第8話 山崎さんのパンが呪われていないといいのですが
目が覚めたとき、スマホの画面に「10:47」と出ていた。
(……10時……47……分……)
3秒かけて意味を理解した。
(終わった)
昨夜の燈くんの深夜配信が、気づいたら朝の4時まで続いていた。アーカイブが残ることはわかっていた。でも、リアルタイムのコメント欄の流れは録画されない。「なずなさん」と呼ばれる瞬間は、今この瞬間にしかない。そういう計算が、毎回正しく働く。結果として今、午前の授業を全部溶かした。
急いで制服に着替え、玄関を飛び出した。台所のテーブルに弁当箱が置いてあるのが視界の端をよぎったが、止まる余裕はなかった。母が朝早くから作ってくれていたものだと、電車に乗ってから気づいた。
電車の中で、今日一日の被害を試算した。午前の授業4コマ分の板書が抜ける。担任に捕まる。クラスメイトの視線を浴びる。弁当はある。ただし家の台所に。
試算した結果、全部どうしようもなかった。
教室に入ったのは昼休みの直前だった。
廊下で担任に捕まった。
「遅刻の理由は?」
「体調不良です」
「病院は?」
「……家で休んでいました」
「次からは連絡を入れなさい」
「はい」
担任が行った。廊下に一人になった。教室のドアを開けると、クラスメイトたちが振り返った。何人かの視線が来て、すぐに戻っていった。
(よし……視線の密度が思ったより低い……午前の授業を全部欠席したわりには注目されていない……これは私という掲示板の画鋲の跡のような存在が今日も無事に存在感ゼロを維持できているということであり……)
「深沢さん、体調大丈夫?」
山崎さんが振り返っていた。
(視線の密度が低かったのに、なぜこの人は確実に捕捉している……)
「……はい、もう大丈夫です」
「そっか、よかった」
山崎さんはあっさり前を向いた。
席に着いた瞬間、昼のチャイムが鳴った。
弁当はない。台所のテーブルの上に、ある。
(購買に行くしかないが、購買とは陽キャの社交場であり、私という下駄箱の隅に溜まった埃のような存在が侵入することで、その空間の空気が重くなり、皆さんの食欲が数十パーセント低下する可能性がある……かといってこのまま食べないと午後の授業中に腹音という最悪の自己紹介をクラス全員に届けてしまう……どちらも地獄……詰み……今日は光合成で生きていくしかない……いや私には葉緑体がない……詰んだ……)
机の上に何も出さないまま、ただ座っていた。
「深沢さん、今日弁当忘れた?」
顔を上げると、山崎さんが立っていた。購買のビニール袋を手に持っている。
「……はい」
「これ、どうぞ」
コッペパンを1つ、差し出された。
(え……これは……罠か……いや、この人の顔に罠の気配はない……でもパンを受け取るという行為は、私の運気の低さがパンにまで伝染する可能性があり……この人のパンが私の手を経由することで呪われたパンになってしまうのでは……でも断ったら山崎さんの善意が無駄になる……受け取っても断っても地獄……いや、ここは……)
「……あ、ありがとうございます」
受け取った。5秒かかった。
山崎さんは「いやいや」と言って自分の席に戻った。それだけだった。
隣で星野さんが弁当を開けながら、こちらをちらっと見た。
「山崎、ああいうとこあるよね」
「……あるんですか?」
「うん。さりげなくやって、説明しない」
星野さんがお箸を取りながら言った。
「深沢さんも、ありがとうくらい言えばよかったじゃん」
「言いました。5秒かかりましたが」
「……5秒は長い」
「はい」
星野さんが少し笑った。それ以上は言わなかった。
騒然、という言葉がある。
昼休みが終わる頃には、教室がその状態になっていた。
「深沢さんが山崎からパン受け取ったって本当?」
「見た。直接手渡しだった」
「マジか……」
なぜそうなるのか、全くわからない。私はパンをもらっただけだ。コッペパンだ。マーガリン入りの。
「のぞみ様がついに山崎さんを……」
田中さんが、目に涙を浮かべてスマホを操作していた。何を打ち込んでいるのか、見たくない。
(……そんなことしていない……ただパンをもらっただけ……コッペパンへの感謝がなぜここまで大事になるのか、構造的に理解できない……私のような目立たない生き物への山崎さんの親切心が、なぜ「認定」という言葉で処理されているのか……)
5時間目が始まるチャイムが鳴った。
パンは、普通においしかった。
帰宅すると、夕飯の席で母から言われた。
「お弁当、台所に出しっぱなしだったよ。もったいないから私が食べておいた」
素直に謝った。次からは、玄関を出る前に台所を振り返る習慣をつけようと思った。
夜、燈くんが配信を始めた。
「今日ちょっといいことあった人ー?」
私はコメント欄に打ち込んだ。
「パンをもらいました」
「あ、なずなさん。パン、いいですね。なずなさんにとっていいことってどんなことなんだろ」
燈くんが、少し考えるような声で言った。
(どんなこと……。弁当を忘れて困っていたら、パンをもらった。ただそれだけです。でも……)
コメント欄に打ち込みかけた。「よかったのかどうかわかりません」。消した。
「よかったです」
打ち直した。
「それよかった! なずなさん今日ちょっといい日だったんですね」
燈くんが嬉しそうな声で言った。
(いい日……。遅刻して、弁当を家に置き忘れて、クラスメイトにパンをもらって、田中さんに泣かれた日が、いい日……)
でも、よかった、と打った。それは嘘ではなかった。
燈くんが別のコメントに移った。画面が流れていく。
窓の外、夜の辻堂は静かだった。
パンをもらった、という事実を、もう一度頭の中で繰り返した。山崎さんは何も言わなかった。理由も聞かなかった。ただ差し出して、「いやいや」と言って戻った。
よかったのかどうか、まだよくわからない。




