↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
7/32

第7話 深謀遠慮、という言葉を初めて知った

 朝、教室に入ると、桐島さんと目が合った。


 すぐに視線が外れた。桐島さんは窓の方を向いた。


(……また目が合った。最近、なぜかよく目が合う。偶然なのか、それとも何か理由があるのか……でも理由があったとしても、それが何なのか全くわからない……)


 弁当を机の中にしまいながら、横目で桐島さんを見た。


 ペンが止まった。桐島さんがこちらを見た。


 目が合った。


 私は即座に前を向いた。


(……見られた……。見ていたのを見られた……。観察している人間を観察していたら、その人間に気づかれた……これはどういう状況だ……)


 1時間目のチャイムが鳴った。助かった。



 昼休みの教室に、声が響いた。


 大きくはない。でも、硬い。低い。空気が一瞬変わる種類の声だ。


 声の主は前の方の席にいる男子で、名前は確か桐村か桐原か、桐のつく名前だった気がする。向かい合っている相手は、委員長の桐島さんとは別の、もう少し線の細い男子だ。口論、というほどでもない。でも、軽口でもない。


(殴り合いに発展する……! 私という道端の石ころが、その余波で物理的に粉砕される……いや粉砕されるのはまだいい、粉砕された私の破片が他のクラスメイトに飛散してダメージを与えてしまうことが最大の問題であって……今すぐこの場から光になって窓から逃げるのが最善手……! でも窓は遠い……逃げ場は……ロッカー……!)


 気づいたら、ロッカーの陰にいた。


 壁に背中をつけて、息を潜める。心臓がうるさい。外の声を聞く。


「……昨日の掃除当番、俺一人でやったんだけど」


「え、ちょっと席外してただけじゃん」


「ちょっとじゃないだろ、全然戻ってこなかったじゃん」


「すぐ戻るつもりだったんだって」


「結果的に戻ってこなかったんだよ」


「……わかった、次は」


 声が、途中で止まった。


 間があった。何かが起きた気がしたが、ロッカーの陰からは見えない。


「……ごめん」


 さっきより短い声だった。


 しばらくして、2人の気配が離れた。


 ロッカーの陰から、そっと出た。2人はもう別々の方向を向いていた。片方がこちらをちらっと見た。目が合った。私は反射的に視線を窓に逃がした。


(……2人の会話が途中で止まったのは、もしかして私がロッカーの陰から見ていたのが見えたからでは……? いや、見えていたとしたら普通に不審者扱いされるべきで……というかそれ以前に、殴り合いに発展すると思って逃げたのに、蓋を開けてみたら掃除当番のサボりについての軽口だった……。私は今、掃除当番のために命がけでロッカーに隠れた……)


 自分の席に戻ると、山崎さんが振り返っていた。


「深沢さん、今の見てた?」


「……見てました」


「やっぱり! 深沢さんのあのポジション取り、すごかったよ。2人がヒートアップする前にさっとロッカー側に移動して、場の空気を読んでた」


「あの」


「あのポジション取りだけで、くだらない言い合いを無言の圧で終わらせたんだよな。普通できないよあれ」


(できていません。ただ怖かっただけです。掃除当番の話に全力で怯えた結果です……)


「いや山崎」


 横から星野さんの声が入った。


「それ普通に深沢さんが怖くて隠れただけだと思うんだけど。見てたじゃん、ロッカーの陰でフリーズしてたの」


「そう見える、ってことだよ」


「そう見えるんじゃなくて、そうなんだよ」


「星野、まだ深沢さんの『深謀遠慮』が見えないのか……?」

 

「……え、あ、そうだよね」

 

 星野さんが一瞬、目を泳がせた。反論の言葉を探しているような間があって、結局それ以上は続かなかった。

 

「深謀遠慮って……」

 

 星野さんが顎に手を当てて、少し面白がるような顔になった。


「……ていうかさ、深沢さんに直接聞けばよくない?」


 山崎さんが私の方を向いた。


「深沢さん、あれ計算だった?」


 全員の視線が来た。


「……」


 答えられなかった。答えようとした瞬間、また何かの燃料になる気がして、口が動かなかった。


 沈黙を、山崎さんが受け取った。


「……やっぱりそういうことか」


「違う」と星野さんが言った。「答えてないだけじゃん」


「答えないのも答えだろ」


「それは詭弁だよ」


「深沢さん、どっちでもいいからとりあえず——」


「山崎」


 星野さんの声が、一段低くなった。


「本人が答えたくないなら、それでいいじゃん」


 山崎さんが少し間を置いた。


「……まあ、そっか」


 あっさり引いた。


(星野さん……今、私が答えなかったことを、そのまま守った……言い訳もフォローもせず、「答えたくないならそれでいい」とだけ言った……)



 放課後、廊下を歩いていると、後ろから星野さんが追いついてきた。


「ねえ」


「はい」


「さっき、なんで答えなかったの?」


「……答えると、また燃料になる気がして」


 星野さんが少し間を置いた。


「あー」


 それだけだった。納得したような、呆れたような、どちらとも取れる声だった。


「正解だったかもね」


「……そうですか」


「山崎、『怖かっただけ』って言っても絶対『それが計算なんだよ』って返してくるから」


 星野さんが苦笑した。廊下の窓から、5月の空が見えた。


「……星野さんが言っても、そうでしたね」


「うん。あいつ、なんか信念があるから」


「……悪意はないですよね」


「ないない。それが厄介なんだけど」


 2人で少し笑った。笑ったのが自分でも少し意外だった。


(この人は……ちゃんと見てる。正しいことを言っても通じないことがあると知っていて、それでも最後まで言い続けた。私が答えなかったことも、責めなかった……)


「……さっきは、ありがとうございました」


「別に」


 星野さんは先に歩いていった。その背中が、少しだけ軽そうだった。私も、なぜか少しだけ軽くなった気がした。


 廊下の端で、桐島さんが窓の外を見ていた。


 こちらに気づいた様子はない。窓から差し込む5月の光の中で、何かを考えるような顔をしていた。


「深謀遠慮」という言葉を、私は今日初めて知った。山崎さんが使った時、意味がわからなかった。帰り道で検索した。「深く遠くまで考えをめぐらして、計略を立てること」とあった。


 私がやっていることは、その真逆だ。何も考えていない。怖くて逃げているだけだ。


 桐島さんのペンが止まった。また動いた。


 私は廊下を歩き続けた。



 21時、燈くんの配信が始まった。


 今夜は雑談配信だった。


「今日なんか頑張ったこととかある人ー?」


 私はコメント欄に打ち込んだ。


「黙っていることを頑張りました」


「あ、なずなさん。……黙っていること? それ難しいんですよね、私も苦手で」


 燈くんが笑いながら言った。


(難しかったです……。でも、黙っていてよかったと思いました……)


 コメント欄に「www」を打ち込んだ。


 燈くんが「え、なんで笑ってるの、なずなさん」と言った。裏のなさそうな声だった。


(笑ったのは、山崎さんが「深謀遠慮」と言った時のことを思い出したからです。意味を知ってから改めて考えると、笑える話でもあります……私が「深謀遠慮」……道端の石ころが……)


「www」をもう一度打ち込んだ。今日一番、迷わず動いた指だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。