第二章 世界最強の女、そして……竜の最後の約束
平穏に生きたいなら、ルールその一。
蜂蜜酒三ヶ月分が報酬の依頼は受けるな。
ルールその二。
依頼選びをサイに任せるな。
ルールその三。
サイが蜂蜜酒三ヶ月分の依頼を選んだからって、その一を無視するな。
残念ながら、あたしは朝飯前に三つ全部破った。
「ランクS+?」
ギルドの机の上に置かれた巻物を、爆発物を見る目で見た。
あたしの経歴を考えれば、実際に爆発する可能性はあった。
サイが笑った。
あの笑顔が大嫌いだ。
他人の人生を担保にして儲ける方法を見つけた時の笑顔だ。
リサンダーの海賊、航海士、骨の髄まで皮肉屋で、ドラゴンが財務相談したくなるレベルの守銭奴。
あたしの財布を、ウサギに対する鷹みたいな愛情で管理してる女。
「古竜がヴァレンフォート国境を脅かしています。討伐で特別報酬」
買い物メモを読むみたいに、そいつは言った。
「討伐って何を?」
「古竜を」
「読めるわよ、クソ!」
「あら、思ったより成長が早いのね」
あいつは偽名で契約してた。
表向きは、品行方正な独立冒険者パーティ。
裏向きは、あたしが肉体労働と精神労働と破壊労働を全部やって、サイが支払いを管理して、あたしが残りを聞く前に三割消える。
完璧に不公平な分配だ。
「外注できないの?」
サイは顎であたしの背中を指した。
「これを持ち上げられるのが、あなたしかいないから」
「あと、正体を五分隠せないからな。すぐに騒ぎになる」
ジロがジョッキ二つ持って入ってきた。
あたしはそいつを見た。
「今日空飛びたい? それともお前の鳥、丸焼きにしてポテト添えにしてやろうか?」
「鳥の準備してくる」
即答だった。賢い男だ。
背中でカダヴァルが満足げに震えた。
『朝飯前に殲滅依頼とはね。普通の暮らしがしたいって言ってたわよね。あなたにとっては、これが一番普通に近いんでしょうけど』
『文句言いながら殺せばいいでしょ』
『素晴らしいマルチタスクね。朝食を外交問題に変える才能と同じくらい、感心するわ』
たまには普通の剣が欲しい。
頭の中で喋らないやつ。
食生活に口出ししないやつ。
恋愛に意見しないやつ。
『またあたしのこと考えてる』
『お前を井戸に投げ込むこと考えてた』
『まあロマンチック。やっと二人きりのデートに誘ってくれるのね』
あたしは本気で休暇が必要だ。
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洞窟は、交易路から遠く離れた山岳地帯にあった。
風は硫黄臭くて、入り口の岩には深い爪痕。
戦った痕じゃない。
しがみついた痕だ。
レンが黙って地形を調べた。
シルソーンの狩人。
必要最低限しか喋らない。
サイ的には、前払いを要求しないし、あたしが地図を破壊しても文句を言わない、という巨大な利点があった。
「古い足跡だ」
やっと、そいつは言った。
「何日も、いや何週間も、ここから出てない」
「じゃあなんで集落を脅かしてるって話になってんの?」
サイが巻物を、罰金通知書を読むみたいな顔で確認した。
「城壁を倒し、旅人を威嚇し、倉庫を三つ燃やした、だって」
「倉庫燃やしたって?」
「市役所の公式報告書よ。印鑑付き」
ジロが指を立てた。竜の弁護モードだ。
「偶発的な火災かもよ。よくあることだ」
「お前、ランクS+の指名手配竜を擁護してんの?」
「無罪の可能性を擁護してるんだ。違うだろ。統計的にそっちの方が面白いし」
『坊やの言う通りよ』
カダヴァルが頭の中で、あたしをイラつかせるのが大好きな声で割り込んできた。
『あなただって、悪意なく公有財産を破壊したことあるじゃない。カーストの図書館、覚えてる?』
『こけただけだし!』
『あたしを背負ってこけたの。図書館もこけ返したのよ』
『黙れよ、まだパンをあたしで切ったこと根に持ってんのか?』
『鞘の欠片でバター塗ったのよ。鞘よ。古代黒曜石の鞘を』
『緊急事態だったの! パンが石みたいに固かったんだよ!』
『パンだったのよ』
「あたしが外交で解決する」
内外の議論を同時に終わらせるために、大声で宣言した。
サイが巻物の上からあたしを見た。
「あなた、バジルすら生かせないじゃない」
「邪魔なとこにあったんだよ!」
「窓辺の鉢よ! 窓辺!」
死んだ植物と皮肉屋の剣と同時に口論になる前に、洞窟の中に進んだ。
意図を説明しようとして状況を悪化させるのは、あたしの特技だ。
トンネルは巨大な空洞に繋がってた。
空気は熱くて湿って、古い煙の匂いがした。
そして、そこにいた。
古竜は、吟遊詩人が語るような威厳のあるデカさじゃなかった。
老いてた。
鱗は古く、多くがひび割れ、色褪せ、首を横切る傷跡は干上がった川みたいだった。
片方の翼は上から下まで裂けて、だらりと垂れ下がってた。
足音を聞いて頭を上げ、あたしの背中のカダヴァルを見た瞬間、瞳が細い線になるまで縮んだ。
「まさか……プトロルの魔剣……」
声は、石を引きずるみたいに掠れてた。
反射で武器を抜いた。
空気が重くなり、小石が周りで浮き始めた。
自動的にだ。
古竜は立ち上がろうとしたが、脚が震えてまた崩れ落ちた。
「来ないで……お願い……」
「倉庫を燃やして、旅人を脅したんだろ」
言ったら、思ったより声が硬くなった。
「縄張りを守ってただけよ!」
「城壁は?」
「巣の入り口の上に建てたのよ! 出て行けって言ったのに! あの人達、ツルハシを持ってきたのよ!」
サイを見た。サイが書類を読み返して、眉を寄せた。
知り合ってから初めて、利益を計算してない顔だった。
「住民の訴えは、古竜がヴァレンフォート街道を拡張していた作業員を襲った、ってなってるわ」
「巣の入り口を掘ってたの! 警告したわ!」
「それで倉庫三つ燃やしたの?」
古竜は頭を下げた。恥ずかしそうに。
恥ずかしそうにだ。
全長十五メートルの、槍みたいな角が生えた生き物が、恥ずかしそうに。
「空っぽだったの。燃やす前に、中、確認したわ」
ジロが宝くじに当たったみたいにそいつを指さした。
「ほら見ろ! クソ、やっぱりな!」
「訴えは無効にならないわ」
サイは、いつもより低い声で言った。
「でも、情状は変わるわね」
カダヴァルを持ち上げた。
刃が、遠くの兵士が失禁するような低い音を立てた。
古竜は目を閉じた。
逃げなかった。火も吐かなかった。ただ、鼻先を地面につけて、諦めたように。
「殺しに来たなら、早くして」
手が、途中で止まった。
命乞いして時間稼ぎする化け物なら何度も見てきた。
嘘も、罠も、弱ったフリして首を狙ってくるやつも知ってる。
でもあの古竜は、生き延びようとしてなかった。
休むのを待つみたいに、死を待ってた。
「なんで戦わないんだよ」
そいつは濡れた目を開けた。
「勝てないからよ。あと、この子に、見せたくないから」
カダヴァルが黙った。
洞窟に入ってから初めて、頭の中から皮肉が消えた。
静寂だけだった。
古竜はゆっくりと、背後の、岩と消えかけた炭で隠された割れ目の方に頭を向けた。
「死ぬ前に……見せたいものがあるの」
空洞の奥。
宝じゃなかった。骨でも金でもない。
温められた石と、乾いた苔と、彼女自身の古い鱗でできた巣だった。
そして真ん中に、卵。
思ったより小さい。
小さな樽くらい。
繊細な鱗に覆われて、灰白色と弱い赤が交互になってた。まるでクルオルが中でも流れてるみたいに。
表面には細いひびが一本走ってて、時々光ってた。
「私の子よ」
声が、折れた。
誰も喋らなかった。サイまで黙ってた。
「七つの冬、この卵を守ったの。捕食者を追い払い、巣を隠し、自分の魔力を燃やして温め続けたわ」
そいつは、自分の大きさに似合わない優しさで、卵に鼻先を寄せた。
「でも、もう老いたわ。魔力は枯れ、翼は体を支えられないし、もうこの場所を守る力もないの。あたしが死ねば、この子は一人になる。世界は、一人で生まれた子に優しくないのよ」
卵を見た。ひびがまた、返事をするように光った。
「あたしに、息子を託したいってこと?」
「育ててほしいの」
乾いた笑いが出た。手のやり場が分からない時に出るやつ。
「あたしに? 人選ミスだよ。あたし、竜殺しだよ。子育てとか……無理だよ」
「あなたの力は知ってるわ。その気になれば、この巣を一瞬で壊せることも。でもあなたは、立ち止まって話を聞いた。誰も、立ち止まらなかった」
洞窟全体が沈黙で満ちた。
アクラでの子供の頃を思い出した。
火山から戻るあたしを待ってた両親を。
誰かに勝手に決められる前に、自分が誰になれるか知るチャンスすら持てなかったら、って恐怖を。
ゆっくり剣を下ろした。
「竜の育て方なんて知らない」
「学べるわ」
「植物すら枯らすんだよ。サボテン殺したことある。サボテンだよ、クソ!」
「ここにいれば、あたしと一緒に死ぬ。あなたと行けば、生きられるかもしれない。選べるかもしれない」
卵に近づいた。殻は温かかった。
「もし引き受けるなら、武器にはしない。戦わせない、売らない、利用しない。大きくなったら、自分で道を選ばせる。あたしから離れるって選んでも」
古竜は目を閉じた。樹脂みたいに太い涙が一粒流れた。
「聞きたかったのは、それよ」
殻に、そっと触れた。約束に触れるみたいに。
「わかった。あたしが育てる」
老いた竜はゆっくり息を吐いた。古い灰の匂いがする温かい息だった。
「ありがとう……ハザエ・イシザキ」
あたしの名前を知ってた。どうやってかは聞かなかった。世界が囁く名前もある。
呼吸が弱まるまで、そばにいた。最後にもう一度だけ、無限の愛情を込めて、卵に鼻先を寄せた。
「元気でね、私の小さな子……」
そして、洞窟は静かになった。
爆発はなかった。吟遊詩人が歌うような最後の咆哮もなかった。
ただ、最後の数年を子を守るために生きた母が、やっと休めただけだった。
そして、世界最強の女は、剣をどこにやればいいか分からず突っ立ってた。
長い間、頭を下げたまま、何も言えなかった。
カダヴァルが、皮肉も毒もなく、真実だけを心に響かせた。
『正しい選択よ』
『わかってる』
---
古竜を埋めたのは夜明けだった。
レンが魔法も使わず、急ぎもせず、素手で巣の石の間に土を掘った。
一晩中「報酬」という単語を口にしなかったサイが - 彼女にとっては修道士の沈黙の誓いと同じだ - 石をかぶせるのを手伝った。
何時間も喋らなかったジロが - 彼にとっては拷問だ - 斜面で見つけたたった一輪の、ぐしゃぐしゃの白い花を墓に置いた。
あたしは卵の隣に座ってた。卵はあたしのマントに包まれてた。今は硫黄と巣の匂いがするマントに。
その時、そいつが動いた。
ひびが広がった。もう一本。乾いた音。
小さくて濡れた鼻先が出てきて、次に蜂蜜みたいな色のデカい目が二つ、豆粒みたいな角が二本。
頭で殻を押して、自分のよだれで滑って、四本足を空に向けてひっくり返って固まった。
天井を見上げて、人生の選択を全部後悔してるみたいな顔だった。
そして、くしゃみをした。
ポフッ。
青い小さな火。コインくらいの大きさ。本当に青い。オレンジじゃなくて、青。
あたしの前髪に直撃した。
瞬きした。焦げた髪の匂いが上がった。雛は返事に瞬きして、得意げだった。
「髪、燃やされたんだけど」
自然災害を報告する口調で言った。
ジロが両手で口を押さえた。サイは首が外れる勢いで顔を背けた。
滅多に感情を出さないレンは、離れて、洞窟の壁を地質学的に真剣な顔で見つめる必要があった。
「誰も笑うな」
危険なほど冷静な声で命令した。
雛はあくびをした。小さな舌を見せて、這ってきた。
体は蛇みたいに長いのに、四本の不器用な足と、まだ役に立たない小さな翼と、どこで終わるか自分でも分かってないみたいに勝手にバタバタする尻尾があった。
ブーツを登り、脚を登り、膝でつまずいて、生きてるマフラーみたいに肩に巻きついた。
固まった。
「取って」
誰も動かなかった。
「マジで言ってんだけど、クソ。取ってって」
雛はあたしの首に頭を乗せて、温かくて、ゴロゴロ喉を鳴らし始めた。
ゴロゴロだ。竜がゴロゴロ。
カダヴァルは一分間丸々、何も言わなかった。二百年間で最大の自制だった。
『おめでとう。ママに昇進よ』
『活火山に投げ込むわよ』
『もうやったわね。子育て戦略としては最悪だったわ』
そいつを見た。口を開けて、やっと暖かい場所を見つけたみたいな小さなため息みたいな声を出した。
「……モチ」
考えずに呟いてた。
サイの眉が、額から出るくらい上がった。
「モチ?」
「モチみたいだから。丸くて、柔らかくて、詰まらせたら危険」
「古代竜よ。時代を超える血統よ」
「それが何? モチみたいなもんじゃん」
「お菓子の名前つけたの?」
「じゃあ税金って呼びたい? モチの方が可愛いじゃん」
ジロが堪えきれずに爆笑して止まらなくなった。モチは騒音に抗議して、あたしの肩でさらに良い位置を探して、即座に眠りに落ちた。青いよだれを少しだけ襟に垂らしながら。
剣は数秒黙った。人生で二回くらいしか聞いたことない、静かな声で言った。
『守りなさい、ハザエ。この子を』
『本気で言ってんの?』
『ええ。この子には、世界に決められる前に、自分が誰になるか知る権利がある。あなたがそうだったように』
返事しなかった。ただ、世界中が瞬きした隙に奪っていくかもしれないみたいに、両手でモチを大事に抱きしめた。
サイはもう契約書の巻物に何かを怒りに任せて書き殴ってた。
「同伴生物輸送費、生物災害危険手当、毛髪損傷費、チームの精神的トラウマ手当、追加請求するわ。あとギルドには、古代竜は……名誉ある引退をしたって説明しないと」
あたしは竜を殺しに出かけた。
帰り道は、息子と、焦げた前髪と、空っぽの卵の殻と、二百年ものの剣の感情的な投資を背負ってた。
今日はベッドにいるべきだったかも。
モチがまた首元でくしゃみをした。今度は燃えなかった。くすぐったいだけだった。
クソ。もう惚れてた。
第二章・終




