第五章 世界最強の女、そして……ジロの恋愛マニュアル
第五話です!本日ラスト!
最強の女ハザエ、恋愛マニュアルで初デートに挑む。
……嫌な予感しかしない。
※この作品はハイテンション・コメディです。下ネタあり。
作者X : @Sora_no_TENKAI
代表作『Tenkai』も連載中です!
サイが一時間くれた。
一時間で食料を買い、馬に鞍を付け、水筒を満たし、アクラ火山に出発する前に必要なことを全部やれ、って。
そして銀貨一枚だけ渡された。
蜂蜜酒に使うな、ってすごく具体的な指示付きで。
あたしはパンに使った。
厳密には、まだあたしの手には渡ってない。
ヴァレンフォートの市のパン屋が、あたしが屋台の通路に入るのを見た瞬間にカゴを落として逃げたからだ。
でも意図は誠実だった。犯罪は状況的だ。
「ハザエ」
ジロが、腕の下に丸めた巻物を抱えて、恋愛アドバイスをする時か食い物を盗む時にしか出ない危険な輝きを目に宿して現れた。
「プレゼントだ」
「また外交スピーチだったら橋と一緒に埋めてやるからな」
「もっといいぞ。マニュアルだ」
彼は、二人のおばさんが十字を切るくらいの大げさな動きで巻物を広げた。
一番上に、デカくて曲がったインクの滲んだ字で、こう書いてあった。
完璧な恋愛のための六つのレッスン、著者アストラガルドのジロ――専門家
買い物袋より高いオートミールの袋を担いで通りかかったサイが止まった。
「生涯一度もキスしたことのないアストラガルドのジロ氏が、恋愛マニュアルを書いたの?」
「理論には関係ない細かいことだ!」
「今週聞いた中で一番関係ある細かいことよ」
「理論と実践は違うんだよ!」
「この場合、存在するのは理論だけよ。しかも怪しいわね」
ジロは、海賊に恥をかかされ慣れた人間の見事な尊厳で、そのコメントを無視した。
「レッスン一、感じ良く微笑む。レッスン二、相手を誠実に褒める。レッスン三、相手の人生について聞く。レッスン四、会話中は剣を握らない。レッスン五、もし事故が起きたら環境のせいにする。レッスン六、絶対に、絶対に、相手の家族が絡む約束をしない」
巻物を上から下まで読んだ。六行だった。
少なくとも四行に侮辱され、二行に人格を攻撃された気分だった。
「事故って何?」
「お前わかってるだろ」
彼はあたしの腹を見た。
わかった。残念ながら、わかった。
「わかったよ」
降伏文書みたいに巻物を畳んで言った。
「でも失敗したらあんたを人間盾にするからな。また」
「もう決まってる。付録に書いてある」
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練習用に、ジロはボランティアを選んだ。
というか、犠牲者を。
パン屋の息子だ。あたしが国境まで追いかけてこないって確信して、カゴを回収しに戻ってきたやつだ。
そいつは十九歳くらいで、髪は粉まみれ、茶色い目は見開いてて、名前はピップって言った。
あたしが近づくのを見た途端、カゴを抱えたまま固まった。逃げるのが面倒だから尊厳を持って死ぬことを選んだ鹿みたいに。
後ろで、タラが腕を組んだ。その動きで屋台二つが揺れた。
顔に手を当てて、マニュアルの言う通りにした。微笑んだ。感じ良く。マニュアルによれば。
ピップがカゴを落とした。パンが飛んだ。
「感じ良い笑顔だって言ったろ!」
奇跡的に昨日を生き残ったリンゴの樽の後ろに隠れて、ジロが囁いた。
「やったじゃん、クソ!」
「歯全部見せたぞ! 全部!」
「笑うってそういうもんでしょ!」
「頸動脈を噛み切る準備の顔だよ!」
深呼吸して、焼けた髪を直して、もう一度やってみた。もっと小さく、もっと抑えて、ほぼ人間みたいな笑顔で。
「おはよう。あたしハザエ」
「し、知ってます、嬢ちゃん……みんな知ってます。母さんがあなたに祈ってます。父さんも、違う理由で祈ってますけど」
タラが精神的サポートのために一歩前に出た。ピップが粉と同じくらい真っ白になった。
「タラ、下がって」
彼女は半歩下がった。まだ近すぎた。タラにとっての近すぎは相対的な概念だ。彼女はいつも近すぎる。
「レッスン二!」
樽の中に落ちそうになりながら、ジロが吹き込んだ。
「褒めろ!」
ピップを上から下まで見て、アストラガルドの良き礼儀が求める優しくて誠実なことを探した。
「首、すごいしっかりしてるね」
ピップは自動的に首に手を当てた。
「え……何?」
「いい首だよ。丈夫そう。色々耐えられそう。構造的に頑丈」
「ありがとう? たぶん?」
「行け!」
ジロがパニックで囁いた。
「レッスン三! 三!」
「えっと……人生どう?」
テレプロンプターを読むみたいに聞いた。
「えっと……父さんのパン屋で働いてます」
「いいね。両親いるの?」
「います」
「よかった。あたしも。どっちも殺さないって約束する。本当の約束、保証付き」
樽の後ろで、ジロが木に額を打ち付けた。
「レッスン六だ、ハザエ! 六!」
「殺さないって言ったの! ポジティブじゃん!」
「そこが問題なんだよ、クソ!」
ピップは下がり始めていた。ゆっくり、急な動きなしで、喋ることを覚えた雪崩に対応するみたいに。
安心させようとして一歩前に出た時、感じた。
腹の奥で、控えめな圧を。
いや、控えめじゃない。判決だ。腸の判決だった。
朝飯の蜂蜜パン二つ。チーズ。そしてジロが「ただのミルクだって、信じろよ」って言った蜂蜜酒入りミルク一杯。
あたしはハザエ・イシザキだ。災厄竜を三撃で屠った女だ。七つの原初の魔獣を狩って法を勝ち取る女だ。味付けミルクごときに負けてたまるか。
ブウウウウッ!! プルルルルッ!!
でかくて容赦ない、あたしのおならの音が、市場全体を切り裂いた。
世界中の音が消えたみたいに、市場全体が静まり返った。
一羽の鶏が鳴き声の途中で止まった。嘴を開けたまま。
荷車の鈴が一つ、緊張して勝手にチリンって鳴った。
ピップはスープ皿みたいに目を見開いてあたしを見てた。
レッスン五。レッスン五は知ってた。ジロが三回線を引いてた。
「風だ」
裁判官みたいな厳かさで宣言した。
みんな周りを見た。風はなかった。市の旗は力なくだらんと垂れ下がって、負けてた。あたしを救ってくれるそよ風一匹もなかった。
「あの……あのヤギだ」
絶望して、干し草の荷車に繋がれた髭が長くて何もかも見てきたような黄色い目をした老いぼれヤギを指さした。
ヤギがあたしを見た。あたしがヤギを見た。決闘だった。
その瞬間、まるで一生この瞬間を待っていたかのように、そいつは長くて低くて、道徳的な非難と審判に満ちた鳴き声を上げた。
メエエエエエッ!
「うちのヤギはレディだ!」
飼い主が憤慨して叫んで、ヤギを抱きしめた。
「こんなこと絶対しない!」
タラの後ろに隠れた。簡単だ。彼女は二メートル十センチあるし、あたしは……もっと小さいから。
タラは、予想に反して笑わなかった。壁みたいに動かなかった。でも耳の先が震えてた。
タラのことを知りすぎてるあたしには、地震を起こしかねない笑いをこらえてるってわかる。
「笑ったら」
恥ずかしさで泣きそうになりながら、彼女に囁いた。
「ぶっ壊すからな」
タラが片眉を上げた。タラ語では、床で転げ回って笑うのと同義だった。
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ピップは二回気絶した。一回目は驚いて。二回目はジロが冷たい水の入ったバケツを過剰な熱意でかけて起こそうとした時に。
やっと目を開けた時、粉の袋の上に横たわってて、胸の上にモチが座ってた。鼻から青い煙を出して、すごく小さなお医者さんみたいに彼を見てた。
「竜が……」
ピップは朦朧として呟いた。
「古い蛇竜だ」
ジロが、馬鹿な父親の誇らしさで訂正した。
「生まれて数日で眉毛二つと耳一つ燃やした。将来有望だぞ」
ピップはゆっくり起き上がった。あたしを見た。あたしは三歩離れたところにいて、顔はアクラより熱くて、この粉の中に埋まって二度と出てこないでいたいって心から思ってた。
「ごめん」
言ったら、今日初めて声がマニュアルなしで出た。
「本当に驚かせたくなかった。あたし……こういうの苦手なんだ」
ピップは粉まみれの顔を擦った。
「大丈夫。俺……驚いたけど、風のせいじゃないって」
タラがもう片方の眉を上げた。ピップは慌てた。
「いや、違う意味で、俺別のこと想像してたんだ。みんなあなたが戦いの女神だって言うから。見るだけで軍隊を滅ぼすって。素手で竜の首を引き抜くって」
彼はまだあたしを裁いてるヤギを指さした。
「……思ったより優しいんだね」
世界が回るのを止めた。本当に止まった気がした。
瞬きした。
「優しい?」
「うん」
「あたしが?」
「うん。恥ずかしがってた。戦いの女神は恥ずかしがらない」
ピップは屋台に戻って、綺麗な布に包まれたまだ温かい蜂蜜パンを一つ持ってきた。
「家からのサービス。驚かせたお詫び。あと……竜のために。綺麗だね」
両手で受け取った。聖なる遺物でも、伝説の剣でも、称号でも受け取るみたいに。
「ありがとう」
「どういたしまして」
彼は言って、本当に笑った。恐怖なしで。
市から浮いて出てきた。文字通り浮いてた。タラが引っ張ってくれなかったら袋につまずいてたからだ。
「優しいって言われた」
三つ先の通りでも、四回目、まだパンを爆発物みたいに抱えて繰り返してた。
「言ってたな」
ジロが、まだ粉と水まみれで確認した。
「誰もあたしにそんなこと言ったことない。誰も。一度も」
「効いた! マニュアルは効いた!」
ジロが巻物を預言者みたいに掲げた。
「科学的成功だ!」
「二回気絶したんだけど、ジロ」
「でも起きてから優しかっただろ! 歴史的進歩だ! 前は気絶したらもう起きなかったんだぞ!」
「あんたは? 邪魔する以外に何か役に立った?」
「バケツ持ってきた! 効率的に!」
蜂蜜パンをかじった。美味しかった。温かくて甘くて、子供の頃の匂いがした。人生で食べた中で一番美味しいパンだった。八つの国でパンを食べたけど。
タラは隣を歩いてた。ピップが彼女にもくれた自分のパンを噛んでた。誇らしげとしか言いようのない顔で。
誰も教えてくれなかった試験に、ようやく合格したみたいな顔だった。
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アクラへの道は長くて、埃っぽくて、雄羊の頭くらいの石だらけだった。
一里ごとに、山は地平線で大きくなった。最初は暗い影。次に煙の糸を垂らした影。最後には空を切り裂く黒い岩の壁になって、数キロ離れてても熱を吐いてた。
日没に、山の麓の転がった石の間で野営した。風はもう硫黄臭かった。
サイは、会計士が感動して泣くくらいの外科的な正確さで夕食を分けた。干し肉一切れ、豆一掴み、蜂蜜酒一杯。一人一杯。
「一杯?」
砂漠の水滴みたいにジョッキを見て聞いた。
「一杯よ」
「あたしが遠征のリーダーなんだけど」
「そしてあたしがあんたが真っ二つにした橋の支払いをしてるの。一杯」
暗闇でゆっくり飲んだ。山の脈動を見ながら。
モチは膝の上で寝てた。レンが見つけた小さな燻り石に巻きついて、時々舐めてた。
ジロは焚き火のそばで口を開けてイビキをかいてた。恋愛マニュアルを枕にして。
サイは火の光で硬貨を数えてた。祈りよりも彼女を安心させる儀式みたいに。
レンは少し離れたところで、しゃがんで、指の先で地面を調べてた。二十分間何も言わずに。
タラが隣に座って黙ってた。良い沈黙だった。埋める必要のないやつ。
火山を見た。頂上で細い赤い光が脈打ってた。リズムを持って。石の中に隠れた心臓みたいに。クルオルの血管みたいに。
「十二歳の時だった」
彼女だけに聞こえるように、小さく言った。
「死ぬかと思った。中に落ちて、転がって、出口が見えなかった。熱い石しかなかった」
タラは答えなかった。必要ない時は絶対に答えない。でもそこにいた。
「家に帰りたいってだけだった。それだけカダヴァルに言ったの。力も栄光も、最強とかも頼んでない。ただ帰りたいって」
ジョッキを握りしめて、金属が軋んだ。
「それで彼女は助けてくれた。なんでかわかんないけど」
タラがでかい手を肩に置いた。温かくて。しっかりしてて。一人で暗いトンネルにいたんじゃないって思い出させてくれるくらい。
長い間そうして、かつてあたしを飲み込んで剣を背負わせて吐き出した山を見てた。
「狩りが静かすぎる」
レンが突然、振り向かずに言った。低い声が空気を切った。
サイが即座に顔を上げた。ジロはイビキを止めた。体が脳より先に気づいたみたいに。
「静かってどういうこと?」
あたしは聞いた。
「鳥がいない。虫もいない。ネズミもいない。麓に来てから、何も動いてない。石の間の風さえも」
周りを見た。彼の言う通りだった。ヴァレンフォートの夜はいつもコオロギとフクロウとざわめきでいっぱいだった。ここには焚き火のパチパチと私達の呼吸しかなかった。山が息を止めてるみたいに。
剣が背中で脈打った。
一度。
二度。
それから、オルウェンとの会話以来初めて、彼女が喋った。そしてそれはいつもの皮肉な声じゃなかった。
『ハザエ』
呼吸が止まった。火山の熱の中でも血が冷たくなった。
『何?』
彼女の声は違ってた。毒も冗談もなかった。ただ古い重さがあるだけだった。すごく深くて、底なしの井戸に落ちる石みたいな重さだった。
『あいつは、あなたが戻ってきたって気づいてるわ』
地面が揺れた。
軽い揺れで、ほとんどわからないくらいで、ジョッキの水がわずかに波打ったくらいだった。でも焚き火の炎が一斉に火山の方に傾いた。何かが中で深く息を吸い込んだみたいに。空気の匂いを嗅いで、思い出したみたいに。
モチが膝の上で跳ねて起きた。今まで出したことのない鋭い鳴き声を上げて、長い首を伸ばして、頂上を金色の目を大きく開けて、瞬きもせずに見つめた。小さな役に立たない翼が震えてた。
サイが素早い動きで硬貨をしまった。レンはゆっくり立ち上がって、ナイフの柄に手をかけた。タラはもう立ってた。あたしが動いたのに気づく前から、盾を手にしてた。
カダヴァルの柄を握った。黒曜石が熱かった。本当に熱い。見つけてから初めてだ。
世界が息を止めた。
「普通の夜が欲しかっただけなのに」
そう思った。人生で一番馬鹿で、一番正直な考えだった。
山が、深くて低い咆哮で答えた。耳から来たんじゃない。骨から来た。足元の石から来た。
巨人が目を覚ました。
第五章・終
本日5話一挙投稿、ここまで読んでくれてありがとうございます!
恋愛マニュアル、役に立ちましたかね?ハザエ的には大成功です(本人談)
作者X : @Sora_no_TENKAI
代表作『Tenkai』もよろしくお願いします!
明日22時に6話投稿します。
今週は毎日22時更新、来週からは毎週水曜・土曜22時更新です。
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