第7話 深謀遠慮、という言葉を初めて知った
朝、教室に入ると、桐島さんと目が合った。
すぐに視線が外れた。桐島さんは窓の方を向いた。
(……また目が合った。最近、なぜかよく目が合う。偶然なのか、それとも何か理由があるのか……でも理由があったとしても、それが何なのか全くわからない……)
弁当を机の中にしまいながら、横目で桐島さんを見た。
ペンが止まった。桐島さんがこちらを見た。
目が合った。
私は即座に前を向いた。
(……見られた……。見ていたのを見られた……。観察している人間を観察していたら、その人間に気づかれた……これはどういう状況だ……)
1時間目のチャイムが鳴った。助かった。
昼休みの教室に、声が響いた。
大きくはない。でも、硬い。低い。空気が一瞬変わる種類の声だ。
声の主は前の方の席にいる男子で、名前は確か桐村か桐原か、桐のつく名前だった気がする。向かい合っている相手は、委員長の桐島さんとは別の、もう少し線の細い男子だ。口論、というほどでもない。でも、軽口でもない。
(殴り合いに発展する……! 私という道端の石ころが、その余波で物理的に粉砕される……いや粉砕されるのはまだいい、粉砕された私の破片が他のクラスメイトに飛散してダメージを与えてしまうことが最大の問題であって……今すぐこの場から光になって窓から逃げるのが最善手……! でも窓は遠い……逃げ場は……ロッカー……!)
気づいたら、ロッカーの陰にいた。
壁に背中をつけて、息を潜める。心臓がうるさい。外の声を聞く。
「……昨日の掃除当番、俺一人でやったんだけど」
「え、ちょっと席外してただけじゃん」
「ちょっとじゃないだろ、全然戻ってこなかったじゃん」
「すぐ戻るつもりだったんだって」
「結果的に戻ってこなかったんだよ」
「……わかった、次は」
声が、途中で止まった。
間があった。何かが起きた気がしたが、ロッカーの陰からは見えない。
「……ごめん」
さっきより短い声だった。
しばらくして、2人の気配が離れた。
ロッカーの陰から、そっと出た。2人はもう別々の方向を向いていた。片方がこちらをちらっと見た。目が合った。私は反射的に視線を窓に逃がした。
(……2人の会話が途中で止まったのは、もしかして私がロッカーの陰から見ていたのが見えたからでは……? いや、見えていたとしたら普通に不審者扱いされるべきで……というかそれ以前に、殴り合いに発展すると思って逃げたのに、蓋を開けてみたら掃除当番のサボりについての軽口だった……。私は今、掃除当番のために命がけでロッカーに隠れた……)
自分の席に戻ると、山崎さんが振り返っていた。
「深沢さん、今の見てた?」
「……見てました」
「やっぱり! 深沢さんのあのポジション取り、すごかったよ。2人がヒートアップする前にさっとロッカー側に移動して、場の空気を読んでた」
「あの」
「あのポジション取りだけで、くだらない言い合いを無言の圧で終わらせたんだよな。普通できないよあれ」
(できていません。ただ怖かっただけです。掃除当番の話に全力で怯えた結果です……)
「いや山崎」
横から星野さんの声が入った。
「それ普通に深沢さんが怖くて隠れただけだと思うんだけど。見てたじゃん、ロッカーの陰でフリーズしてたの」
「そう見える、ってことだよ」
「そう見えるんじゃなくて、そうなんだよ」
「星野、まだ深沢さんの『深謀遠慮』が見えないのか……?」
「……え、あ、そうだよね」
星野さんが一瞬、目を泳がせた。反論の言葉を探しているような間があって、結局それ以上は続かなかった。
「深謀遠慮って……」
星野さんが顎に手を当てて、少し面白がるような顔になった。
「……ていうかさ、深沢さんに直接聞けばよくない?」
山崎さんが私の方を向いた。
「深沢さん、あれ計算だった?」
全員の視線が来た。
「……」
答えられなかった。答えようとした瞬間、また何かの燃料になる気がして、口が動かなかった。
沈黙を、山崎さんが受け取った。
「……やっぱりそういうことか」
「違う」と星野さんが言った。「答えてないだけじゃん」
「答えないのも答えだろ」
「それは詭弁だよ」
「深沢さん、どっちでもいいからとりあえず——」
「山崎」
星野さんの声が、一段低くなった。
「本人が答えたくないなら、それでいいじゃん」
山崎さんが少し間を置いた。
「……まあ、そっか」
あっさり引いた。
(星野さん……今、私が答えなかったことを、そのまま守った……言い訳もフォローもせず、「答えたくないならそれでいい」とだけ言った……)
放課後、廊下を歩いていると、後ろから星野さんが追いついてきた。
「ねえ」
「はい」
「さっき、なんで答えなかったの?」
「……答えると、また燃料になる気がして」
星野さんが少し間を置いた。
「あー」
それだけだった。納得したような、呆れたような、どちらとも取れる声だった。
「正解だったかもね」
「……そうですか」
「山崎、『怖かっただけ』って言っても絶対『それが計算なんだよ』って返してくるから」
星野さんが苦笑した。廊下の窓から、5月の空が見えた。
「……星野さんが言っても、そうでしたね」
「うん。あいつ、なんか信念があるから」
「……悪意はないですよね」
「ないない。それが厄介なんだけど」
2人で少し笑った。笑ったのが自分でも少し意外だった。
(この人は……ちゃんと見てる。正しいことを言っても通じないことがあると知っていて、それでも最後まで言い続けた。私が答えなかったことも、責めなかった……)
「……さっきは、ありがとうございました」
「別に」
星野さんは先に歩いていった。その背中が、少しだけ軽そうだった。私も、なぜか少しだけ軽くなった気がした。
廊下の端で、桐島さんが窓の外を見ていた。
こちらに気づいた様子はない。窓から差し込む5月の光の中で、何かを考えるような顔をしていた。
「深謀遠慮」という言葉を、私は今日初めて知った。山崎さんが使った時、意味がわからなかった。帰り道で検索した。「深く遠くまで考えをめぐらして、計略を立てること」とあった。
私がやっていることは、その真逆だ。何も考えていない。怖くて逃げているだけだ。
桐島さんのペンが止まった。また動いた。
私は廊下を歩き続けた。
21時、燈くんの配信が始まった。
今夜は雑談配信だった。
「今日なんか頑張ったこととかある人ー?」
私はコメント欄に打ち込んだ。
「黙っていることを頑張りました」
「あ、なずなさん。……黙っていること? それ難しいんですよね、私も苦手で」
燈くんが笑いながら言った。
(難しかったです……。でも、黙っていてよかったと思いました……)
コメント欄に「www」を打ち込んだ。
燈くんが「え、なんで笑ってるの、なずなさん」と言った。裏のなさそうな声だった。
(笑ったのは、山崎さんが「深謀遠慮」と言った時のことを思い出したからです。意味を知ってから改めて考えると、笑える話でもあります……私が「深謀遠慮」……道端の石ころが……)
「www」をもう一度打ち込んだ。今日一番、迷わず動いた指だった。




