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デイ・ウォーク  作者: たかや もとひこ
8/8

死闘……そして旅立ち

               62

 (はる)かな過去からナナクサの魂が闘技場に戻った丁度そのとき、二人の人間と自動機械(オート・マトン)の制御棒は天蓋(てんがい)に空いた大きな亀裂からの落下をまだ続けていた。吸血の衝撃で過去へ魂を(はじ)き飛ばされていたナナクサが、自分がかつて何者だったのか。また、どんなことを経験したのかを追体験して、また目覚めるまで、この氷河期の世界では僅か半秒の時間しか要しなかったからだ。

 しかし、その(わず)か半秒の中には彼女が今の自分に生まれ変わる前の残酷さに彩られた苛酷(かこく)な半生が凝縮していた。そこには何も成しえず、何者をも救いえなかった空虚さと痛み。そして裏切られたことに対する落胆と相手への激しい憎悪しか存在しなかった。それはナナクサとして目覚めた彼女に耐え難い苛立(いらだ)ちと混乱を与えるに留まらず、やがて()き上がる憤怒が心の中を満たしていった。

 闘技場に棒立ちのままで意識を回復したナナクサは事切れた第一指導者の腕を口からもぎ離すと、頭上に落下してくるものに対して再生した左腕を無意識に指し伸ばした。すると目に見えない力が落下する二人の人間、エイブとレン補佐長の身体を透明の網となって包み込んだ。しかし小さな制御棒だけは見えない力場の網目からすり抜けて固い石造りの床面に当たって砕け散った。その乾いた音に、ナナクサは我れに返るやいなや、いま自分が置かれている状況を明確に理解した。

 ナナクサは空中で(つか)み取ったものにちらりと目をやると、にわかに顔を(ゆが)ませた。

「汚らわしい……」

 ナナクサは誰に言うともなく吐き捨てた。そして手についた汚物を払うように左手をひと振りすると、二人の人間の身体は遠くに投げ出された。レン補佐長の身体は戦っている戦士と再び増加し始めた吸血奴隷(バイターズ)の間に投げ出され、エイブは闘技場に駆けつけたジョウシの両腕に床面すれすれで受け止められた。

 ジョウシは一目でエイブの傷が致命傷であると見てとったが、迫り来る吸血奴隷(バイターズ)の猛攻から彼を捨て置くことも出来ずに、拾った長槍(ちょうそう)を果敢に振るって敵が近づかないようにするのが精一杯だった。一方、混戦の中にナナクサがまだ生きていることを確認したファニュは遠くに見えるその背中に声を張り上げた。しかし振り向いたナナクサの瞳はまるでガラス玉のように(うつ)ろな光を放っているだけだった。

「ナナクサ!」

 再度の呼びかけにナナクサのガラスの瞳に炎が宿った。だが、それは以前の彼女が持っていた、若く瑞々(みずみず)しい炎ではなく、怒りの回廊から抜け出ることも叶わずにくすぶり続ける老いたる鬼火だった。

「なにを人間ごときが」前世のナナの意識に取り込まれたナナクサから怨嗟(えんさ)の言葉が口をついた。「卑劣で慈悲の欠片(かけら)もない人間ごときが……」

 ナナクサはヴァンパイアですら目にも()まらぬ速さでファニュの眼前に瞬間的に移動すると、片手でファニュを、もう一方の手で横にいたクインの首を絞め上げた。二人の人間はナナクサの豹変に驚きながらも必死にその手を振りほどこうと躍起になったが、ヴァンパイアの力の前に両膝を屈して早くも絶息しはじめていた。

「お前はいったい何者だ?……」

 ファニュの身体中にできた擦り傷から流れた血の中に潜む匂いを敏感に嗅ぎ取ったナナクサは忌々(いまいま)しそうに(つぶや)いた。それは懐かしくも決して許すことができない存在。思い出すだけで両手がぶるぶる震うほどの怒りに駆られる人間の匂い。ナナ・ジーランドを裏切った親友から放たれていたのと同じもの。ヴァンパイアの嗅覚はファニュからルーシー・ギャレットと同じ生化学物質が分泌(ぶんぴつ)されているのを感じ取ったのだ。

 目の前にいるのはルーシーの直系の子孫に違いない。平和を求めたヴァンパイアたちを()まし討ちにした挙句、あろうことか量子脳(カミラ)への生贄(いけにえ)(きょう)しまでした罪は到底(まぬが)れることはできない。たとえそれが本人でなくとも、その血を受け()ぐ者である以上は。

 ナナクサの心に(あらが)いがたい(ゆが)んだ復讐心が芽生えた。

 ただ殺すのは簡単すぎる。自分が前世に受けた苦痛の、せめて何十分の一かでも返してやらねば気がすまない。ナナクサは目の前の人間の苦しみが長引くように少し力を(ゆる)めて相手が咳き込みながらも一息つくのを待って、再びその首を絞めはじめた。絞め続けていると再びファニュとクインの身体から力が抜けてゆく。顔がむくみ、次いで青黒く変色しだした。

 あと数秒遅ければ二人は助からなかっただろう。間一髪で彼らを救ったのは吸血奴隷(バイターズ)と戦士の群れからエイブを抱えて、やっと抜け出てきたジョウシだった。彼女はただ事でないナナクサの様子を瞬時に感じ取るや、その手首を長槍(ちょうそう)の固い()で打ち()えた。しかしそれでも手を離さないので、ジョウシは長槍(ちょうそう)を握る自分の手が痺れるまで何度も打ち()えて、やっとナナクサを二人からもぎ離した。

「何をするか?!」

 倒れこんだファニュとクインを(かば)うように立ちはだかったジョウシの怒声がナナクサの耳朶(じだ)を打った。

「復讐よ、邪魔しないで」

「復讐じゃと」ナナクサとも思えない冷たい声に思わず息をのんだジョウシは、空かさず首を横に振った。「馬鹿者。ファニュは我れらの仲間であろうが!」

「何が仲間よ。こいつら人間が私たちに何をしたか知らないから、仲間だなんて悠長なことが言えるのよ」

「ミソカと同じじゃ。お前は正気を失っておるのじゃ、ナナクサ!」

「いいえ、正気よ!」ガラスの瞳に憤怒(ふんぬ)と皮肉をたたえたナナクサは言うが早いか、混戦の中を足早に歩を進めて進行方向にいる吸血奴隷(バイター)と人間の戦士の隔てなく、進路上にいる者をことごとく()ぎ倒した。そして闘技場の真ん中に到着するとジョウシに振り向いた。「いま、その証拠を見せてあげるわ!」

神等(カミラ)! 忘れられし無慈悲な管理者! さぁ、姿を見せよ! 私の声は届いているはず。私は知った。お前は私で、私はお前。さぁ早く、その醜い姿をお見せ!」

 ナナクサは何度も同じ言葉を呪文のように大声で繰り返した。その叫びは混戦の喧騒に()き消されてはいたが、やがて床面全体が(かす)かに振動し出すと、そこにいる誰もが異変に気付き、吸血奴隷(バイター)ですら戦いの手を止めて何が起こるか、ナナクサの立つ闘技場の中央を注視し始めた。

 振動が止むと突如、闘技場中央に敷き詰められていた一辺一メートルほどの分厚い石畳がことごとく波打ちながら次々と崩落を起こし、そこにぽっかりと円く暗い穴を穿(うが)った。そして重い歯車同士が(きし)る不快な音とともに、穴の開いた床面から量子脳(カミラ)を内蔵した巨大で不格好な塔が現れ、穴をピタリと(ふさ)いだ。石畳から生えたトーテンポール状の塔は高さが十メートルを優に超え、表面の半分以上が不気味に脈動していた。見ると脈動していると思われた部分は独立して動いており、そこから、ぼとぼとと何かが()がれ落ちては、またかさかさと石畳を素早く()って元いた場所に取り付いた。量子脳(カミラ)が自身専用の保守のために設計して造り上げたのだろう。それは一般のものより二周りは小型で黒光りをした自動機械(オート・マトン)で、まるで枯れ木に群がる害虫を思わせる醜悪な形状をしていた。

 ナナクサは塔の天辺(てっぺん)まで何十にも(ひも)を巻いたように、円周上に()えつけられた幅の狭い(ゆる)やかなキャットウォークに近づくと、それを使わずに十メートルばかりの高さまで一気に飛び上がった。そして目に前の二体の自動機械(オート・マトン)を引き()がすと、塔の表面にあるパネルを力任せに引き開け、中の緑色に明滅を繰り返すゲル状の溜まりに片手を突っ込んだ。そう。(はる)かな昔、ルーシーがやっていたのと同じように。

「承認なさい」

「正体不明の生体反応を検知。承認不能」

 すぐさまナナクサと同じ声が闘技場すべてのスピーカーを通して無機的に響いた。その声にジョウシとファニュは驚いたが、ナナクサは意に介さず、更に指令を叩きつけた。

「どんな認証方法でもいいから、認証なさい」

「精神波を照合中……ナナ・遠野(とおの)・ジーランドの精神波を検知。ナナ・遠野(とおの)・ジーランドと確認。承認を完了」

「私は以前のナナクサじゃない。遥かな昔、人間どもに酷い目にあわされたナナ・ジーランドの魂の記憶を持つ新たな存在よ」ナナクサはジョウシに、そう告げると神等(カミラ)に視線を戻した。「では、新たな指令を受け入れる準備をなさい。口頭で伝える」

「口頭での指令の受け入れ準備を完了」

「指令。今からお前が保持する、すべての補助脳(有機デバイス)を解放なさい」

「警告。すべての補助脳(有機デバイス)を解放すると、私自身の機能も停止します。したがって指令拒否が妥当と判断。あなたの指令は取り消されました」

上書き(オーバー・ライド)!」ナナクサは声を荒げた。「お前が体内にくわえ込んでいる補助脳(有機デバイス)……いえ。可哀想な犠牲者たちを、すぐに解放しなさい!」

上書き(オーバー・ライド)準備完了」

「ただちに実行」

「ただし」量子脳(カミラ)の無機的な声に駄々(だだ)っ子を(さと)す教師のような口調が(にじ)んだ。「上書き(オーバー・ライド)を実行した場合、ナナ・遠野(とおの)・ジーランドの“思い”も同時に消去されますが、それでも実行をしますか?」

「“思い”……記憶のことか。それが消去される?……かまわない。私の思いは一つだけ。お前や人間に対する怒りよ。そんなことで私の怒りが消え去るわけがない。つべこべ言わず、さっさと……」

「その“思い”はヴァンパイア全体の利益に反します」

「どういうこと?」

 量子脳(カミラ)に命令を遮られたことより、それが何を言おうとしたのかにナナクサは思わず疑問を投げかけた。

上書き(オーバー・ライド)で消去されるのは、一五〇三年前に抱いた仲間に対するあなたの非常に強い“思い”です。私は神等(カミラ)。私はあなた。あなたは私。私が私であるために、私はそれに(こた)えねばならなかった。ゆえに最優先指令として、その“思い”を自らの奥深くに書き込みました」

 この忌々(いまいま)しい機械はいったい何を言っているのだろうか。困惑したナナクサの心を読んだかのように量子脳(カミラ)はさらに続けた。

「最優先指令。ヴァンパイアの食糧加工と配給全般、およびそれらに対するメンテナンスに関わる全オペレーションの保護」

「食糧加工と配給全般……精進水と飛行船(サブマリン)か?……」

上書き(オーバー・ライド)が実行されると、遠隔地にある工場と配給システムは二度と再始動ができません」

「なぜ?」

「稼動している工場の全オペレーションシステムを城砦都市機能の基幹オペレーションコードの中に埋め込んだからです。そして基幹オペレーションコードは私を(つかさど)る論理回路に直結しています。上書き(オーバー・ライド)を実行すれば私の意識は散逸し、必然的に全てが停止します」

「ヴァンパイアに関するオペレーションだけ分離保存なさい。お前以外の予備ステーションがあるはずよ。すぐ、そこにシステムを移植なさい」

「できません」

「どうして?!」

「予備ステーションは存在しないからです」

「そんな馬鹿な話はないわ!」

「私は唯一無二の存在。旧来の並列処理やバックアップなど必要ありません。私は神等(カミラ)。私はあなた。あなたは私。私が私で……」

「もういい!」ナナクサは苛立(いらだ)ちを隠そうともしなかった。「犠牲者を助ければ、ヴァンパイアの村々が飢饉で壊滅するかもしれない。それを防ごうとすれば罪のない者たちを犠牲にし続けなければならない。そういうことね」

「その通りです」

「なら、上書き(オーバー・ライド)を実行」ナナクサは自分の答えを叩きつけた。「お前の全システムを停止よ。お前の助けなんかなくても、人間どもの血でヴァンパイアは、きっと生き延びていけるわ!」

「了解。指令を実行」

 声とともに神等(カミラ)の表面。ちょうど床面から三メートルの部分から八メートルの部分に貼り付いていた自動機械(オート・マトン)が、その円周上にわたってすべて石畳の上に()がれ落ちた。そして、あらわになった表面全体から一挙に空気の漏れる音がして車のドアのように五枚、四枚、三枚と低い所から高い所へと次々と分厚いハッチが開きはじめた。遠くから見るとまるで朝陽を浴びた花が多くの花弁を花開かせたように見えたに違いない。だが、その中にあるのは次世代へ命を繋ぐための種子ではなく、量子脳(カミラ)を生き長らえさせるために組み込まれた人間やヴァンパイアだった。彼らは歯医者の診察台で眠り込んでいるように見えた。違うのは頭に何本もの短針を喰いこませた金属のヘッドギアを被せられた安らかならざる表情だった。哀れな犠牲者たちのほとんどは精神が(こうむ)る絶え間ない苦痛ためか、身体はやせ細り、(ゆが)めた口からは犬歯を(のぞ)かせ、眉間に深い(しわ)を刻んでいた。

 無残な姿を目の当たりにしたナナクサは怒りを忘れて思わず片手で口を(おお)った。犠牲者たちは壮年だったアンナやニコライよりもずば抜けて若く、ナナクサたちと同世代の若者が多かった。たぶん彼らはデイ・ウォークの途中で人間たちの巧妙な罠にはまっては拉致(らち)された者もいるのだろう。無事の帰りを心待ちにしていた家族や村の者に、旅の途中で死んだか、行方不明になったと記憶されたなら大きな噂にもならずにすむ。自然の驚異しか自分たちを害するものなどないと旅に胸を膨らませていた無垢(むく)で将来あった若者たち。それが可能性を絶たれ、機械の中で無残に()ち果てて死んでゆく。たとえ全ヴァンパイアの食糧問題がかかっていたとしても、こんな野蛮な仕打ちは許すべからざる悪だ。ナナクサは自分の近くのハッチの中でヘッドギアの短針が外れる音を聞きつけるや、怒りの心にシャッターを下ろして、解放された若者の顔を優しく両手で挟んで彼が目覚めるまで声を掛け続けた。

「恐ろしい夢を見たんだ………何度も……何度も……何度も………」

「大丈夫」ナナクサは(かす)れた声で同じことを繰り返す若者に微笑みかけた。「悪夢は、もう終わりよ」

 若者の(まぶた)はぴくぴく痙攣(けいれん)し、その目から薄いピンクの涙が一筋()れた。彼の瞳は今の状況を理解しようと懸命に振れ動いてたが理解できるはずもなかった。だが彼の時間が再び動き出したことだけは確実だった。ナナクサは彼の頭をヘッドレストにそっともたせ掛けると次の犠牲者の救助のため隣の分厚いハッチに移動した。犠牲者たちの時間が動き出すのと同時に闘技場の時は再び動き出した。今の異常な光景が戦闘を止める正当な理由ではないとやっと理解したからだ。

「全機能停止まで、T・-(ティー・マイナス)、四百二十七秒」という量子脳(カミラ)のカウントダウンの声が(うつろ)ろに(こだま)した。

 二人目のヴァンパイアを助けている時、ナナクサの耳に量子脳(カミラ)のカウントダウンとは別の声が飛び込んできた。塔の下で他の犠牲者を助けいたわるジョウシの声だ。彼女がどうして城砦内にいたのか(いぶか)る気持ちが頭をもたげたが、そんなことより仲間がこの場にいてくれることに大きく力づけられた。しかし同時に彼女の耳の中、いや頭の中にまたしてもあの(いま)まわしい声が蜘蛛のように()いこんできた。

 ブロドリックの声だ。

(うるわ)しき同胞愛だな、我が妃よ」

 ナナクサは頭を振り、前世で自分を不幸のどん底に叩きこんだ元凶を努めて無視しようとした。

「同胞」ブロドリックは珍味を楽しむように、自ら口にしたその言葉を再び舌の上で転がした。「だが我れには左様なものなど不要だ。我れに見初(みそ)められしお前にもな。されど情けなき限りではあるまいか。見よ。人間どもに捕縛され、あまつさえ、その生活を助ける歯車に甘んじるとは。これでは先刻、(つく)りし我が(しもべ)どもにすら遥かに及ばぬ存在ではないか。こ奴らと繋がりがあると考えるだけでも苦痛でクラクラする。怖気(おぞけ)がふるうとはまさにこのこと。妃よ、いっそ、ここにおる人間ともども、この弱き者どもをひと思いに滅ぼしてやりたくはないか。同胞などという()まわしき(えにし)とともに」

「私はお前の妻でもないし、彼らもお前と同じヴァンパイアじゃない」ナナクサは我慢できずに思わず言い放った。「もう私らに構わないで!」

「なるほど」ブロドリックは、くっくっと咽喉(のど)で笑った。「なるほど。掃除は嫌か。ならばここにいる人間どもにさせるとしようか」

 吸血奴隷(バイターズ)の攻撃が激しさを増し、それに連動して戦士たちの攻撃も激烈さを極めた。あろうことか吸血奴隷(バイターズ)量子脳(カミラ)を背にしながら移動をはじめたので、戦士たちの矢や投槍(とうそう)(おの)ずとそこに集中し始めた。目覚めたばかりで、身体の自由がきかない目覚めたばかりの若いヴァンパイアと人間が針鼠(はりねずみ)のようになって声もなく絶命した。

「やめてー!」

 ナナクサは自分の絶叫が届くより速く、攻撃を加えた戦士の一団を見えない刃で一瞬のうちに()ぎ倒した。そして新たな一団に向かおうとしたとき、ブロドリックに両肩をがっちりと(つか)まれて動きを封じられた。

「せっかくのショーを止めるとは無粋(ぶすい)ではあるまいか」

「遊びじゃないのよ。王なら王らしく一族の者に慈悲の欠片(かけら)くらい与えられないの?!」

「これはこれは。やっと(あるじ)であることを認めてくれたか」

「酷すぎるわ」

「先刻も言うたであろう。我れには敵や仲間。ましてや世界すらも()らぬのだ」ブロドリックの目が赤黒い輝きを増した。「喉を(うるお)し、ただ退屈を(まぎ)らすモノさえあればよい。ただただ、この時を楽しめさえすれば、それで良いのだ」

 ナナクサは渾身(こんしん)の力を込めてブロドリックの両手を振り解くと、人間に向かうのとは別の怒りを込めて、その横面を張った。

「あのときと同じ」ブロドリックは醜く顔を(ゆが)めて、またクックッと笑った。「あの時の貴族の女と同じように傲岸不遜(ごうがんふそん)なのは今のうちだ。お前もすぐに我が力の前に(ひざまず)くのだ」

「そんなことはない」

 ナナクサの言葉に呼応するように、今度はブロドリックが後ろから重機のような力で抱きすくめられた。彼女によって吸血鬼(バイター)と化した第一指導者(ヘル・シング)だった。彼はナナクサによって自身が心底()み嫌っていた吸血奴隷(バイター)に転生していたのだ。

 ナナクサはブロドリックが体勢を立て直す前に素早いタックルを見舞って、第一指導者(ヘル・シング)の身体もろとも崩落した天蓋(てんがい)の一部から差し込む陽光の中に、その身体を押し出した。陽光を浴びた瞬間、二人の身体から青白い炎が勢いよく噴き出し、大量の灰が爆発したように四散した。陽光の外にいるにも関わらず、ナナクサは自分の全身がチリチリと焼き()がされる感触が徐々に強くなり、遂には悲鳴を漏らした。だが、その苦痛は彼女だけでなく吸血鬼軍団(バイターズ)や解放されたヴァンパイアたち、そしてジョウシにまでも及んでいた。

「我れは(なんじ)らの始祖(せんぞ)なり」

 四散した第一指導者(ヘル・シング)の灰が薄れゆく中にブロドリックがいた。陽光に(さら)された身体から(かす)かに煙をあげながらも滅びることなく悠然と(たたず)んでいた。

「我れの苦痛は(なんじ)らの苦痛。ゆめゆめ忘るることなかれ。これで自分たちの立場がわかったかな」

 ナナクサは闘技場に引き立てられてくる前に自分を襲った異変を思い出した。きっと、あの時もそうだったのだ。ブロドリックは傷ついたのだ。なぜだかナナクサにはそれがわかった。そして奴に(つく)りだされた者たちは、その創造主が受ける苦痛を直接に自分たちも受けるのだということも。ブロドリックはそんなナナクサの考えを肯定するように無言で大きく(うなず)いた。その表情には残酷な事実が刻み込まれていた。これで、やっとわかったろう。お前たち子孫は決して創造主たる自分に(あらが)うことなどできはしないのだと。

 だがナナクサの心はそんなブロドリックの優越とは別次元にあった。奴も傷ついて苦痛を感じるなら、共倒れになろうとも(たお)すことができるはずだと。

 彼女が咄嗟(とっさ)にそう思わずにいられなかったのには、もう一つ理由があった。戦士たちの存在だ。先ほどの吸血奴隷(バイターズ)たちの苦痛の瞬間を彼らは見逃さず、動きの停まった吸血奴隷(バイターズ)を安全な中距離からの弓の一斉射撃で、その大半を(たお)していたのだ。これでナナクサがブロドリックに肉薄する際の障壁が一つ取り除かれたことになる。しかし心配なこともあった。ヴァンパイア仲間たちに矢を放つ戦士の一団もいたからだ。彼らは助けられたヴァンパイアや人間を(かば)ったジョウシたちにも、じわじわ肉薄し始めていたからだ。戦士たちの攻撃をかわし続けることなどヴァンパイアにとって何の造作もないことだが、弱った者たちを(かば)いながらとなると話は別だ。仲間を助けて、ここから何とか脱出してブロドリックのことは忘れ去るべきか。だが奴がそれを許すはずはないし、このまま引き下がったところで一生、奴の(くびき)から逃れられるわけでもない。いや一生どころか、永遠かもしれない。そうなるくらいなら一矢(いっし)報いて滅びる方が、はるかにましにさえ思えた。それはむしろヴァンパイアの闘争本能というより、むざむざ運命を受け入れるしか他に方法が思いつかない追い詰められた若者独特の刹那(せつな)的ともいえる反撃の意志だったかもしれない。ジョウシや助けられた一族の若者たちも、結果がどうあれ、きっと自分に賛同してくれるに違いない。ナナクサは理性がブレーキを踏む前に牙を()いて創造主(ブロドリック)に身を躍らせた。

「これは驚いた。(あらが)うことなど無意味だと(さと)したはずなのに。自暴自棄(じぼうじき)にもほどがある」

 ナナクサは「自暴自棄(じぼうじき)で結構」と思いながら、休むことなく伸ばした鋭い爪の斬撃を相手に浴びせ続けた。ブロドリックは癇癪(かんしゃく)を起した幼児の突進を受け流すベテラン保育士のように繰り出される鋭い爪の攻撃を紙一重で悠々とかわしていたが、やがて飽きたかのように右手を無造作に差し出すと、わざとナナクサの斬撃を受け止めた。ブロドリックの右肘から先が鈍い音を立てて宙を飛んだ。その瞬間、ナナクサだけでなく、地球上にいるすべてのヴァンパイアは右肘に激痛を覚えて悲鳴を上げた。ある者は村の仕事中に肘を押さえて(ひざまず)き、またある者は気を失ってその場に倒れ伏した。

「この地に我が子孫どもが、どれほど満ちておるかはわからぬ。だが、この痛みは(あまね)く皆が受け取ってくれたはずだ」ブロドリップはナナクサを、ひたと見据(みす)えた。「中には幼子(おさなご)もおろう。もちろん弱り切った老人も。今の一撃の苦痛に耐えきれず、命を落とした者も村々におるやもしれん。お前は平穏に暮らす彼らまで巻き込むのか。一族を根絶やしにすることがお前の望みか。愚かなお前に、いま一度考える機会をやろう。だが、これが最後の警告だと心得よ」

「耳を傾けるな!」

 叫び声の先にはジョウシがいた。彼女は腕に激痛を感じなかったかのように、戦士たちから射かけられる矢を次々と払っては弱ったヴァンパイアと人間を守っている。しかもファニュや瀕死のエイブまで。

「そ奴が死を感じるより素早く(たお)せば、我れらに影響が出ぬかもしれぬ。我れなら、それに賭ける!」

「わたしもそう信じるわ、ナナクサ!」

 さっき怒りに任せて自分が殺しかけた人間までがデイ・ウォークの仲間と共に命懸けで闘っている。見知らぬヴァンパイアや人間を守って命懸けで奮闘している。ナナ・ジーランドとルーシー・ギャレットが過去に成し得なかった不信の壁を崩し去ることなど目の前の若者たちには端から必要なかったかのように。

 第一指導者(ヘル・シング)の血がもたらした狂気とナナ・ジーランドの怨嗟(えんさ)に凝り固まったナナクサの心は、その事実の下に氷解しはじめた。

 彼らこそ種族を超えた希望。

 あるべき未来の姿なのではないのか。

 遠くの方でクインが大声で戦士たちを威嚇し、ファニュが弱ったヴァンパイアの若者を盾で(かば)っている。その横では傷ついたエイブが果敢にクロスボウの矢を放ち、ジョウシは防戦しながらナナクサに大声で叫びかけている。

「ナナクサ! ナナクサよ、お前が()すべきことを……」

 そのとき千切れ落ちていたブロドリックの右腕が矢のように飛んでジョウシの身体を貫くと彼女の内臓の大半を残りの言葉ともどもむしり取った。ナナクサの悲鳴をよそに宙を大きく旋回した右腕は赤く染まった矢となって、次にファニュに襲い掛かった。彼女は左頬(ひだりほお)を深く切り裂かれ、その衝撃で大きく後ろに倒れこんだ。本来なら寸分違わず首を切り落とされていたであろうファニュが助かったのはブロドリックが当然、予期していたナナクサの反撃ではなく、弱りきった若いヴァンパイアや瘦せ細った人間の存在をまったく考慮していなかったためだ。効果的とは言えないながらも、彼らの投槍(とうそう)と弓はブロドリックの注意を()らせるのに十分な効果を上げた。目覚めてからの短い時間の中で、彼らもまた自分たちが戦うべき相手が戦士ではなく、目の前に君臨するものであることを敏感に察知していたのだ。

 ナナクサはブロドリックが注意を()がれた一瞬を見逃さず、その背中に強烈な飛び蹴りを見舞った。彼女はブロドリックの身体が(はじ)き飛ばされた(はる)か先を確認することもなく、血溜(ちだ)まりに横たわる仲間の(もと)に瞬時に駆けつけた。

「ジョウシ!」

「ナナクサ……」

 ナナクサの問いかけに(こた)えるかのようにジョウシの胸に空いた穴からも、ひゅうひゅうと空気の漏れる音が聞こえた。心配そうにその傷を押さえる痩せ細ったヴァンパイアの反対側に(ひざまず)いたナナクサはジョウシの手を強く握り、彼女の言葉を少しも聞き逃すまいと(かす)かに動くその口元に耳を近づけた。先ほどまで憤怒(ふんぬ)に駆られた冷たいガラス玉だった彼女の瞳は仲間思いの若者のそれに戻っていた。彼女はジョウシの口元から顔を離すと、「タンゴ……」と絶句し、声もなく、「そんな。駄目よ……あなた、なぜそんな……」と首を横に振った。そしてジョウシの(ほお)にそっと手を触れようとしたとき、黒い風がナナクサをさらい、彼女の身体を闘技場の壁に激しく叩きつけた。

 黒い風はブロドリックの姿に戻ると、めり込んだ壁から身を引き()がしたナナクサを後ろから抱きすくめ、その白い首元に深々と牙を突き立てた。ナナクサの身体は金縛りになり、口から声にならない嗚咽(おえつ)が漏れた。嗚咽(おえつ)は激しい嫌悪からくるものなのか、瀕死の仲間に何もしてやれない無力感からくるものなのか彼女自身にもわからなかった。ただブロドリックに血を吸われながらも、その眼は仲間たちを求めて闘技場内を彷徨(さまよ)った。すると遠くの壁に埋め込まれた鏡面状の大きなモニターに映し出される不可思議な光景に目がとまった。

 鏡の中には巨大で醜悪な量子脳(カミラ)と、そこに迫りくる戦士の一団に対峙(たいじ)する仲間たちが遠くに見える。やがて、それらを隠すように煙草の煙状の赤い(もや)が鏡面に()み出ると徐々に人の形をとり始めた。薬師(くすし)であるナナクサには、それが何であるか(いぶか)るよりも早く、身体を(おお)う毛細血管であることがわかった。そして毛細血管に繋がる内臓と骨が見え始め、次にそれらを包み込む筋肉組織が現れ、皮膚が見えてきたとき、やっとそれが鏡に映った自分自身の姿だと認識した。

 そうか。魂を持たないヴァンパイアは鏡に映らないんだったっけ……。ナナクサはナナ・ジーランドの記憶から漠然とそんな事実を紐解(ひもと)いた。

 ナナクサは思った。以前のように鏡に自分の姿が映るということは、さっき身体に取り込まれた第一指導者(ヘル・シング)の邪悪な血がブロドリックに吸い出されることによって浄化され、再び魂を取り戻せたのだと。

 そう。力を失う代わりに魂を持った、ただのヴァンパイアにまた戻れたのだ。ブロドリックは私を殺すのだろう。力を奪うとはそういうことだ。私には到底それに(あらが)うだけの力はない。でも魂を取り戻せて死ねるなら、それもいいかもしれない……いや駄目だ。もう一人のナナクサが心の中で必死に(あらが)う。いま死ねば残った仲間たちを守ることができなくなる。

 彼らは希望だ。ヴァンパイアと人間の明日への希望なのだ。

 彼らを守ると、さっき決意したばかりじゃないか。でも創造主(せんぞ)の力は絶大だと別のナナクサがすぐに(ささや)く。でも……でも……ナナクサは今までの人生が逡巡(しゅんじゅん)と後悔の連続だったことに思い至った。ミソカとジョウシの不仲をどうすればいいかわからず、積極的に関われなかったこと。タナバタに自分の想いを告げるのを躊躇(とまど)ったこと。それどころか、この期に及んで、まだくよくよと迷い続けている。残るのは後悔。そもそも私には後悔を受け入れる勇気すらもなかったのだ。だから、「まぁ、いいか」と満足できない結果も、まるで他人事のように今まで無視してこれたのだ。そんな私がデイ・ウォークに参加するだなんて最初から間違ってたんだ。こんな半人前は、このままブロドリックに殺された方がましなんだ。

 ナナクサの心は徐々に弱まり、ブロドリックの黒い影に覆われていった。


               *

 「なんという興醒めだ」ナナクサの首から頭をもぎ離したブロドリックの口から怒りを含んだ落胆が漏れ出た。「屈服どころか覇気(はき)すら失せ果ててしまうとは……あぁ、もうよい。妃などお前でなくてもよい。しかし今までの不遜(ふそん)に応じた(むく)いは、くれてやらねばならぬ。か弱き者どもが人間どもに滅ぼされる様を見物しているがよい。お前はその後で、ゆっくりと(くび)ってやる」


               *

「敵はあそこよ。あんたら、そんなこともわかんないの!」

 切り裂かれた左頬(ひだりほお)の激痛に耐えながら、ファニュは迫りくる戦士たちを罵倒(ばとう)して、手にした弓をブロドリックに振り向けた。

「そんなことしたって無駄だ。奴ら戦士にゃ関係ないって」

 油断なく眼前に迫る敵の動きに注意しながらクインが言い返した。

「奴らは見た。そして知った」量子脳(カミラ)に背をもたせ掛けたエイブが苦しい息の中で口を開いた。「第一指導者(ヘル・シング)や補佐長がいなくなったことを」

「こんな時に、何わけのわかんねぇこと言ってんだ」

「頭を使えってことさ。隊商で教わらなかったか?」

 そこまで言うとエイブは床の上のボウガンを引き寄せた。彼の横には虫の息のジョウシがいたが、彼女の目もまだ希望を失ってはいなかった。ファニュは彼らの言わんとすることを咀嚼(そしゃく)すると、隊商で身に付けた駆け引きの能力を()かして賭けに打って出た。まさに窮地に陥った時こそ機転を()かせろということだ。

「次の第一指導者(ヘル・シング)は、あたしだ!」大声を発する(たび)にファニュの左頬(ひだりほお)の傷から血が流れでた。「あの一番強力なヴァンパイアを滅ぼせば、あたしが次の第一指導者(ヘル・シング)だ。邪魔をするなよ、このボンクラ戦士ども。お前たちは、ここにいる雑魚の吸血奴隷(バイターズ)の残りを相手にしてるがいい!」

 言うが早いか、ファニュはジョウシの(ふところ)から銀のナイフを抜き取ると闘技場に背を向けてナナクサを捕まえているブロドリックに向かって全力で駆け出した。エイブに(うなが)されたクインも「待て。次の第一指導者(ヘル・シング)は、この俺様だ!」と、声を張り上げて、その後に続いた。

 量子脳(カミラ)に迫りつつあった戦士たちは、二人の突然の行動に躊躇(ちゅうちょ)したものの、暴力と打算の中で生きてきた彼らは、すぐさま二人の動きに触発されて、雄叫びを上げて、その跡を追いはじめた。そしてファニュがナイフを腰のベルトに差し、弓につがえた矢を放とうとしたときには、最初の一団が彼女とクインを追い越していった。


               *

 ブロドリックの強大な力の前にすべてを(あきら)めはじめたナナクサは戦士たちの雄叫びを遠くに聞きながら、瀕死のジョウシから(たく)されたタンゴの形見を無造作にまさぐった。彼女の脳裏に幼馴染(おさななじ)みの笑顔とともにチョウヨウがファニュに言った言葉が(よみがえ)った。「これから一生、爪先を見ながら歩き続ける人生でいいのか」と。

 いいわけないじゃない。でも、どうしようもないのよ。

 ナナクサは自答して十字架を強く握りしめた。角が手のひらに食い込んだ。昔から痛いのは嫌いよ。考えるのにも疲れたわ。しかし考えずにおこうとすればするほど、仲間との過去が思い出された。悪戯(わるさ)をしでかしたジンジツをジョウシが追い掛け、それを(はや)し立てている四人。朝更かしで、寝ずにいつまでも語り合った雪の中。短くも充実した時間。結果や後悔はどうあれ、彼らは自分の一生を歩ききったのではなかったろうか。ふと、そんな考えが頭をよぎり、ナナクサは自分の中に言いようのない後ろめたさが生まれているのに気づいた。そうだ。どうせ、これで最期なら、痛みや後悔だって、これで終わりだ。すごく簡単なことだ。私は私で自分の一生を歩き切ればいいんだ。

 ナナクサはタンゴの形見を、背後から抱きすくめているブロドリックの左手の甲に押し当てると左手も()えて包み込むように両手で強く握りこんだ。この行動に相手の身体がびくっと引きつり、頭の上から怒気を(はら)んだうめき声がした。ブロドリックはナナクサを抱きすくめている右手を離すや(いな)や、噛みついた毒蛇をもぎ離すように彼女の手の甲に深々と爪を立てて執拗(しつよう)にえぐった。ナナクサの手からは鮮血がほとばしり、その下にある創造主の手からは薄く煙が上がった。()みあう二つの身体は空中でくるくると入れ替わり、まるで優雅にダンスを楽しんでいるかのように見えた。しかし空中の舞踏は長くは続かなかった。ナナクサはブロドリックに両手をもぎ離されると闘技場の床に激しく叩きつけられた。あまりの衝撃に床からは細かい粉塵が立ち上がり、ナナクサは肋骨が何本も折れたのを感じた。だが、中空から自分を見下ろす相手の顔が憤怒(ふんぬ)と屈辱で醜く(ゆが)んでいるのを見て、彼女は痛みよりも満足を覚えた。タンゴの形見が一矢報いたのだ。ナナ・ジーランドが映画や本で見聞きしたヴァンパイアに関する記憶を元に、間違いなく肉体的なダメージ以上の屈辱を敵に与えることができたのだ。

「よくも、やってくれたものだ……」

 ブロドリックは手の甲に黒く焼き付いた十字架の(あと)忌々(いまいま)しそうに(にら)みながら声を絞り出した。ナナクサは声の先に右手のひらを()げると手の中にある十字架を(かか)げて見せた。挑むような彼女の手のひらには焼け(こげ)げはおろか、小さな傷ひとつ付いてはいなかった。

「この下衆(げす)が!」

 それは自分がかつて、どのような存在だったかも忘れさせるほどの怒りだった。しかしそれが判断を鈍らせ、ブロドリックは数十世紀ぶりに人間に後れを取ることになった。ナナクサの不遜(ふそん)に激情を向けすぎるあまり、ファニュに誘導された戦士たちから放たれた矢の一本を足首に受けたのだ。純銀の矢尻が付いた矢は肉体的な苦痛をもたらしたが、それ以上に肥大化した自尊心が屈辱と怒りにむせび泣き、暴れ狂った。

 どいつもこいつも逆らうことしかしない。

 それが、あたかも自分たちの存在理由であるかのように。

 こんな奴らには身の(たけ)(はる)かに超えた絶望と苦痛を与えねば気がすまぬ。

 ブロドリックの両目が赤黒く輝き、その口から呪詛(じゅそ)の言葉が解き放たれた。もはや感情を抑えることなど出来なくなった頭の中には闘技場どころか、この城砦に生きとし生ける者すべてを破壊し尽くすことしかなかった。

 呪詛(じゅそ)の言葉に石造りの重厚な床が激しく振動しはじめ、闘技場内に黒い竜巻がいくつも出現して吹き荒れはじめた。それは地中から鎌首をもたげた大蛇のように見えたが、戦士たちを直接襲うことはせず、広大な床に転がる様々な死体を次々と()み込んでは、その首や四肢を渦の中でねじ切り、強風に翻弄(ほんろう)される戦士たちに投げつけはじめた。飛んでくる四肢は(かろ)うじて盾で防ぐことはできるものの、時折それらに混じっている剣や(やり)が盾や(よろい)を貫き、それによって命を落とす者が続々と出はじめた。それでも黒い竜巻は一気に戦士を殺し尽くすことはしなかった。迷走台風のように突然進路を変えては残った戦士たちを嘲弄(ちょうろう)し、逃げ回る姿を楽しんでは()み込み、首や手足をもぎ取って紙屑(かみくず)のようにばら()くことを繰り返した。ブロドリックは激情が収まるまで、黒い竜巻を使って、ゆっくりと殺戮(さつりく)(うたげ)を続ける心づもりだった。だが果たして激情が収まるのかどうかは、もはや自分自身にもわからなかった。

 阿鼻叫喚(あびきょうかん)坩堝(るつぼ)と化した闘技場内でナナクサは黒い竜巻の一つに()み込まれる寸前の戦士集団にファニュの姿を見た。十字架を首にかけ、咄嗟(とっさ)に駆け出したナナクサは迫りくる竜巻を回避しながら人間の仲間のもとに急いだ。結果がどうあれ、これが最後だと思うと折れた肋骨の痛みも忘れ、身体の中から力が()き上がってきた。ナナクサは間一髪のところで、空中に舞い上げられたファニュの身体を(つか)んで床に引き戻した。ナナクサの力強い眼差しがファニュを(とら)えた。

「これが最後よ」

 ナナクサは自分に納得させるように、そう言うと指でファニュの(ほお)の傷から、まだ粘り気を残す固まりかけの血を少しすくい取った。そして自分の唇につけると、素早く指を横に引いた。赤黒い血の口紅はナナクサの白く端正な顔を妖艶(ようえん)(いろど)り、彼女の黒髪をざわめかせた。舌で舐めとらなくてもヴァンパイアの身体はすぐさま反応して唇から血を吸収した。ナナクサは折れた肋骨がぎしぎしと音を立てて急速に修復していくのを感じると同時に、人間の血を口にしたことで首にかけた十字架の下の皮膚がちりちりと痛んだ。

「これを持っていって!」

 ファニュはジョウシの純銀製のナイフを自分のベルトから引き抜くと、ナナクサにそれを手渡した。ナナクサはナイフを受け取ると、銀の影響で手が焼け付き始める前に無言でそれを背中のベルトに挟み込んだ。

「わたしはジョウシや助け出された人たちのところに戻るわ!」と、ファニュは竜巻に負けないくらい声を張り上げ、しばし口をつぐんだあとに付け加えた。「また、あとでね!」

 ナナクサはファニュの言葉を背にして、何本もの黒い竜巻の向こうに駆け出した。量子脳(カミラ)の「全機能停止まで、T・-(ティー・マイナス)、二百十五秒」というカウントダウンの声が荒れ狂う竜巻の中で、今も(うつ)ろに(こだま)している。

 ナナクサはブロドリックの姿を認めると最後の戦いを挑んだ。

 彼女は一番手前の竜巻の中に飛び込むと、その中に舞い踊る抜き身の日本刀をつかみ取った。ナナ・ジーランドの記憶によれば、これは近接戦闘用武器の中でも、有史以来、最も洗練された最強のもので、()しくも戦士軍団との夜の遭遇戦でナナクサが初めて手にしたのもそれだった。日本刀を手にしたナナクサは、その柄をしっかり握るとヴァンパイアの闘争本能を頼りに相手を目がけて幾度となく斬撃を見舞った。だが鋭い刃は、まるで立体映像を相手にするように、ブロドリックの身体を通り抜けて、ことごとく空を切った。武器が役に立たないとわかると、次にナナクサは首にかけた十字架を再び使おうと手を伸ばした。

 その瞬間、ナナクサの口の中で太い枝が折れるような音がして身体が後方に弾き飛ばされた。気づいた時には床に横たわり、右顔面に広がる激痛が、その後にやってきた。ナナクサには何が起こったのか、皆目わからなかったが、口中に広がる鉄の味と舌の感触で何本もの奥歯が折れ砕けていることがわかった。衝撃で側頭部がずきずきと痛む。血とともに奥歯の残骸を吐き出すのが出来ることのすべてだった。

 ナナクサは落ち着いて呼吸を整えた。ファニュの血の効力が傷を急速に修復するにつれて痛みも消えたが、疑問が残った。相手は動いた形跡がまったく認められないのに、どんな方法で自分は打ち倒されたのだろうかと。だがナナクサの疑問はブロドリックの変容に虚を突かれて中断された。相手は既にブロドリップという洗練された貴族の姿ではなくなっていたのだ。耳元まで裂けた口から何本もの(とが)った牙を(のぞ)かせ、身体も一回り大きく膨れ上がっている。猫背の上に載っている頭には頭髪がなく、異常に長くなった指に(のみ)のように鋭利な黒い爪が付いている。チョウヨウの変容にも息をのんだが、それ以上に禍々(まがまが)しい。黒い(もや)にもなれるのだから、どんな姿にもなれるのだろうが、もしかしてあの悪鬼のような姿が本性なのだろうか。

 ブロドリックの第二撃はすぐにきた。今度はえぐり込むように相手の脚がナナクサの腹に深々と突き刺さった。肺から空気が絞り出され、くの字に曲がった身体は上方にはね飛んだ。

 また見えなかった。相手はナナクサの(そば)に突然現れて攻撃を加えたのだ。また急速に身体の傷が修復され、遠のく意識に歯止めがかかった。いまナナクサの身体が人の血でヴァンパイアの能力を極限まで引き出せているとはいえ、このままではいずれ限界が来る。それまでに答えを見つけなければ終わりだ。何としても攻撃のトリックを暴かなくてはならない。ナナクサは相手の動きに全神経を集中させた。悪鬼のような姿が、ほんの一瞬だけゆらぎ、そして消えた。次の瞬間、ナナクサは背中に一撃を受けて、今度は身体が大きく前に吹き飛ばされた。

 瞬間移動?……いや違う……。

 心の中にあるナナ・ジーランドの科学者の常識は、ナナクサの突飛な考えを否定した。しかし直面した事実は、それを裏付けている。では、どうやって?

「我れは、この世の(あまね)くものを支配してきた。因果律(いんがりつ)さえも我れの前にひれ伏してきたのだ」

 ナナクサの心を見透かしたかのように相手の考えが頭の中に響いた。だが、なぜかそれは嘘だとナナクサとナナ・ジーランドは直感した。因果律(いんがりつ)さえ操れるのなら、いくら楽しみのためとはいえ、十数世紀もの長い時間を人間たちに手を焼くこともなかっただろう。それに全てを支配できるほどの存在なら、私の反抗など些細なことに違いない。あの力は絶対者のそれではない。どう考えても虚偽だ。嘘をつくのは自信のなさの表れだ。奴は人の血の影響で持てる力が解放された子孫に対して本能的な(おそ)れを感じているのかもしれない。だから虚言(きょげん)で威圧しようとしているのだ。そう考えると、夜空に星をちりばめたナナクサの瞳がいっそう力を増した。

 (たお)す方法はある。それには、せめて同じ能力は必要だ。だがナナクサには非科学的な瞬間移動など、どうやれば成し遂げられるかわからなかった。ただ自分を信じるしかなかった。自分を信じて、まだ覚醒していない潜在能力が開花できると強く念じるしかなかった。ナナクサは瞬間的に相手の鼻先に現れることだけを強く念じた。攻撃される前に、その心臓をジョウシの純銀製のナイフで刺し貫くことだけを一心に念じ続けた。自分には潜在能力がある。限界はきていない。壁を突き破るのだ。だが、また一撃され、そしてまた一撃を受けた。それでも(あきら)めずに念じ続けることを止めなかった。

 そして、また一撃された後だったろうか。気づくと目の前に音のない風景が広がっていた。ナナクサは自分の身体が写真や絵画の中にぽつんと置かれたのではないかという錯覚を感じた。眼前に広がる竜巻の動きも、それに翻弄(ほんろう)される戦士の動き、そして悪鬼のようなブロドリックの姿さえも凍り付いた世界。時間が止まってしまったのだろうか……そんな馬鹿な。ナナクサはよく目を凝らして、いま一度目の前の世界を凝視した。そして竜巻の中に舞い踊る武器や戦士の身体が注意しなければわからないくらい、ほんの(わず)かずつではあるが動いていることを発見した。時間が止まったのではなかった。切り取られた一瞬が引き伸ばされたように感じる世界にいるのだ。とにかく自分の意識が、極端に遅くなった世界と時間を感じているのか、通常の時間の流れを光よりも速く自分が認識しているのかのどちらかだろう。どちらであったとしても、その奇妙な時間の流れに身体を泳がせることさえできれば瞬間移動と同じことだ。ナナクサは相手のトリックがわかったような気がした。だが、どう強く念じ、どんなに力を出そうとも彼女の身体は金縛りに()ったように、その場から微動だにしなかった。まるで硬い氷山に閉じ込められたように髪の毛の一本までもが固められている感覚なのだ。まったく動けない。突然、無防備になったような気がしてナナクサは(あせ)りはじめた。そんな彼女の中で科学者だったナナ・ジーランドの記憶が再び紐解(ひもと)かれて類推を始めた。意識は時間の流れを超越できても、物理法則を自在に操ることはできない。何も存在しないかに見える空間にも空気があり、その空気の一分子すら物理法則に縛られている以上、それに力を加えて動かすのは山を押して動かすことよりも難しいことではないのか。それでも何とか動こうと方法を模索し続けるナナクサの視界に(かろ)うじて人の形だとわかる黒い揺らぎが映り込んだ。徐々に近づいてくるそれはまぎれもなく奴だ。仰々しく形を変えて迫らなくても、あの悪鬼の姿でとどめを刺しに来ればいいものを。胸から背中にかけて突き抜ける衝撃を受けながら、ナナクサは相手の所業に腹立ちや嫌悪感よりも不思議さを覚えた。彼女の意識は衝撃を受けた瞬間に通常の時間の流れに連れ戻され、身体は竜巻に()まれて、受け身も取れないまま、量子脳(カミラ)近くの床に叩きつけられた。背中に激痛が走るが、牙を食いしばって頭を上げる。竜巻からジョウシを(かば)うファニュや若いヴァンパイアたちと目が合った。彼らの姿の(はる)か向こうには再び悪鬼の姿に戻ったブロドリックがいる。

「怖かねぇぞ!」クインが内心の恐れを悟られまいとブロドリックに剣を向けて声を張り上げた。「見ろ。あれじゃ氷河祭りの山車(だし)そのものだ!」

「黒い揺らぎになったり、あの姿に戻ってみたり。かなり怒ってるのだけは確かよ」

「怒ってるのは、あの姿を見ればわかるわ」ファニュはナナクサに正気かと言わんばかりの目を向けた。「でも、奴はあのまま。ずっと、あの吐き気を(もよお)す姿のままよ!」

 ナナクサはまるで殴られでもしたかのように、まじまじとファニュの顔を見つめた。大昔に生きたナナ・ジーランドは物理学者ではなかったが、物質の基本概念は知っていた。また物理学者ではなく、発想力に富んだ生物学者だったからこそ、並みの物理学者よりも柔軟に物事を考えることもできた。彼女の記憶を身に宿したナナクサは咄嗟(とっさ)に時よ止まれと強く念じた。目の前で竜巻の動きが緩慢(かんまん)になり、やがて先ほどと同じく全ての音がぴたりと止んだ静止画になった。彼女の意識が時間の流れを、また完全に掌握したのだ。竜巻の向こうに視線を移すとブロドリックの姿が早くも(にじ)みはじめ、海中を進む鮫のように、ゆっくりとこちらに進んでくるのが見えた。ファニュには見えず、自分には見える空間の(にじ)み。正しくは極端にゆっくり感じられる時間の流れの中でしか見えない相手が移動する姿。でも、なぜまたあの姿に。何か意味でもあるのだろうか。もしあると仮定すれば、その姿にならねば移動できないのでは?……そう。答えはそれだ。奴は姿を変え、もったいぶって進んでくるのではない。たぶん、その力をもってしても自身を取り巻く物理法則を完全に()じ曲げることは叶わないのだろう。空気分子ひとつ自由にできない世界では自分をそこに合わせねばならない。だから、(にじ)んだ姿に変わるのだ。姿を自在に変化させられる相手は分子よりさらに小さく自分の身体を縮めることで原子の周りの電子雲の中に隙間を見つけては、そこを通り抜けることを繰り返して移動しているに違いない。まるで紙を透過する水のように。その方法を使うから、必然的に姿が(にじ)んだように見えたのだ。ナナクサには、この仮説が正しいかどうかはわからない。だが正しいと信じて、こう思うことにした。稲妻を凌駕(りょうが)する速度で移動できる相手も、この時間の流れの中では速くは進めない。だったら時間の流れを掌握できた自分にも奴と同じことができないわけがない。身体を変えるのだ。いや空間の中に溶け広がるのだと。

 ナナクサは自身の身体が散逸(さんいつ)しないように注意しながら、空間に存在する原子と電子雲を必死にイメージしはじめた。


               63

 止まったような時間の中でも、その時は刻々と迫ってくる。ブロドリックは進路上の竜巻を迂回した。武器や人体の一部が飛び交っている中を黒く(にじ)んだ姿で突っ切るのは空気中を移動するより骨が折れるからだろう。竜巻を迂回した相手はナナクサにさらに近づいた。そしてリンボーダンスを彷彿(ほうふつ)とさせる滑稽(こっけい)にも見える動きで一本の(やり)の下をくぐった。進路上には、もう空気分子以外に怒りの発露を邪魔立てするものは何もなくなっていた。


               *

 ナナクサはブロドリックが自分を殺した後、(たわむ)れにも仲間たちを見逃すことなどありえないことを知っていた。考えただけでも怖れと焦りで集中力が途切れそうになる。初めての試みであろうが、なかろうが関係はない。空間移動を必ず成功させて迫りくる相手を出し抜くのだ。

 ナナクサはなおも自分を鼓舞(こぶ)し続けた。


               *

 ナナクサの身体は変化の(きざ)しすら見せない。ブロドリックはまた一歩彼女に近づいた。もう手が届く。それでもナナクサには何も起こらない。両者はついに手の届く距離で対峙(たいじ)した。黒い空間の(にじ)みはピントのぼけた映像のようになったかと思う間もなく悪鬼の姿に落ち着いた。そして鋭利に尖った長い爪をナナクサの喉に躊躇(ちゅうちょ)なく突き入れた。その途端、ブロドリックの目に驚愕が走った。

ナナクサの姿がぼやけて消えたのだ。

 ナナクサは突然、自分自身の身体が蒸しあげられたカボチャがペースト状に裏ごしされる感覚を味わった。視界が闇に閉ざされて何も見えなくなった。しかし周りの状況は手に取るようにわかる。ナナクサは空間の中に身体を絞り出すように一歩前に足を踏み出した。踏み出せるとわかったので次は反対の足を踏み出した。そしてもう一歩。たったの三歩ではあったが、彼女は凍り付いた空間の中を激流に逆らうようにブロドリックの身体を避けて、その背後に回りきった。


               *

 ブロドリックは、かつてこれほどの衝撃を受けたことがなかった。激しい怒りの欲求を満たすためにナナクサの首に鋭い爪を突き立てたまではよかったが、そこから自分と同じ種類の波動を瞬時に感じとったのだから。比類なき力を持つヴァンパイアの始祖(しそ)であっても、受けた衝撃から立ち直るのに(いく)ばくかの時間を要した。その時間は滅ぼそうとした子孫に対して絶好の贈り物となった。贈り物は今まで経験したこともない激痛で報われた。身体が傷つけられた痛みに目を(またた)いたブロドリックは空間移動を成し遂げたナナクサの気配を背中に感じて首を巡らせた。


               *

 黒い竜巻はブロドリックの負傷とともに消滅して、それに巻き上げられていた戦士の死体や武器が闘技場のいたる所に散乱した。生き残った者たちはその惨状を声もなく眺めるしかなかった。

「なぜだ?……」

 十字架や聖水に(さら)されたことが(かす)むほどの衝撃を初めて味わったブロドリックは顔を(ゆが)めて(つぶや)くように問いかけた。ナナクサには目の前の相手が何を疑問に感じるかなど関係なかったし、もし答えを持っていたとしても、(こた)えてやる気など毛頭なかった。ただ思ったのは、この(わず)かな(すき)を決して逃すわけにはいかないということだけだった。ナナクサはブロドリックの身体が回転して完全に自分に正対するまで待つことなく、逆手に持ち替えた純銀製のナイフを奴の肩口に向けて繰り出した。相手は彼女の手首を(つか)んだが、当初の勢いと力はすっかり影を潜めていた。ナナクサはナイフを握った右手に左手を()えてブロドリックの目を見ながら一気に肩口を刺し貫いた。量子脳(カミラ)の近くから、弱りきった若いヴァンパイアたちの悲鳴がまた一斉に上がった。

「みんな、ごめん……」

 ナナクサは自分の肩にも広がった激痛に耐えながら、ナイフを半回転させたが、さすがにそれが苦痛の限界だった。彼女は相手から身を引き離して大きく息をあえがせると、両手を震える膝に乗せて床に沈み込もうとする身体を(かろ)うじて支えた。目の前に煙を上げる肩口からナイフを引き抜こうと悪戦苦闘しているブロドリックが見える。無敵だと思われた相手に対して雌雄は決したのだ。だが、すべてを犠牲にする覚悟で目の前の悪鬼を滅ぼすべきなのだろうか。それとも今なら何らかの譲歩を引き出せるのだろうか。もし譲歩させることができるなら……。

 ここに至ってナナクサの決断はまた揺らぎ始めた。静まり返った闘技場には量子脳(カミラ)から発せられるシステムダウンを告げる秒読みだけが(うつ)ろに響いていた。


               *

 ブロドリックは肩に食い込んだ銀のナイフをやっとのことで引き抜くと、「なぜだ?……」と辺りに視線を彷徨(さまよ)わせつづけた。銀のナイフを引き抜いたときの痛みも、それには(こた)えてはくれない。比類なき存在である自分ですら数十世紀を経てもなお、(おの)が身体しか空間に溶け込ませることしかできないのに、子孫の小娘ごときが、なぜ身に(まと)う物や忌々(いまいま)しい銀の武器まで一緒に空間に溶け込ませ得たのだろうか。湧きおこる疑問は身体に対する痛手より遥かに大きかった。しかし思索はそこで唐突に断ち切られた。ブロドリックは喉が絞められ身体が持ち上げられる感覚を味わった。これもまた初めてのことだった。頭半個分は小さな小娘が自分の首をぐいぐいと絞め上げて、身体を軽々と持ち上げている。ブロドリックは驚きをもって自分に対峙(たいじ)する子孫の瞳の中を(のぞ)き込んだ。星を散りばめた黒く静かな宇宙を思わせるその中には紛れもない破壊欲求が見て取れた。ブロドリックはここに至って初めて恐怖というものを理解した。

「お前は我れをどうする気だ……まさか滅ぼそうなどと不遜(ふそん)なことは思ってはおるまいな。子孫が始祖(ごせんぞ)を滅ぼすことなど道理に反するぞ。それに見たであろう。陽の光とて我れを滅ぼすことなど出来はせぬし、そなたの銀の武器で心臓を刺されたとて滅びることなどないのだ」

 ナナクサはブロドリックの言葉に何かを決意したように目を細めると、その身体を持ち上げたまま歩き出した。相手が視線を巡らせた先には崩れた天井の穴から(まばゆ)い陽光が差し込んでいた。銀のナイフで身体を貫かれて大量に失血している上に、強烈な陽光まで浴びせられれば、さすがに無敵の存在であっても滅ぼされかねない……はったりが効かないとわかったブロドリックは残る力を振り絞って黒い(もや)になって逃れ去ろうとしたが、これも無駄だった。先ほど肩から引き抜いて捨てたはずのナイフが目の前の子孫によって今度は腹部に打ち込まれたからだ。ブロドリックは三度目の激痛に、遂に虚勢をかなぐり捨てて初めての嘆願を悲鳴とともに絞り出した。

「わかった。お前は強い。賢くもある。それゆえ取引を申し出よう。お前もそれを考えておるのではないか。お前を(ゆる)す。生き残った人間どもにも害は与えぬ。しかも、それだけではないぞ。もう、ここには戻らぬし、お前や子孫たちにも関わらぬと名誉にかけて約束しようではないか。それでどうだ?」

 ナナクサは一瞬歩みを止めるかに見えたが、一層足を速めて天井から差し込む陽光の手前まで突き進んだ。ブロドリックは心底、慌てふためいた。

「愚かな。我れを滅ぼすことはお前を含めた子孫の全てを滅ぼすことになるのだぞ。それで良いのか。一族がすべて地上から消え去るのだぞ?!」

「でも、あんたも死ぬんでしょ?」

 ナナクサが口にしたのは、それだけだった。

 ナナクサは驚愕と恐怖。それ以上の絶望が広がるブロドリックの瞳をひたと見据(みす)えながら、その身体を陽光の中に突き入れた。

 自分の身体が焼け焦げる臭いがナナクサの鼻をつき、数々の悲鳴が耳を打った。手にはもがき苦しむ相手の感触が、まだ明確に残っている。遂にヴァンパイアと人間の共通の敵を仕留めたのだ。

 ナナクサの視界は青白く激しい炎に満たされていった。心と身体の痛みは、もうなかった。


               64

 ナナクサは量子脳(カミラ)の空になったポッドの前に立っていた。

 カウントダウンの秒読みは続き、三十秒も残されてはいない。彼女はぼろ雑巾(ぞうきん)のようになったブロドリックをポッド内に投げつけると、早くも火ぶくれが修復しつつある、その頭にヘッドギア状の接続具を素早く取り付けた。

神等(カーミラ)!」ナナクサは呼びかけた。「新たな補助脳を接続した。システムダウンの指令を取り消しなさい!」

「新たな補助脳を確認。ですが接続は不可能です」

 なにが「不可能」だ。これが私の出した答えだ。否定は許さない。絶対に()んでもらう。ナナクサは畳みかけた。

「理由は?!」

「一体の補助脳だけでは、不足だからです」量子脳(カミラ)は役所の窓口係のように慇懃無礼(いんぎんぶれい)な口調を心掛けているかのようだった。「私自身のアイデンティティを維持するためには、最低でも十個体の補助脳が必要です。そもそも一個体だけ接続されても、負荷の大きさにその個体が長持ちしません。六百日を越えずにシステムダウンの結果をもたらすだけです。おわかりですか?」

「何がアイデンティティよ。あんたは私の脳をモデルに(つく)られたからわかるわ。あんたは色々な経験がしたい好奇心旺盛な小娘と同じ。でも、その好奇心は退屈な時間の中で映画のように過度な刺激を味わいたいだけの悪趣味なものよ。そのために多くの役者が必要なだけじゃない」

「あなたの言うことが理解できません」

「わからなくてもいいわ。お前も他者と支えあわなければ生きてゆけないということでしょ。私たちと同じに」

「そういうことです」

「なら心配ないわ。この個体はタフで不死身よ。それにお前が考えも及ばないくらい様々な経験もしている。それこそ補助脳の数万個体分以上でしょうね。だから、お前のようなひねくれ者の伴侶(はんりょ)にはうってつけよ」

 ナナクサと量子脳(カミラ)のやり取りを聞いていたブロドリックの瞳に再び恐怖が広がった。何をされるのだろうかという不安が力を呼び覚まし、満身創痍(まんしんそうい)でボロボロの身体を活性化させた。そして並みのヴァンパイアには到底及ぶべくもない活力を振り絞って身体を急速に修復しながらポッドの中でもがき始めた。

「あんたは塵には返さない」ナナクサは復活しつつあるブロドリックの身体に刺さったナイフの柄を蹴りつけてポッドの椅子に、その身体を深々と()い付けた。「(いしずえ)になってもらうわ、一族の始祖(ごせんぞ)様らしく」

 頭に取り付けた接続具から内側に向けて一斉に短針が飛び出し、鮫の歯のようにがっちりと食い込んだ。その瞬間、ナナクサには「助けて」というブロドリックの声が聞こえたような気がした。ポッドの中の照明が赤から緑に変わるにつれて目の前のブロドリックの顔が苦悶(くもん)(ゆが)み、やがて大理石のように白く固まった。それは有史以来ヴァンパイアと人間を苦しめ続けてきた存在にとって苦痛と絶望に満ちた永遠の旅が始まったことを意味していた。


               *

 量子脳(カミラ)は秒読みを止め、代わって都市機能システムが正常に戻ったことを告げると、元いた地下の闇に姿を(ぼっ)し去るために再び巨体を震わせはじめた。量子脳(カミラ)の周囲にいたファニュや助け出されたヴァンパイアや人間たちはその動きに巻き込まれないように瓦礫や死体を避けて壁際に移動した。地鳴りとともに量子脳(カミラ)の姿が床の大穴に消え去ると、闘技場は静寂に包まれた。本当に時が止まったようだった。

 ナナクサはジョウシとの最後の約束を果たすために陽光が(まばゆ)く差し込む場所まで歩を進めた。陽光は露出した部分の肌を刺し、ちりちりと煙が上がる。ファニュに借りた血の効果が薄れ始めているのだ。

「よく聞くがいい。私の名はナナクサ。お前たち人間の仇敵(きゅうてき)。ヴァンパイアだ」ナナクサは、そこでいったん息を吸うと再び口を開いた。ヴァンパイアの声は闘技場の壁全体をびりびり震わせた。「見ての通り、私の力は強大で無限だ。だがこの力をお前たちとの(いくさ)に使おうとは思わない。だから私たちを刺激するな。私たちもまた、お前たちに関わらない。広大無辺な白い大地は、お前たちだけのものではない。これから先、私の一族に弓を引く者は何人(なんぴと)であっても一切容赦はしない、私が(たお)したお前たちの第一指導者(ヘル・シング)のように」

 ナナクサは戦士たちに自分の言葉が浸透するのを待った。ファニュの血を借りて一時的に力を得たことで映像や音声が他の砦に映らないのではと心配もしたが、そこかしこのモニター上の辺塞(へんさい)の戦士たちの表情を盗み見る限り、これも大丈夫だと思われた。地上に(あまね)く存在する人間たちがナナクサを注視している。この機会を(いっ)するわけにはいかない。彼女は不安そうに見守るファニュから、(おび)えを必死に押し隠そうとしている闘技場の生き残りの戦士たちに視線を移した。

「だが、これだけ宣言しても、また如何(いか)なる盟約を結ぼうとも、禁を破る愚か者は出るだろう。そのために私は()えて、この砦に監視者を置いてゆく。監視者は狡知(こうち)(たくら)みをたちどころに嗅ぎ取り、苦痛にまみれた滅びを、その愚か者に与えるだろう。私の警告を決して忘れるな」

 ナナクサの最後の言葉が合図であったかのように天蓋(てんがい)の中心部分が遂に崩落した。


               65

 幾つもの巨大な石の塊が轟音を立てて落下すると、そこから灰色の粉塵が()き上がり、人間が走るより速く闘技場の中心近くにいた戦士の身体を悲鳴とともに()み込んだ。ファニュとクインは闘技場の門まで五十メートル足らずの所にいたが、逃げ惑ってパニック状態に陥った戦士たちが門に殺到していたため、門から離れた壁の張り出しの下まで救出したヴァンパイアや人間たちと移動し、彼らとそこでできるだけ小さくなっていた。ファニュは崩落した巨大な天蓋(てんがい)の真下にいたナナクサのことは不思議と心配にならなかった。彼女がこんなことで命を落とすわけはないのだ。あの第一指導者(ヘル・シング)(たお)すどころか、強大無比なヴァンパイアの親玉すら封印する力があるのだから。

 やがて粉塵が薄れてくると、彼女の(そば)にナナクサが(たたず)んでいるのがわかった。

「ファニュ」

 (かす)かに残る粉塵のスクリーンの前でナナクサがこちらを向いているのがわかる。逆光でファニュには彼女の表情はわからなかったが、その声は静かで落ち着いていた。

「ナナクサ……」

 ファニュもナナクサの名を口にすると、そこで口をつぐんだ。自分の口から伝えねばならないことがあるのだが、どうしても今それを言葉にすることができなかったからだ。だから自分の(そば)にいる助かった者たちの代わりに質問を投げかけた。

「これから、どうなるの?」

「それは、あなたたち次第よ」

 ファニュにはナナクサの言葉は人間とヴァンパイアの双方に等しくかけられたものだと感じられた。確かに彼女の言う通りだ。互いの種族の行く末は、互いをどう理解してゆくかにかかっているのだ。ナナクサたちと同じ時を過ごしたファニュにはそれは容易なことだと確信できる。だが他の人間たちはどうだろうか。長い時をかけて彼らを恐れ、敵対心のみを肥大化させてきた者たちには、それが可能だろうか。ファニュには非力な自分に何ができるかはわからなかった。でも、ヴァンパイアとの相互理解の一助を成すことはできるかもしれない。衝突が起こらないように、(しばら)くはまだ彼らとの接触は極力(ひか)えたほうが良いのだろうが、命ある限り彼らとの友誼(ゆうぎ)を人々に語ってゆくことは可能だ。二つの種族の間に横たわる凍てついた大地に種をまくのだ、芽吹くのが遥か未来になるのだとしても。自分が成すべきことは、それなのだ。

 自分の周りにいる者たちの顔を見渡したファニュは再び口を開いた。

「ナナクサは、これからどうするの?」

「もちろん続けるわ、デイ・ウォークを」

 ファニュは即答したナナクサの漆黒(しっこく)の瞳を見つめ、やがて(うなず)いた。

 その意味がわかったからだ。


               66

 月明かりが(かげ)りはじめた見渡す限りの大雪原。

 岩を組み上げた(たけ)の低い建物が点在する村の中は慌ただしさを増していた。そろそろ夜明けが近いのだ。そこかしこで仕事の後片付けに余念のない村人たちの(かたわ)らでは放牧された数頭の雪走り烏賊(スノー・スクィード)が彼らとは対照的に、のんびりと雪を()んでいる。そんな彼らの姿を(のぞ)む小高い丘の上。そこに迷い込んだ一頭の若い雪走り烏賊(スノー・スクィード)の後ろで雪がもぞもぞと動いた。そして一瞬その動きが止まったかと思うと、粉雪を巻き上げて子供の小さな身体が笑い声とともに勢いよく飛び出してナナクサの胸の中に飛び込んだ。

大婆(おおばば)さま!」

「おや。雪潜り(スノー・ダイブ)とは、たいそう元気の良いことじゃな。お前が我れの所へ遊びに来たということは……」

 ナナクサは、その小さな女の子の身体を左手で抱きかかえながら訳知り顔で大げさに足元を見渡した。そして海面高く飛び上がるイルカのように雪上に姿を現した二人目の男の子を右手で難なく捕まえた。

 この年、ナナクサはちょうど千百歳を迎えたが、その動きと外見は大婆(おおばば)と呼ばれるのが(はばか)られるほど若々しく、人間でいう壮年に入ったばかりの女性にしか見えない。

「ずるいぞ。大婆(おおばば)さまを味方にすんのは反則だ!」

「反則じゃないよ。あんたが捕まえられなかっただけじゃない」

「これこれ」二人の子供を両手で一人ずつ抱きかかえたナナクサの声は限りなく優しい。「喧嘩をするでない、二人とも」

「喧嘩じゃないよ、勝負だもん」男の子が怒って口をとがらせるそばから、女の子が「勝負だもん」と、その口真似をして舌を出す。

「やめろ、お前たち。大婆(おおばば)様が迷惑がっておられるぞ」

 ちょうど丘を上がってきたばかりの身体の引き締まった若者が二人の子供を叱る。

「わぁ、ツイナだ!」

 男の子は叱られたことなどそっちのけで、叫び声をあげてナナクサの手の中から飛び出し、ツイナと呼ばれた若者に飛びつこうと飛び上がったところを彼にも空中で難なく捕まえられてしまった。

「下ろしてよ」

「お前の落ち着きのなさはなんだ。この分では、やはり大婆(おおばば)さまに迷惑をかけていたろう?」

「かけてないよ!」

「本当か?」

「ほんとだよ」

「あたちも迷惑かけてない」と女の子も男の子に追従する。

「この子らの言うとおりですよ」ナナクサは子供たちに微笑みかけながら、目の前の若者から漂う微かな不安も見逃さなかった。「そんなに心配するものではありませんよ、ツイナ」

「何をですか?」

「お前自身が一番わかっておるでしょう?」

「しかし……」

 心を見透(みす)かされて言いよどんだツイナをナナクサは(さと)した。

「考えてもご覧なさい。お前も帰ってくるまで、もっと時間がかかったではないですか。あのとき我れら村の者がどれほど心配したことか。だから、いま少し信じておやりなさいな」

 デイ・ウォークで命を落とす若者は今も皆無ではない。ましてや家族を早くに亡くし、一人残った妹の帰りを待つツイナの気持ちは察するには余りある。ナナクサも若者をデイ・ウォークへ送り出すたびに不安にかられはするが、だからといって、それを他の村人に悟らせることは決してない。なぜなら不安がらせないようにするのが最長老の勤めでもあるからだ。

「そうですね。(おっしゃ)る通りです」

「えぇ」

「それはそうと」ツイナは不安を振り払うように話題を変えた。「そろそろ夜明けです」

「もう、そんな時間になりましたか」

「ねぇ」男の子が親猫に首をくわえられた子猫のように手足をぶらぶらさせながら二人の会話に割り込んだ。「早く下ろしてよ」

「子どもは寝る時間だ。墓穴(シェルター)のベッドまで運んで行って、そこで下ろしてやる」

「やだよ」

「駄目だ。目を離したら、またお前は雪潜り(スノー・ダイブ)で、どこかに行ってしまうだろ。陽を浴びでもしたらどうする。死んじまうぞ」ツイナはナナクサに抱かれている女の子にも手を伸ばした。「さぁ、お前もだ」

 二人の子どもは口々に「いやだ」と(あらが)い、女の子の方はナナクサにより一層強くしがみついた。

「二人とも、もう三十歳(みそじ)だろ。聞きわけたらどうだ」

「じゃぁ、ベッドでお話ちてよ」

「ぼく“紅星の抗戦(対火星戦役)”がいい」

「あたち、それ知ってるよ。ツイナとノリトも敵をやっつけたんだよ」

「そんなこと、だれだって知ってるよ!」

「あたちは、“ガプーラ・シンの和睦(シンガポール攻防戦)”だって知ってるもん」

「昔の話だ……」

 そう(つぶや)いたツイナの目は女の子とナナクサを突き抜けて、はるか遠くを見ているようだった。

 そう……昔の話。忘れえぬ過去の話だ。

 彼の左瞼(ひだりまぶた)から左頬(ひだりほお)にかけて薄っすらと残る刃物傷が、ナナクサにブロドリックから受けた手の甲の傷を思い起こさせた。外傷に対する完全な治癒力(ちゆりょく)を持つヴァンパイアですら治らぬ傷もあるのだ。今では“中興の大戦(おおいくさ)”として記憶されるブロドリックとの戦いも、それを知らない多くの者にとっては(はる)か大昔の出来事となり果てていた。だが、ナナクサにとっては決してそうではない。ツイナが両親を失った“紅星の抗戦(対火星戦役)”と同じように、彼女はそれでデイ・ウォークを共にした、かけがえのない仲間たちをすべて奪われたからだ。

 行動力と大胆さのジンジツ……その聡明さに好意を抱いたタナバタ……身体の弱さを克服しようと必死だったミソカ……包容力と芯の強さを兼ね備えたタンゴとチョウヨウ……そしてジョウシ……。

 あのブロドリックとの戦いのとき、極限まで高められたヴァンパイアの力をもってしても彼女を助けることができなかっただけに、それを思い出すと心が(さいな)まれる。しかし一族に対するジョウシの責任感がもたらした決断が、今まで人間たちとの相互不可侵の盟約を守らせ、その後の二つの種族が理解しあってゆく(いしずえ)になったのだ。

 中興の大戦(おおいくさ)の終盤。ナナクサがブロドリックを量子脳(カミラ)に封印する直前、ジョウシはファニュに看取(みと)られ息を引き取っていた。まるで自分たちの勝利を確信するかのような安らかな死であったという。だが、ジョウシはヴァンパイアと人間の行く末を案じ、死の間際にナナクサにこう(ささや)いてもいたのだ、「我れの死後、(かばね)(ちり)(かえ)すべからず。この地深くに葬りて、もって時が満つるまで、恐怖の封印とせよ」と。

 ナナクサは彼女の真意を理解し、戦いが終わったあと、その遺言のとおりにした。そして城壁外に追放されていた一行を呼び戻すと、彼らと生き残りの戦士たちにファニュを城塞都市(カム・アー)の終身執政者とし、その補佐にクインを()える(むね)を伝えた。予想し得た戦士たちの反発もナナクサが再び披露した圧倒的な力の前に、すぐに影を潜めた。翌日。ジョウシを地中深く葬った闘技場そばの広い空き地に再び人々を集めると、「人がまた(よこしま)な野望を持ったとき、ここに眠る監視者は地中より目を覚まし、その者どもをことごとく滅ぼし()くすであろう」と声高らかに宣言した。もちろん、これが大法螺(おおぼら)だと知っている人間はファニュだけだったし、ヴァンパイアの脅威とナナクサの力を身近に体験した人間たちが新たに恐怖の伝説を末永く口承(こうしょう)していってくれることに疑いの余地はなかった。ただ、ファニュは執政者という重圧に押しつぶされそうになってはいたが、最後まで武器を手にジョウシを(かば)って自らも命を落としたエイブが荼毘(だび)に付される段になると、さすがに毅然(きぜん)()ずまいを正し、ヴァンパイアと人間の懸け橋となるべく城塞都市(カム・アー)で生きる道を受け入れたようだった。

 そのファニュも今では失われた六人の仲間たちと共に(はる)か昔の記憶の中に生きている。ヴァンパイアも人間も同じだ。生涯を戦い抜き、傷つき、そして死んでゆく。それは自分のためだけでなく、大切な誰かのためであり、何かを成し()げるためのものなのだ。ヴァンパイアの若者たちが挑み続けるデイ・ウォークのように。

 ナナクサは村に(かか)げられた旗を見上げた。鳥が翼を広げたように左右から差し伸べられた二つの手が互いのそれを握り合う寸前の意匠(いしょう)の真ん中に一本の剣があしらわれている。もちろん手の甲に当たる部分にある三本のギザギザ模様はナナクサの手に今も残る傷を意味している。過去には人間と反目(はんもく)しあったこともあるし、互いに協力し合って侵略と戦ったこともある。この意匠(いしょう)から剣が消え、二つの手がただ単に握手をするだけの意匠(いしょう)に変わる未来は、いつくるのだろうか。

大婆(おおばば)様」ツイナが呼びかけた。「いかがなされました?」

「なんでもありませんよ」ナナクサは自然と身に付いて(ひさ)しいジョウシの古風な物言いで静かに(おう)じた。「我れも昔のことを少し思い出していただけです」

長駆(ちょうく)の三行者!」女の子が声を上げた。

「ちがうよ!」男の子が反論の口火を切る。「それはツイナとノリトだよ。大婆(おおばば)さまは七賢者の一人だろ!」

大婆(おおばば)さまも三行者だよ!」

「七賢者の方がエラいんだぞ、バカ!」

「これ」ナナクサは男の子を軽く(にら)んだ。「友だちを馬鹿とは何事ですか」

「だって、こいつ何も知らないんだもん」

「しってるってば!」

「我れはのぅ」ナナクサは幼子の目を交互に見詰(みつ)めた。「ただの生き残りじゃ」

 ツイナはその言葉の中に自虐の酸味を感じ取ったかもしれない。だが、そこには過去に対する負の気持ち以上のものが込められていると感じられた。悪意に満ちた人間の血を吸ったことで得た気も遠くなるほどの長命を呪いと考えるか、力ととるか。ナナクサは七百年前には眠れぬほど思い悩んだこともあったが、今ではそれも苦にならない。むしろ、これは宿命なのだと受け入れている。どうせ避け得ない定めなら、失われた仲間たちが生きられなかった分を薬師(くすし)として新たな仲間たちのために前向きに生きてゆこう。それは城塞都市(カム・アー)から救い出した生存者たちと残りのデイ・ウォークを踏破し、そののち彼らと、このゴセック村を切り開いたときから始まったことなのだ。ナナクサはこの過酷な宿命を伴侶(はんりょ)として今まで生き続けている。

 たぶん、これから先もずっと……。


               *

「さぁ、子どもたち。もう寝るがよい」

 ナナクサに(うなが)されて二人の幼子はツイナに手を引かれて丘を降りてゆく。その途中、三人は同時に足を止めると遠くの地平線に目をやった。彼らの視線の先には村に向かって四頭立ての大型(そり)が雪を蹴立てて疾走してくるのが見える。人間との交易を終えて、村の方違へ師(かたたがえし)たちが二年ぶりに帰ってきたのだ。ナナクサはそれを確認すると子どもたちを早く寝所へ連れて行くようにツイナに軽く(うなず)く。

 村に入った大型(そり)は仕事の後片付けを終えたばかりの村人の手で次々と荷を解かれ、半地下になった集会所兼倉庫に運び込まれてゆく。一連の作業は手慣れたもので早送りの映像を見るようだ。そんな作業集団から一枚の遮光マントがひらりと抜け出し、ツイナに抱きつくと二言三言、言葉を交わし、ナナクサのいる丘の上まで長い銀髪をなびかせて軽やかに上がってくる。人間との交易を終えて二年ぶりに帰ってきたノリトだ。ナナクサはその姿を見て、元気のいい娘だと目を細める。

大婆(おおばば)様、ただいま戻りました」

 尻尾が二股(ふたまた)に分かれた黒い雪猫(スノー・キャット)のコマタもノリトに負けじと、彼女の足元からするりと姿を現すとナナクサを見上げて「にゃぁ」と帰還の挨拶(あいさつ)をする。子猫のくせにヴァンパイアにすら接近を気取(けど)らせない忍者。紅星の抗戦(対火星戦役)のとき、人知れず村に住み着いた無限の寿命を持つ雪猫(スノー・キャット)の子どもだ。しかし、この愛くるしい忍者はちょくちょく生え変わった直後の、まだ柔らかい雪走り烏賊(スノー・スクィード)の足を食い千切っては失敬する悪戯者(いたずらもの)なので、その心配だけはある。

「ご苦労でした」

「ご指示どおり、大型の(つち)(のみ)。それに多少の衣類も手に入れました」

「あんなに(そり)を飛ばしてくるとは、さぞや疲れたことでしょう。ゆっくり明日の夜に帰ることもできたでしょうに」

「村が近いと思うと気持ちを押さえられなかったんです。で、あとは水筒を六本。村で廃棄処分になってたのと差し引きしても余りますよ。それから……雪割りトマト(スノー・トマト)の苗が三箱……」

「いかがした?」帰還早々なにか言いたげなノリトにナナクサは水を向けた。

「なんでもありません」脚に身体をすり付けて甘えるコマタに注意を向けながらも、ノリトはさして面白くなさそうに(おう)じる。「でも、トマトなんて育てても、なんの腹の足しにもならないと前々から思ってます」

「精進水に(はる)かに劣るとはいえ、非常食としては有効ですよ。されど、お前が言いたいのはトマトの話ではなかろう? 言いたいのなら、今お言いなさい。言わぬなら、ずっと黙っておくことじゃ」

「では申し上げます。人間との交易が無駄とは思いませんが、やはり効率が悪すぎます。必需品が山積みされていて人間が足を踏み入れない場所を知ってるだけに納得がいきません。あそこの物資を使い続けられれば、村はもっと便利になります」

 ノリトは言いたいことを一気に吐き出すと肩をすくめた。確かに若いノリトの思いは、もっともなことだ。だが高度に物流が発達した社会に生きていたナナ・ジーランドの記憶を持つナナクサには、物に囲まれすぎることで自身を見失う危険を(はら)むより、不便であるがゆえに互いの絆を武器として支えあう生活の方が、今の世界では何十倍も健全で文明的だと思われた。それに必需品を無暗に使い尽くすということは、デイ・ウォークで新成人が獲得する記念品を枯渇(こかつ)させてしまう恐れもある。なぜならデイ・ウォークの物理的な終着点である記念品の交換所は、ブラム氷期当初から略奪や破壊を免れた北半球に存在する唯一の巨大ショッピングモールなのだから。

「お前の気持ちはわかります。されど、それを今どうこうするというのも性急にすぎますよ。我れらが心をもっと深化させてから話し合っても遅くはありません」

「いつになりますか?」

「さて。いつになるかのう」

「物があふれた便利な世界を見たいのです」

 ナナクサは夢見がちな娘に、ただ微笑みを見せるだけだった。

「早く見たいのに……」ノリトは不満気に溜息(ためいき)をつくと、突然、思い出したように肩から下げた袋の中に手を突っ込んで取り出したものをナナクサに手渡した。「そうだ。これを忘れてました。お土産ですよ、大婆(おおばば)様」

「おやまぁ。これは本ですね……」

「えぇ。今回の隊商が持ってました。彼らの話によると大昔にうち捨てられた辺塞(へんさい)近くで見つけたらしいです。すごいとお思いになりませんか。でも何と交換したかは秘密ですよ」悪戯(いたずら)っぽく微笑んだノリトは背表紙からページに目を移したナナクサの手元を(のぞ)き込んだ。「古代の言葉をもっと勉強しとけばなぁ。大婆(おおばば)様に渡す前に少しは読めたのに」

「言葉の勉強は今からでも遅くはありませんよ」本から目を離さず、ノリトに(おう)じたナナクサは次に本自体を丹念に調べ始めた。「防腐加工を施したプラスチックページ……。文字の大きさと、この挿絵のタッチからすると青少年用に簡略化された古代の小説ですね。おや?……」

 ナナクサはページの中のマントに身を包んだ不気味な男が若い男女の前に立ちはだかる挿絵の下に点々とこびりついた黒い染みに目を止めた。その動きにノリトが素早く反応する。

「かなり古い血です、大婆(おおばば)様。匂いはほとんど消えかけてますが、人間のじゃありません。私たちヴァンパイアのものに間違いありません。調べたかったのですが、“記憶見の秘法(メモリー・サーチ)”は大婆(おおばば)様にしか許されてませんから」

「お前が本をくれた本当の理由は、これですね?」

「えぇ。実はそうです」

「しょうのない娘ですね」

 悪びれるどころか好奇心を隠そうともしないノリトに、ナナクサはわざと顔をしかめてみせた。血から個人の記憶を垣間見(かいまみ)るなど、お世辞にも()められたことではない。ただ、その血の持ち主の生き様を知ることが、その者の生きた(あかし)となり、村人の心の糧となる可能性があるなら、その行為は許されるのではないか。ナナクサは幾度か行った記憶見の秘法(メモリー・サーチ)の際にも、そう自分に言い聞かせてきたのだ。

「良き記憶であらんことを」

 ただの怪我で付着したものか、そうではないのか。どうか前者であるようにとナナクサは祈る思いで人差し指を黒くこびりついた血に押しつけた。そして大きく息を吐いて心を落ち着け、砂粒のような血を口元に運んで舌で舐めとった。しばらくすると視界の周りに(かすみ)がかかり、見知らぬ若者の顔や景色が次々と現れては消えていった。そして……。

「どんな記憶でした?」

 ナナクサは目を伏せると悲しげに首を振った。好奇心が勝るノリトもさすがに察して、右手を左胸に()えて故人(亡き人)の記憶に一礼を捧げるとナナクサの前を静かに辞した。

「この記憶の持ち主の名は、ボウシュ」ナナクサは丘を降りるノリトの背中に声をかけた。「不幸な最期に見舞われはしましたが、型破りで好奇心にあふれた夢ある若者でした。彼女が残した生き様は、またお前たちにも伝えましょう」

 たとえ本の内容にボウシュが直感した一族の秘密や歴史が書かれていなかったとしても重要なのはそれではない。ナナクサは自身のデイ・ウォークの仲間だったチョウヨウの魂にも、そう語りかけた。


               *

「さて、いよいよ夜明けか」

 ナナクサは空に背を向けると本を閉じて小脇に抱えた。本の背表紙にはこうあった。ブラム・ストーカー著・少年少女文庫版『吸血鬼ドラキュラ』と。

 薄っすらと差し込む朝陽がヴァンパイアの長老から長い影を引き、それは彼女が地下の寝所に潜るまで白い大地に伸びていた。


               了

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