第6話 友達になった気がする
放課後の空が、少し橙色を帯び始めていた。
「海見てから帰ろ」
星野さんがそう言って、駅と反対方向に歩き始めた。断る間もなかった。というか、断れる気がしなかった。この人はいつもそうで、話しかけてくる前にもう動いている。
茅波高校から駅に向かうなら、鉄砲道を越えて北へ歩くことになる。今日は星野さんが反対方向、134号線の方へ歩き始めたので、そのままついていった。134号線を渡ると、空が広くなった。建物が低くなる。風の匂いが変わる。
「星野さん、よくここ来るんですか?」
「たまに。気分転換したいとき」
「一人で?」
「一人で」
星野さんが少し考えるような間を置いた。
「誰かと来たのは初めてかも」
(初めて……。この人は一人で海を見に来る人だったのか……それはなんとなくわかる気がする。この人は基本的に一人で完結できるタイプだ。話しかけてくるし、面倒見もいいが、一人でいることを苦にしていない……私と少し似ているかもしれない。似ていない部分の方が圧倒的に多いが……)
「そうですか」
「うん」
それだけだった。でも会話が途切れても、歩くペースは変わらなかった。
潮の匂いがした。
坂を下りると、視界が開けた。
水平線が、夕暮れの光の中にある。
「……綺麗だな、海」
声に出てから気づいた。ため口だった。
「……そうだね」
星野さんが、少し間を置いてから言った。笑いをこらえているような声だった。
(い、いえ……失礼しました……私のようなテクスチャ崩れが海の美しさを認識するなど、海の解像度に申し訳なく……私が見た瞬間に海のクオリティが数段階落ちるのではないかと……しかも今、敬語が解除されていた……なぜ……自分の口が信用できない……)
「戻さなくていいって」
「え」
「ため口。そっちの方がいい」
星野さんは海を見たまま、そう言った。横顔が、夕日の色をしていた。
何も言い返せなかった。
しばらく、2人で海を見ていた。波の音が低く続いている。風が髪を揺らした。
「星野さんは、海が好きなんですか?」
「好きかどうかはわからない。でも見てると落ち着く」
「……茅ヶ崎に住んでいるから?」
「そうかも。昔からここにあったから、特別でもない。でもないと困る感じ」
(ないと困る……。それは好きということでは……いや、星野さんにとってはそういう区別なのかもしれない……)
「深沢さんは?」
「……燈くんの配信が、そういう感じです」
言ってから、少し恥ずかしくなった。
「ないと困る?」
「……はい」
「そっか」
星野さんが短く答えた。笑わなかった。それがよかった。
134号線沿いに、小さなカフェがあった。「SHIO」という名前の、引き戸が木製の店だ。
星野さんが迷わず引き戸を開ける。木の匂いがした。カウンターが4席、小さなテーブルが2つ。客は他にいなかった。
「星野さんの行きつけなんですか?」
「来る。落ち着くから」
注文を終えて、向かい合って座った。春の日が傾いて、窓から斜めに光が入っている。
しばらく、どちらも何も言わなかった。でも沈黙が重くなかった。店の中に、かすかに音楽が流れていた。
「深沢さんって、前の学校でも友達いなかったの?」
唐突な質問だった。でも嫌な感じはしなかった。
「……いました。クラスに1人」
「今も連絡取ってる?」
「……ほとんど」
「ほとんど、ってどっち」
「取っていない方に近いです」
星野さんが少し考える顔をした。
「なんで?」
「……高校が変わったら、自然にそうなりました」
「寂しくない?」
(寂しい……? 寂しいという感情を、私が持っているかどうか……持っているとしたら、それを認識する機会がなかっただけなのか……あるいは最初から期待していなかったから、なくなっても寂しくなかったのか……)
「……よくわかりません」
「そっか」
星野さんはそれ以上聞かなかった。カップをひとくち飲んで、窓の外を見た。
「私も、中学の友達とはほぼ連絡取ってない」
「……星野さんも?」
「うん。向こうはLINEしてくるけど、返すの面倒で」
「……面倒ですか?」
「なんか、話が続かないんだよね。高校入ってから。向こうの話を聞いて、こっちの話をして、それだけで終わる感じ」
星野さんが少し視線を落とした。
「深沢さんと話す方が楽」
(楽……。私と話す方が楽……? 私のような不運の温床との会話が「楽」として分類されている……これは評価なのか……評価だとしたら何の評価なのか……)
「……なんでですか?」
「なんでだろ」
星野さんが少し首を傾けた。本当にわからなそうな顔だった。
「深沢さんが変なこと言うから、かな。予測できないから飽きない」
「変なこと……」
「褒めてる」
そう付け加えてから、星野さんはまたカップを持った。
「あのさ」
星野さんがカップを両手で包みながら言った。
「私のこと、敬語じゃなくていいよ」
「……え」
「友達じゃん」
(友達……? 私に……友達という概念が……これは罠か新手の罰ゲームか……いや、この人が仕掛けるタイプには見えない……でも油断は禁物……まだ友達認定フラグの真偽判定には至っていない……もう少しデータを……)
「……そうなの?」
声に出たのは、それだけだった。
「なってるじゃん、もう」
星野さんが少し笑った。馬鹿にする笑い方ではない。呆れてもいない。ただ、当たり前のことを言っているような顔だった。
窓の外、街灯がひとつ灯った。
私はカップを持ったまま、何も言わなかった。言葉が見つからなかったというより、言葉を探す前に何かが先に動いてしまった感じがした。
喉のあたりが、少し詰まった。
カフェを出ると、空はもう暗くなっていた。134号線沿いを駅の方に向かって歩く。車のライトが通り過ぎていく。
「遅くなったね」
「……すみません」
「謝らなくていいって。私が誘ったんだから」
星野さんが少し先を歩きながら言った。
「また来ようよ、SHIO」
「……いいんですか?」
「何が?」
「また、誘っていただいて」
星野さんが振り返った。少し呆れたような顔をしていた。
「友達だって言ったじゃん」
「……まだ検証中です」
「……」
星野さんが前を向いた。少し間があった。
「そういうとこが、予測できないんだよね」
声に笑いが混じっていた。怒っていない。それだけはわかった。
帰りの電車の中、イヤホンをつけずに窓の外を見ていた。
夜の茅ヶ崎が流れていく。低い屋根と、街灯と、たまに見える海側の暗さ。
友達、という言葉を、頭の中で繰り返した。
繰り返すたびに、なぜか少し落ち着かなくなった。うれしいのか怖いのかよくわからない種類の落ち着かなさだった。
(友達……。中学の時も、1人だけいた。でもその子は私に話しかけてきた理由を最後まで教えてくれなかったし、私も聞かなかった。高校が変わって、自然に連絡が途絶えた。寂しかったのかどうか、今でもよくわからない)
(星野さんは……「向こうの話を聞いて、こっちの話をして、それだけで終わる」と言っていた。今日の私たちの会話は、それと違った気がする。違ったのかどうか、まだよくわからないが……)
電車が駅に着いた。ホームに降りると、潮の匂いがうっすら残っていた。
帰宅すると、リビングでこうきがコントローラーを置いたところだった。
「姉ちゃん、遅かったね」
「……ちょっと遠回りして帰った」
「誰かと?」
「……星野さんと」
「へえ」
こうきがこちらを見た。いつもの「深掘りしない」目ではなく、少しだけ違う目だった。
「友達?」
「……友達に、なった気がする」
「気がする、じゃなくてなったんだよ」
「……まだ検証中」
「姉ちゃんそれいつも言うよね」
こうきはそれだけ言って、またコントローラーを拾った。ゲームの音が再開した。
私は自室に向かいながら、「まだ検証中」という言葉を自分で少し可笑しいと思った。
可笑しいと思えたのは、たぶん今日が初めてだった。
21時、燈くんの配信が始まった。
今夜はゲーム実況だった。苦手なステージらしく、開幕から悲鳴に近い声を上げている。
「うわ待って待って、こっちから来るの!?」
コメント欄が「www」で埋まった。私も打ち込んだ。
「あ、なずなさん来てくれてた。ありがとうございます〜」
燈くんがゲームを続けながら言った。
私はコメント欄に打ち込んだ。
「今日、友達ができた気がします」
「え、なずなさん! 友達できたんですか、やったー!」
燈くんが本当に嬉しそうな声で言った。ゲームのキャラクターが画面の外に落ちているのに、それどころではなさそうだった。
(気がする、と書いたんですが……でも……)
コメント欄に「多分」と打ち込みかけて、消した。
「気がする、ではなく、できました」
打ち直した。
「それ! なずなさんらしくない! いいことじゃないですか!」
燈くんが笑いながら言った。その笑い声が、イヤホンの奥に広がった。
(らしくない……。でも、今日はそれでいい気がした)
ゲームキャラクターが復活して、燈くんが「よし!」と言った。コメント欄がまた流れていく。私はその流れの中に溶け込みながら、今日の海の色を思い出した。夕暮れの水平線と、星野さんの横顔と、喉のあたりが少し詰まった感覚。
まだ検証中だ。でも今夜は、それでよかった。




