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第9話 図書室の天敵と?

 放課後の図書室は、静かで、光の入り方が教室と違う。ここにいる間だけは、誰にも見つからずに済む気がしていた。実際には、そうでもなかった。窓際の席は西日が強すぎるので、いつも奥の書架の陰を選んで座っている。今日もそこに落ち着いた。今週の課題図書を借りるついでに、少しだけ時間を潰していくつもりだった。


 参考書の棚の陰から、視線を感じた。顔を上げると、桐島さんが数列先の棚の隙間からこちらを見ていた。目が合うと、彼はすぐに本の背表紙へ視線を戻した。


 しばらくして、足音が近づいてきた。顔を上げると、桐島さんが目の前に立っていた。手に一冊の本を持っている。


「これ、面白いから」


 差し出された。何の脈絡もなく、何の説明もなく。


(本を差し出された……これは何かの取引か……受け取ったら対価を要求されるパターンでは……いや、桐島さんはそういう人ではない気がする……でも判断材料が足りない……)


 考えている間に、体は先に反応していた。声が勝手に出た。


「いらない」


 言った瞬間、しまった、と思った。でも訂正の言葉が続かない。喉が固まったまま、桐島さんの顔だけを見ていた。目を逸らす余裕すらなかった。


 桐島さんは数秒、何も言わなかった。それから、本を引っ込めて、何も言わずに背を向けた。


(……今、何が起きた……ただ怖くて短く答えただけなのに……なぜ桐島さんはあんな顔をして去っていったんだ……)


 しばらくして、山崎さんの声が響いた。図書室にはやや不釣り合いな声量だった。


「蓮、なんか今、顔強張ってなかった?」


「違う」


 桐島さんの返事は短かった。それだけで、山崎さんの追及を止められると思っているらしい。実際には全く止まっていなかった。


「いや、絶対なんかあっただろ。深沢さんと喋ってたし」


「……」


 桐島さんは何も言わず、本のページをめくった。めくった音がやけに大きく響いた。司書の先生が一瞬こちらを見て、また作業に戻った。


 私が棚の向こうを通り過ぎようとしたとき、桐島さんが小さく、独り言のように何かをつぶやくのが聞こえた。


「……今の、目……」


 そこで言葉が止まった。少しの沈黙のあと、また続いた。


「……様なんて、そんな可愛いもんじゃない気がする……」


 言い終えて、桐島さんは自分の口から出た言葉に戸惑っているような顔をして、それきり黙り込んだ。


 何が引っかかっているのか、私には分からなかった。分からないまま、聞かなかったふりをして本棚の陰に戻った。心臓が少しだけ速く動いていた。理由は自分でも説明できなかった。



 その日、図書室で桐島さんと二人きりになる場面が、何度かあった。


 正確に言えば、二人きりになりかけるたびに、私が先に動いていた。彼が近づいてくる気配を感じると、別の棚へ移動する。彼が机に座ろうとすると、私は別の机へ移る。意識してやっているわけではない。体が先に判断している。一度目は自然に見えたと思う。二度目も、まだ偶然で通せる範囲だったはずだ。


 三度目にそれが起きたとき、桐島さんが小さくため息をついたのが聞こえた。


「……なんでまた」


 独り言にしては、少しだけ大きな声だった。私に聞かせるつもりだったのか、それとも本当にただの独り言だったのか、判断がつかなかった。判断がつかないので、また移動した。窓際の閲覧席に移ると、桐島さんはそれ以上追ってこなかった。追ってこないことに、少しだけ拍子抜けした自分がいた。理由は考えないことにした。



 帰り道、星野さんに声をかけられた。


「ちょっと海見てく?」


 断る理由を探す前に、体はもう頷いていた。図書室で使い切った緊張の残りが、まだ肩のあたりに残っている気がした。


 134号線に出ると、夕方の風が少し湿っていた。今日は曇りがちで、海の色もいつもよりくすんでいる。


「今日、桐島とまた目が合ってたよね」


 星野さんが唐突に切り出した。アイスの棒でも咥えていそうな、軽い口調だった。


「……気にしているのではなく、私という存在が桐島さんの論理システムにエラーを起こし続けているのだと思います。本来ならただちに私というエラーの発生源を視界から消去すべきであり、それが最適解なのですが……」


「長い。それ違くない? 普通に興味あるだけじゃん」


「……興味と監視は紙一重です」


 星野さんが噴き出すように笑った。


「深沢さんって面白いね」


(面白い……この人の笑いは悪意がない種類……)


 面白い、と言われることに、まだ慣れていない。悪意のない笑いと、そうでない笑いの区別だけは、最近少しずつつくようになってきた。星野さんのそれは、いつも後者ではない方だった。判定基準はまだ曖昧だが、外したことは今のところない。


 海沿いの道を、二人で少し遠回りして帰った。桐島さんの独り言も、山崎さんのからかいも、歩いているうちに少しずつ輪郭がぼやけていった。何かが引っかかったままではあったけれど、それが何なのかは、今日のところはまだ分からなかった。

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