆に前進を指示した。しかしナナたち一行が移動を再開しようとした、ちょうどその時、雪で半ば埋もれた一棟の工場の車両用鉄扉がきしんだ音を周囲に鳴り響かせた。巨大な鉄扉が開ききると中から白い化学防護服に全身をすっぽり包み込んだ人影が二つ現れた。防護ヘルメットと一体になったフェイスプレートが陽光を遮るために真っ黒に塗りつぶされていることから、彼らがただの人間でないのは明らかだ。
一行に緊張が走った。ナナたちは建設放棄地にうち捨てられた資材の山に素早く身を潜め、ブロドリックの手下と思しき化学防護服の動きをマリクとアンナ、そしてケンの三人が見守った。幸いこちらに気付いている様子はない。彼らは何も警戒することなく、打ち捨てられた信号機の上にひらりと飛び上がると、そこに赤黒い小さなビニール袋を吊り下げた。そして元々は同じであったであろう、そこに吊り下げられて凍りついた物と交換した。簡単な作業を終えた二人は一通り辺りを見渡すと諦めたように肩を落として雪上に下り、もと来た鉄扉の奥へと姿を消した。
「緊急輸血用の備蓄血液パック一単位だわ」
以前はERの看護師だったアンナが双眼鏡から目を離さずに言った。
「本当か?」
「見まちがえるもんですか」アンナは双眼鏡から目を離さず即答した。「B型陽性。パックに印字された血液型まで読めるわよ」
「でも自分たちの食料を、なぜあんな所に吊り下げるんだ?」
「ジェラートにして食べたかったんじゃないの」
「笑えないな、ケン」相変わらず癇に障る言質が目立つケンを一瞥したマリクは、資材の陰に身を潜める仲間を振り返った。
「とにかく、奴らがブロドリックの手下なのは間違いなさそうだ。そして入り口もわかった」
ナナたち一行は更に一時間ほど鉄扉に動きがないのを確認すると、橇の荷台に積まれた断熱包装の中から銀の弾がたっぷり詰まったショットガンを取り出した。一行は武器を握り締め、陸棲烏賊と橇をその場に残すと蛙飛びに似た跳躍を繰り返して手下が消えた鉄扉まで素早く移動を開始した。工場前に到着したナナはすぐさま重い扉に手をかけると、音を立てないように少し隙間を開けて中を覗き見た。大型航空機の整備場を思わせる恐ろしく広い工場内は明かりもなく、空っぽの空間が闇に溶けこむように広がっているだけだった。そこには動くものはおろか人影すらないことを確認したナナは、ニコライに頷きかけると二人で人が一人が潜り抜けられるだけの隙間を開いた。そしてナナを先頭に一向は意を決して次々と中に侵入した。十秒、二十秒。そして三分……。
周囲を警戒しながらヴァンパイアたちは永遠とも思える時間の中、固唾を呑んでその時を待ち受けた。
「どうやら招待状はいらなかったようだな」
腕時計から顔を上げたニコライの一言に、みな安堵の溜息を漏らした。
「さぁ次だ」
そう。血の詰まった風船みたいに身体が弾けなかったのなら、マリクの言うように次だ。目標は地下のシェルターなのだ。厳重な警備はそこからだろう。ナナは小さく息を吐いた。
やがてナナたちは鉄扉と反対の端に地下への階段を認めると、今度はマリクとケンを先頭に一層の警戒心を持って一歩一歩下へ降りていった。湿り気も温かみも感じられない凍てついた地下への階段は限りなく続くかと思われた。ふと階上を見上げるとヴァンパイアの目をもってすら、階段の入口がぼんやりと見えるほど深く降りていたことに気付かされた。やっと地下フロアに着くころには緊張を強いられた筋肉が石のようにかちこちに固まり、ナナは手にしたショットガンが腕や身体と一体化した錯覚に襲われた。地下のフロアは一行が居るところを中心に蜘蛛の脚のように狭い回廊が放射状に伸び拡がり、それぞれの先は闇に沈んだように何も見えず、冷たく乾いた空気だけが淀んでいるだけだった。
「何なんだ、ここ。さっきの奴らはどこに行った?」
「黙れ」
「でも……」
「いいから黙ってろ、小僧」
ケンをたしなめたマリクの緊迫した声から焦りを感じ取った一行に不安が走った。
「マリク」ニコライがマリクに小声で話しかけた。「こう静かじゃ、罠を勘ぐってみるべきかもしれんぞ」
「罠?」と、背後を警戒していたキャスがマリクの代わりに反応した。「罠なら罠で上等さ。片っ端から見つけしだい葬ってやるわ」
「慌てないで」今度はアンナが声を高ぶらせた。「眠ってるのよ。今は昼間だってことを忘れたの?」
「それくらいわかってるわよ。でも奴らの根城っていうんなら、見張りの一人ぐらいはいるはずでしょ」
「みんな動くな」
コルテスの抑制の効いた低音が一行の会話を遮った。皆の目はキャスに向けられたコルテスのショットガンに釘づけになった。しかしコルテスの目はキャスの後ろに続く一本の回廊の奥深くを油断なく見据えていた。
「ゆっくりと、こっちへ出て来い」
コルテスの断固とした物言いに、いつの間にいたのか。それともずっとそこに潜んで皆の話を聞いていたのか。両手を顔の高さに上げた若い男が回廊の暗闇からゆっくりと現れた。首から下が化学防護服なのは、さっき表で見た二人の内の一人だろう。
「撃つなよ。俺は警戒するほど危険な男じゃない。手を下ろしてもいいか?」
コルテスの武器が、まだ自分に向いているのにうんざりしながらも、その若い男は再び口を開いた。
「あんたたちもヴァンパイアなんだろ。仲間を撃つつもりか?」
「俺たちは、お前の仲間なんかじゃない!」ケンの怒声が回廊に響いた。
「仲間でなくてもヴァンパイアには違いないだろ。そんな体温の低い人間がいるわけはないからな」男は肩まで上げた片手で、ゆっくりとナナたち一行の口から出る極端に少ない水蒸気を指し示した。
「動くな」
「喋るのはいいか?」
コルテスの再度の警告に落ち着き払って、そう応じた若い男にケンが再び食って掛かった。
「黙れ!」
「なら、どうすればいい?」
「黙ってればいいんだ。殺すぞ!」
「やめろ、ケン。彼に話させろ!」
溜まりかねたマリクが割って入ったが、ケンの怒気は収まらなかった。
「俺たちは、こいつらを殺しに来たんじゃないのか。なんで止めるんだ?!」
「儂らの狙いは、あくまでブロドリック。しかし邪魔するようなら容赦はせん。そういうことだ」
マリクに加勢したニコライは、そう言い放つとケンに鋭い眼光を向けてから若い男に先を促した。
「喋る許可をどうも、髭の旦那。ただ一つだけ、はっきりさせておきたい」男はゆっくりと両手を下げた。「俺はあんたらに脅されて話すんじゃない。対等な立場で話し合うために口を開くんだってことを。もちろん、そのための準備はこっちだって怠ってはいない」
その言葉に、ケンだけでなく仲裁に入ったニコライまで気色ばんだが、それも一瞬のことだった。一行が気付いたときには、周りのすべての回廊から、ひしめき合うヴァンパイアの静かな息遣いが聞こえ始めていたからだ。
「さぁ、話し合おう。ここでお互い殺しあったって良いことなんかないからな」
*
放射状に広がった通路の一本から奥に進んだところに殺風景だが、天井が高く広々としたシェルターがあった。シェルターの片隅には教会のように十字架と祭壇が設えられており、ナナたち一行を少なからず驚かせた。彼らは案内役の若い男と警護のヴァンパイアたちとともに祭壇近くのベンチに腰を下ろすと彼らの話に耳を傾け始めた。話し合いは互いの集団間に暴力沙汰こそもたらさなかったものの、一触即発の緊張が沈静化するまで、かなりの時間を要した。もっともそこには人数的に劣勢な外来者集団に自暴自棄な行動を起こされ、自分たちが損害を被るのを避けたかった受け手側集団の譲歩も大きく働いたのは言うまでもない。しかし、その譲歩ですらケンとキャスの気持ちを緩和するには至らなかった。そこでニコライとコルテスが視察と称して話し合いの場から二人を連れだすことになった。受け手側も今の自分たちのことを、ぜひ見てほしいと快諾したのは言うまでもない。ただ意外だったのはアンナまでが彼らとの同行を申し出たことだ。おそらく子供のヴァンパイアもいるという話に心惹かれてのことだろう。マリクとナナはそんな彼らが出発するのを尻目に防護服の若い男との腹を割った話し合いを進めていった。
「あんたらはブロドリックの命令には逆らえない」とマリクが口火を切った。「だから何度も砦を襲った。それはわかる。でもなぜ奴は、この期に及んで突然あんたたちを見捨てた?」
「わからん。でも、もうどうだっていい。始祖……いや、あいつは」化学防護服の若い男はその名前を意識的に「あいつ」と言い直した。「食糧を作る触媒を残していった。さしあたり、それで充分なのさ。と言うより、これ以上あいつとは係わり合いになりたくはない。俺たちだって理不尽な命令で多くの仲間を失ったんだ。縁が切れたのなら、もうそっとしておいてほしいというのが正直なところだ」
「えらく疎まれたもんだな、奴も」
「俺たちが増えすぎたのか、人間が減りすぎたからなのかはわからんが、あいつは、まるで性格が変わっちまった。まるで甘やかされ続けた駄々っ子がオモチャを手に入れられなかった時みたいに、いつもイライラして当り散らしてた。気まぐれに仲間同士で死ぬまで戦わせたり、何日も眠り込んで棺から出てこないこともあった。心配して調子はどうかと尋ねただけで喉を裂かれた仲間もいる。先月なんかは思いついたように北米まで二百名の仲間を遠征に連れて行ったはいいが、一人っきりで戻ってきて理由も話さない。最近の俺たちは、あいつの一挙手一投足にすっかり怯えきってたんだ。そして、とうとう戻ってこなくなった。こんなことは初めてだ」
「奴に捨てられたということか、お前さんたちは?」
「よしてくれ。これ幸いに俺たちの方が奴との縁を切ったんだ」
若いヴァンパイアはニコライの問いかけに、祭壇の十字架に顎をしゃくってみせた。
「だったら、貢物よろしく表に掲げられた人血は奴のためじゃないのね?」
ナナは未だ警戒の解け切れぬ目で若い男を見据えた。
「当たり前だろ。あれはあんたたち用の餌だよ。言ってみれば目印みたいなものさ。でも、こんなに仲間がいたなんて思いもしなかったよ」
「餌ねぇ……」と、ナナの代わりにマリクが苦々しく応じた。
「長い道中だ」若い男がナナを見た。「きっと飢えてると思ったんだ。すまない。気を悪くしたんなら謝る」
「でも、なぜ私がここへ来ると?」
「俺たちは人間に招待されない限り小部屋にだって入れない忌み者さ。でもヴァンパイアが世の中に存在する以上、人間には『もしかしたら……』という不安は常について回る。人間としては宿敵ブロドリック一味の情報を多く持っているにこしたことはない。そして砦にはヴァンパイアはあんた一人。きっと、人間たちに快くは思われてないだろ。だったら、少しでも自分の立場を良くしようと、情報収集のためにここへ来るしかない。そう結論を出すのは難しいことじゃなかった。ただ意外だったのは、情報収集どころか、仲間連れであいつを滅ぼしに来るなんて思いもしなかったってことさ」
「時に創造主に盾つく愚かなヴァンパイアもいるのよ、私みたいに」
ナナは自分が奇襲を言い出した本人であるかのように自嘲気味に言った。そんなナナを弁護しようとマリクが口を開きかけたとき、数名のヴァンパイアとともにニコライが回廊の奥から現れた。彼はナナとマリクに頷くと、手の中の給水ボトルを差し出した。
「彼らの言う通りだ。ただの海水を口にし続けて緩慢に弱ってゆくより遥かにいい。まぁ、ブロドリックの血液が触媒になっているという胸糞の悪さを忘れることができればだが」
マリクはボトルの蓋を開けると、黄色い液体に恐る恐る鼻を近づけて臭いをかいだ。
「無臭だ」若い男がマリクに顔を向けた。「俺たちは精進水と呼んでる。それを作る触媒は、確かにあいつの血だが、直接海水に混ぜたりするわけじゃない。奴の血を密閉したボトルを近くに置いておくだけで何ガロンもの海水が手品みたいにそいつに変わってくれる。蒸留すればタブレットにすることだってできる。だが味には徹底的な個人差がある。俺は果物の桃だと思うが、リンゴだと言い張る者もいる」
若い男の視線を受け、今まで一言も口を開かなかった丸顔のヴァンパイアが遠慮がちに手を挙げて「そう。僕はオレンジの味を感じます」と小声でぼそぼそ呟いた。
「アンナもオレンジ。だがコルテスは苺だと」ニコライが言い添えた。「我々の味覚をどう刺激するのか謎だが、全員に共通するのは果物の味だということかな。ちなみに儂はメロンの味を感じた」
「なるほどな。ところでケンたちの姿が見えないが?」
「あぁ。外の空気を吸いに行ったよ」
ニコライの口調から、ケンとキャスは外の空気を吸いに行ったのではなく、頭を冷やさせるために外に連れ出されたのだと察したが、マリクはただ「そうか」とだけ応じた。そんなマリクたちを見て若い男が身を乗り出した。
「俺たちに対するあんたたちの思いは、それぞれ複雑だと思う。でも俺たちは精進水であんたたちを飢えから完全に解放することができる。是非そうしたいと思ってもいる。これは俺たちの総意だ。それに人間たちを助けることもできる、彼らをヴァンパイアに転生させるってことじゃなくな」
「それは、ありがたい申し出だな」マリクの言葉に警戒の色が滲んだ。
「だから……」若い男は言いよどんだ。
「『だから』?」と、オウム返しにマリク。
「俺たちの頼みを聞いてくれないか?」
「そらきた」ニコライが鼻白んだ。「死んだ婆様が昔から言ってたもんだ。『ただより高価なものはない』とな」
「待ってくれ。話す前から判断しないでくれ」
「わかった。話せよ」と、マリク。
「少し出すぎた願いだとはわかってるんだが」若い男は意を決したようにマリクの目をまっすぐに見詰めた。「俺たちも城砦に……あの街に住まわせてくれないか、あんたたちのように」
「馬鹿なことを言うな」マリクは次の言葉を発するまで数瞬を要した。この申し出が彼にとっても相当意外だったに違いない。「残った人間たちがヴァンパイアと生活することを許すわけがない。わかるだろ、それくらい。あの伝染病でどれだけ犠牲になったか知ってるのか?!」
「今ごろは人間たちは全滅してるかもしれない」
「言って良いことと悪いことがあるぞ」
気色ばんだニコライに若い男がばつの悪そうな顔を向けた。
「すまない。失言だ。許してくれ。でも、ここには親を失った小さな子や、ここで生まれた子もたくさんいるんだ。なぁ、あんたもさっき見てきたろう。あの子らをこんなところに置いておかないでくれ。確かに橋を渡れば立派な街はあるが、ただそれだけだ。中身なんて何もない空っぽの空間みたいなもんだ。でも、あの城砦は街だ。街には人間らしいまともな生活と教育……文化がある。それをあの子たちに与えてやってほしいんだ。それに、もしまたブロドリックが戻って来たらと思うと……」
ヴァンパイアの口から人間らしいという言葉が出ても誰も笑わなかった。それどころか、その場の全員がこのブラム氷期とブロドリックに自分たちが奪われたものが何だったかをその言葉は思い出させた。
「しかしお前たちは」と、無口なコルテスが淡々と応じた。「人間に有害なウイルスの感染源だ」
「俺たちは街に着く寸前に発症した。微妙な身体の変化もあった。でも半日だけだ。そこからはあっと言う間に快方に向かって体温は二十二度。脈拍も通常通り一分間に二十四だ。誰ももう感染源にはならない。安全だ。それに他の見返りも用意してある」
「見返り?」
「発電所。あっ……あの街には……それが必要だと思います」丸顔のヴァンパイアがマリクの「見返り」という言葉に反応して、おどおどと口を挟んだ。
「残念だな。我々はもう原子炉は持ってる」
「黒鉛型の旧式は放射線の遮蔽も難しいし、出力を上げると危険です。事故が起こる。始祖は……あぁ、ごめんなさい。ブ……ブロドリックは城砦……街は色々な施設が稼働し始めてるから、あれでは、すぐに電力供給が追い付かなくなるはずだと言ってました。僕なら解決できると思います」
言葉に詰まりながらも一気にそこまで喋ると丸顔のヴァンパイアは乾いた唇を舐めて皆の反応を伺った。沈黙の中、若い男が話を続けるように目配せしたので、彼は大きく息を吸い込むと先程よりも、ややゆっくりとした口調で再び話しはじめた。
「僕は当初、あなたたちの街のエネルギープラントの設計者でした。2004年の海洋地震でインド南部の原発が事故を起こしかけたので、スマトラでも原発は禁止になったんです。だからアルキメデスのスクリューを改良進化させたアルキメディアン・ホンダ・システムの潮汐発電を使うことになりました。でも氷期が来てそんなことも言ってられなくなったんです。実験稼働まで、あと少しだったのに。ほんとに少しだったんです」
「潮汐発電……海は凍って波もないのにかね?」ニコライが探るような声を上げた。
「凍ってるのは表面だけ」と、丸顔のヴァンパイア。「木星の凍りついた第二衛星だって海中には潮汐力が働いてるんです。地球が凍りついたって問題ない。城砦の目と鼻の先には手付かずの安全なリアクターがあるんです。建屋と長い電送ラインは耐震用に地下区画に設置してます。そう……まるで、その……大きくて……長い廊下を地下室みたいにして、幾つも、幾つも区切って作ったんです。それが完成してたんです、僕がまだ人間だったころに」
「しかし信用できるのかね」ニコライは訝しげに口をすぼめた。「その潮汐リアクターとやらは、まだ実験段階なんだろ?」
「ここも既にそのリアクターの小型のものを使ってますよ」丸顔ヴァンパイアの声は小さかったが自信に満ちていた。「海が浅くて大きなものは設置できませんでしたが、故障もない」
「なぁ」若い男の口調が再び熱を帯びた「電力問題も解決できるんだ。それでも駄目なら……いや俺たち大人が駄目でもいい。でも子どもたちだけは面倒を見てやってくれないか。せめて快適なベッドと教育、いやブロドリックからの安全だけでも与えてやってくれ。頼む」
「わたしからもお願いよ」いつの間にかアンナが回廊の入り口の一つに立っていた。彼女はいたわるように一人のヴァンパイアの女に寄り添っていた。妊娠しているのか、その女のお腹は大きかった。「娘のジェイミーよ。転生して、ここに居たの」
「なぁ、あんたからも仲間に頼んでくれないか」若い男は、これが最後とばかりナナに懇願した。「今さら、こんなこと言いたくはないが、あんたは俺に借りもあるはずだろ」
初めて顔を見たときからナナには彼が何者なのかわかっていた。
彼はナナが血を呑み干した、あのとき彼女のアパート前に駆けつけた若い警官だった。
*
激論の末、ナナたちはジェロン島にいたヴァンパイアの思いを砦の人間たちに伝えるパイプ役になり、彼らを連れて行くことを承諾した。それに激しく反発したケンとキャスはナナたちに怒りの矛先を向けたが、どうにもならないと知ると、翌朝、皆が寝静まってから橇に持てるだけの食糧タブレットを積み込んで黙って島を抜け出した。彼らの置手紙にはブロドリックを地の果てまで追い詰めて滅ぼしてみせると決意の殴り書きがしたためてあった。むろん、食糧と橇を盗んだことに対する謝罪の言葉は一言も書かれていなかった。この一件でナナたちとジェロン島の集団に一時的に不穏な空気が流れたが、それもすぐに影を潜めた。未来に進むためには、いがみ合ってばかりはいられないと、二つの集団の全員がわかっていたからだ。
ナナたち一行は、シンと自己紹介した防護服の若い元警官を筆頭に、二次性徴を終えたばかりの少年少女七名のヴァンパイア使節を伴って徒歩で城砦に帰還することになった。当初、ナナたちは子どもを重大な危険に晒すかもしれないこの決定に難色を示したが、使節団のほとんどを子どもで編成した方が人間の警戒感を少しでも緩和できるのではないか。また子どもを連れてゆくことで人間の慈悲心に訴えかけられるのではないかというジェロン島にいるヴァンパイアの強い総意に押し切られることになったのだ。もちろん城砦にいる人間に対する配慮はそれだけでは不十分だ。シンたちは自ら紐状の工業用導爆線でネックレスを作り、そこに警察無線を改造した起爆装置を取り付けて首に巻きつけた。いつでも人間の手で自分たち自身を無力化できるようにしたのだ。もっとも、それぐらいしても人間たちが話のテーブルについてくれる可能性は多くはないだろうが。
61
八日かかってナナたちが帰り着いた城砦都市は出発した時となんら変わらぬ威容を誇っていた。ヴァンパイアの少年少女たちは初めて目にする巨大な防壁の禍々しさを前に、旅の疲れを忘れて、ただただ息を呑むばかりだった。
ヴァンパイアに転生した事実を隠し、あまつさえ無断で城砦を抜け出した一行は人目を憚ることを考えて、まず少人数で探りを入れることにした。月明かりが厚い雲に遮られる時を狙って、マリクとアンナ、そしてコルテスが一気に壁をよじ登って城砦内に入った。
護衛役として少年少女たちと残されたナナは正直彼らに対する戸惑いを隠せなかった。まだ世界が比較的平和で、母国にいたころ、赤ん坊だった甥や姪の面倒をみたこともあったが、研究室詰めになってからというもの、思春期の少年少女と接する機会など絶えてなかったからだ。事実、少年少女たちは一行の中でもナナには道中どこかよそよそしかった。そんなナナと共に城壁前に残ったニコライは「年頃の子どもは自分たちと他人をきちんと線引きして接する術を既にもっている。ただ線引きが難しいと感じる者には余計に警戒心が働くだけだ。別に良いとか悪いの問題じゃないんだ。だから今は焦らず誠実に接してやるだけでいい。正しいやり方なんてない」と耳打ちしてくれた。実際に彼の言う通りなのだろう。彼らと過ごす時間はこれから飛躍的に増えるだろう。骨が折れるだろうが、彼らを知り、そして導くのはそれからだ。ナナは好奇心と不安の中で落ち着かない様子の少年少女たちを見やった。
人生の大きな岐路に立った少年少女たち……その時、ふと自分も大切な何かの目的のために見渡す限りの雪原を仲間たちと踏破したのだという既視感めいたものをナナは感じた。しかし中学から大学の研究室に入るまでサマーキャンプと名の付くものに参加した経験すらなかったのに、そんなことがあるはずもない。もしかしたら、また脳腫瘍が再発して、ありもしない擬似記憶が形作られたのだろうか。詳細がぼやけてはいても、ナナはそんな事実が自分にあったのだという明確な思いを拭い去ることが出来なかった。
いったいこれは何だろう。再びありもしなかったはずの記憶を探ろうと意識を集中した矢先、ナナの目の前で突然内蔵された巨大な滑車の動きに連動して分厚く巨大な城門が地響きを立てて左右に開き始めた。
*
「私は執政委員代表のルーシー・ギャレットです。お待たせしました。歓迎しますわ、皆さん」
その歓迎の言葉とは裏腹に両手を背中の後ろで組んだルーシーの顔は緊張で半ば引き攣り、二十名近くの武装した警備も決して友好的とはいえない物々しさを醸し出していた。
彼女は再び口を開いた。
「あなたたちのことは、さっきマリクから聞きました。これは最低限の予防措置だと思ってください。なにせ、あなたたちは……その……」
「ヴァンパイアですから」
相手が言いにくい言葉を引き取ったシンに少年少女から緊張を伴った微かな笑いが起こった。夜にヴァンパイアの一団と対峙するのだから、人間側の対応も無理からぬことだが、同時に目の前の親友に対して言いようのない違和感が湧き上がってくるのをナナは抑えることができなかった。
「では、これを」
シンがスイッチカバーを開けた状態の起爆装置を差し出した。少し躊躇ったのち、城門の外まで足を運んだルーシーはそれを受け取ると赤いライトの明滅するスイッチをしげしげと見やった。
緊張の一瞬。
その気になれば、ほんの一動作で彼女はここに集ったヴァンパイアの首を吹き飛ばして一掃できる。
「お預かりしましょう」そう言うと、ルーシーはスイッチカバーを閉めて電源を落とした。「さぁ、ここの執政委員会のお歴々がお待ちかねです。もちろん、マリクたちも。早く中に入って雪上車の曳く荷台に乗ってください。ナナ、あなたもよ」
どうやら使節団は歓迎されたようだった。記念すべき第一歩を城砦内に記したジェロン島のヴァンパイアたちは、雪上車が引く天蓋のない荷台に人間たちの一団と共に乗り込んで城塞都市の奥深くに進んでいった。しかし道中、ヴァンパイアも人間も荷台の中で互いに距離を置いて座り、口をきく者はいなかった。そして誰もが値踏みをするように相手の集団を油断なく見張っているように見えた。歓迎と言ってもルーシーは歓迎してくれた者の代弁者にすぎないのだろう。だが、凄惨な殺し合いを演じた集団としては、これはこれで上等な方だ。
ぎこちない沈黙を乗せた荷台は、やがてナナが見慣れた建物に近づいていった。新型H5N1インフルエンザ患者とその死体を収容している巨大施設だ。施設に着いた一行は荷台から降りると周りを武装した護衛に固められてエントランスに入り、そこから延々と続く長大な螺旋回廊を奥へと進んでいった。
「ルー」ナナの声が回廊に吸い込まれた。「中は感染した人たちの……」
「もう、誰もいないわ」ルーシーの答えは素っ気なかった。「亡くなった人たちの遺体は適切に処理したし、生き残った者は自分の宿舎に帰った」
「そう……」
「ところで」螺旋回廊を進むルーシーの口調が突然、以前のように打ち解けたものに変わった。「ここは都市の中心に位置してるから象徴的な意味合いも込めて委員会そのものも中に移したんだけど、どう思う?」
「『どう思う』って?」
「例えば力を感じるだとか、威厳がみなぎってるだとかよ」
「この場所には……」釈然としないものを感じながらナナは言いよどんだ。「その、あまり良い思い出がないから……」
「それは残念ね」
それだけ言うとルーシーは施設内部に到着するまで、今度はシンや少年少女たちに色々と話しかけた。その姿は査察に入った衛生局の役人に纏わりついて相手のご機嫌を取るレストラン・オーナーのようにも見えた。しかしナナはルーシーの態度から一番重要なものを嗅ぎ分けられなかったことを後々まで後悔することになる。
「それで、ミスター・シン」ルーシーは立ち止まると護衛から手渡された設計図から目を上げた。「あなた方が私たちに提供できるのは、黒鉛炉に替わる新型リアクターの最終設計図。それに夜間限定のセキュリティとのことでしたが、それはブロドリックに対しても有効でしょうか?」
「奴自身が我々との関係を断ちました。関係が絶たれた以上、再び操られることはないと信じていますが、確信するまでには至りません。ですから、受け入れてもらえた者には全て、あなたにお渡ししたのと同様の起爆装置を義務づけようと思います」
「ヴァンパイアの生殺与奪を私たち人間の手にということですか?」
「それで、あなたたち人間が安心してくれるなら」
「それは素晴らしい」
一行は入場を禁止されていた地下へ向かい、エアロックを思わせる区画に入った。急ごしらえで設置されたのだろうか。内面はどこもかしこもピカピカと真新しい金属の壁に覆われていた。やがて後方の分厚い扉が閉じられた。
「疑うわけではないのですが、あんなことがあった後です。洗浄のため、ここで少し待ちます。検疫みたいなものと思ってください」
ファンを回すモーター音がして、すぐに空気中にアーモンドのような甘ったるい匂いが漂いはじめた。見る間に少年少女たちが喉を掻き毟りながら倒れていった。喉に激痛を覚えながらナナは身体から力が抜けてゆく感覚を味わった。青酸ガスでも撒かれたのかと薄れゆく意識の中で考えたが、ヴァンパイアに青酸性毒物が効かないのはナナ自身が人体実験で実証済みだ。それにルーシーたちは撹拌される空気の中で髪をなびかせて平然と佇んでいる。ルーシーたち人間は何事もない。ただ床に倒れ伏しているのはヴァンパイアだけ……まさか。臭いの微粒子に遠い記憶が呼び起こされた。ニンニクだ……では、これは罠。そう思った途端、ナナの意識はブラックアウトした。
*
ナナは撃たれたことを瞬時に感じ取った。
胸の防弾プレートを難なく突き抜けた二発の高速ライフル弾が肺を抉り、そこからの大量出血で呼吸ができなくなった。その苦しみに身悶えながら口からゴボゴボと血反吐を吐いた。ぎらつく砂漠の太陽の下で仰向けに倒れているナナは自分の血で溺れ死ぬのだと誰に教わるでもなく自然に理解した。そして自分に覆い被さって何か叫んでいる兵士の声が遠のくと苦痛の中で再びブラックアウトした。
*
ナナは遥か下のアスファルトの地面に向けて落下していた。
来たるべき苦痛よりも恐怖と後悔で両目に涙が溢れたが、もうどうにもならなかった。会社に損益を被らせたからといって、そんなことぐらいで死ぬことはないのだ。
そうだ。無一文になっても、またやり直せばいいだけことなんだ。小粋に着こなしたブランド物の高級スーツの裾が風に煽られるバタバタという音を遠くに聞きながら、ふと、ここでの自殺者は自分で何人目だろうと別の思いが頭をよぎった。しかし、その刹那、もの凄い衝撃音がして頭と上半身に凄まじい激痛が走り、ナナの意識はそこでプッツリ途切れてブラックアウトした。
*
ナナは静かな死の床にいた。
窓の外に広がる清々しい緑とは打って変わって病室の壁は冷たいリノリューム材の壁に覆われ、それより無機的に見える無数のチューブと医療器械が身体中に繋がっていた。痛み止めのモルヒネの効果は既になく、次から次と襲いくる末期癌の痛みに顔を歪ませ続けた。
「お願いよ……もう終わらせて……」
何十回、何百回と声にならない懇願を呟き続けるうち、ナナの意識はまたブラックアウトを迎えた。
*
何千回、何万回……ナナは様々な死のステージごとに、どれほど助けを求めてきただろう。いつしか彼女は次に来る死の予感だけで、激しい恐怖と苦痛、強い悲しみに苛まれた。しかしいくら願ってみても慈悲深い助けの手が差し伸べられることはなかった。終末を迎えるごとにリセットされては繰り返される新たな破滅の人生……永遠に終わることのない様々な地獄。その責め苦に耐えかねて、とっくに精神が破綻していても不思議ではなかったし、いっその事そうなってほしいとさえ、新たなステージを迎える前に数限りなく祈ってきた。
だが、何者かがそれを頑なに阻止しているように思え、遂に正気を失うことはなかった。
ゆっくり休みたい。二分……いや、それが無理なら十秒だってかまわない。この絶え間のない煉獄を退けることが無理でも、僅かばかりでも遠のけられたら、どんなに心が休まるだろうか。でもそれは儚い希望にすぎない。
また次のステージが始まる嫌な予感が意識に浮かび上がってきた。
また始まる……新たな破滅の人生が………。
*
不思議なことに目覚めると苦痛も恐怖もなかった。いつものように絶望の筋書きが自然と意識に受け入れられ、操り人形のように、その人生を演じさせられるのだという感覚もなかった。
どうして?……。
深い安堵が疑問に変わった。目に視力が戻り始め、やがて焦点を結ぶと、髪が白く顔に深いしわが何本も刻まれた老齢の女がこちらに顔を向けていた。その女は両脇に自然生まれとは到底思えない巨大な体躯の人間を従えながらナナに近づくと、しげしげと彼女を観察しはじめた。そして、やおらフロアの下にいるであろう誰かに大声を張り上げた。
「彼女は目覚めているの?!」
「オフラインにはなっておらんよ、指導者閣下。意識は戻ってないはずだがね」と、下にいる車椅子の老人が人を見下したような声色で不平を漏らした。
「でも、そうは思えないわ!」と、ナナ睨みつけながら、また女が叫んだ。どこかで聞いたことのある声だった。「とにかく解凍した補助デバイスを用済みのものと早く入れ替えなさい。そしてもう一つ。私の周りで陸ガメどもをうろちょろさせないで!」
「ルー?……」
その声に女の顔が引き攣って絶句した。
「やはり意識が……。イースト博士、やはり目覚めてるわ。陸ガメはいいから、その車椅子をサッサと動かして、こっちに来てすぐに調べてちょうだい!」
「しかし……」
「すぐやりなさい!」
加齢で少し低くはなっていたものの怒った時の口調や自動機械を陸ガメと揶揄する癖から間違いはない。目の前の老女はルーシーだ。
「ルー……」ナナは声を絞り出した。声は声帯にヤスリを掛けられたようにざらついている上に、指の一本も動かせない。「助けて……私に何が起こったの?……ずっと悪夢の中にいるの、助けて………」
「それは当然ね」だいぶ経ってから年老いたルーシーは応えた。その声は低く威厳に満ち、そして冷たかった。「お前は神等に繋がれてるから、夢を見るのよ」
「神等……神等?」記憶を取り戻す鍵でもあるかのように、ナナはその言葉を反芻した。
「人恋しい変態量子脳よ、忘れたの。人間を繋ぐより遥かに良心的だから、あなたたちに協力してもらってるのよ。補助デバイスとしては人間より耐性もあって長持ちだから礼を言うべきかしらね」
「あなたたち?……」DVDの早戻しのように量子脳に見せられ続けた悪夢を一足飛びにしたナナは自分たちに対して行われたであろう仕打ちをやっと理解した。しかし口をついて出た言葉は恨みや怒りではなかった。「子供たち……マリクたちは?……」
「お黙り!」ルーシーの平手打ちが頬を打ったようだが、ナナは何も感じなかった。「あの人までヴァンパイアにするなんて親友が聞いて呆れるわ。ヴァンパイアになったお前を信じた私が馬鹿だった。これじゃぁ、四十年前の殺人ウィルスの方がまだましね!」
「違うの……」ルーシーの言葉から既に四十年の歳月が欠落したという事実より、ナナには親友に誤解されたままの方がショックだった。「私はマリクたちに頼まれて彼らを……」
「違わないわ。お前はあの時の殺人ウイルスと同じ。ここでヴァンパイアを増やして、新たなヴァンパイアまで連れ戻ってきた。でもここは人類最後の砦。お前たちを神等に繋いでからも、お仲間がたびたびやってきたけど、そのつど騙して捕まえてやったわ」ルーシーの顔に残酷な微笑が広がった。「ほら、用済みになった補助デバイスの交換よ。新しいのを入れたから、あれは用済みね」
ルーシーの肩越しに自動機械の引くカーゴに折り重ねて乗せられたものが目に入った。干からびてミイラのようになっているが、それは間違いなく五人の人間の身体だった。その中の三つは大人にしては比較的小さかった。そして残りの一つには白髪交じりの立派な口髭が。もう一つにはボブに切りそろえた赤毛の頭髪が。ニコライ……アンナ……。
「酷い……」
「さて」ルーシーは顔を近づけた。呼気からは微かなニンニク臭がした。用心のためか嫌がらせかはわからなかったが、おそらく両方だろう。ナナは顔を背けようとしたが無理だった。「今日、目覚めてもらったのは、この四十年間に二百体以上の陸ガメをどこにやったかよ。半数はジェロン島に送り出したことは突き止めたわ。残りの半数はどこに遣ったの?」
「なんの話かわからない」
応えながら、ナナの心にルーシーへの憎悪が止めどなく湧き上がってきた。いや、彼女へというだけでなく、ヴァンパイアというだけで善良な者たちを子供であっても容赦なく道具のように使い捨てて続ける、この砦にいる人間たちに対して。
「わからないわけはない!」再び平手が頬に飛び、ナナの冷たい憎悪が身体中に染みだした。それは枯れ枝のように細くなった腕をルーシーの喉元に伸ばす力を彼女に与えた。しかし死にかけた腕で出来るのはそこまでだった。驚きながらも腕の届かないところまで後ずさったルーシーはなおも叫び続けた。「量子脳はあんたの脳をモデルにしてるのよ。あんたが量子脳を操って陸カメどもを、どこかにやったんでしょ……何を笑ってるの?」
ナナには量子脳がやったことかどうかもわからなかったし、仮に量子脳に何かの目的があったとしても皆目わからなかった。所詮、人間に近づけて創ったモノなら気まぐれを起こすことだってあり得るし、目的があったところで今の彼女にはどうでもよかった。ただ、わからないことに苛立つ人間がいることが無性に可笑しくてたまらなかった。ナナは自分に向かって口汚くののしり続ける、かつての親友と、その隣で途方に暮れる車椅子の老人に目を止めた。
笑いが収まると、また先程の憎悪で心が満たされてゆくのを感じた。とてつもなく大きくて強固な憎悪だ。それに突き動かされるようにナナは何かを叫んだようだが、叫んだ当の本人にも、それが何だったのかは、わからなかった。ただ目の前の老女が巨躯の二人に何かを命じ、命じられた二人は何の躊躇もなくナナに歩み寄ってくるのだけが見えた。二人の手には巨大な刃物が握られていた。ヴァンパイアの彼女には光の反射具合と金属独特の臭いから、それが純銀製なのがわかった。
自分は間もなく殺されるだろう。
しかし恐怖はなかった。かといって永遠に続く煉獄から解放されるであろう深い安堵があるわけでもなかった。あるのは不思議なくらいに研ぎ澄まされた純粋で巨大な人間に対する憎悪だけだった。
死ぬ寸前、憎悪がすべてを包み込み、ナナの意識は再びブラックアウトした。




