第5話 のぞみ様、爆誕
朝のホームルームが終わった瞬間、担任が言った。
「今日の日直、プリント配って」
日直は私だった。
(……なぜ……なぜ今日なんだ……。日直というシステムは出席番号順に回ってくるものであり、今日が私の番であることは数週間前から計算できたはずで……計算していなかった私が悪い……)
手元の紙の束を見た。B4サイズ、40枚強。クラス全員分。
(プリントを配るという行為は、クラス全員との物理的接触が発生するイベントだ。私という不運伝播端末がクラス全員に直接コンタクトすることで、全員の今日の運気を一括で引き下げてしまう……言うなれば大規模な呪いの頒布イベント……受け取った全員が今日中に何らかの小不運に見舞われるかもしれない……皆さんに事前に免責事項を読んでいただきたい……「本プリントは深沢のぞみの手を経由しております。受け取り後に生じた不運についていかなる責任も負いかねます」……)
「深沢、早く」
担任に言われた。動くしかない。
作戦はひとつだった。できる限り速く。音もなく。配り切って、即座に消える。
立ち上がった。
一列目から順番に動く。視線を上げない。余計な接触をしない。「はい」も「どうぞ」も言わない。ただ置く。次へ。置く。次へ。
1分もかからなかったと思う。
席に戻った。紙の束がなくなっていた。
「……すごくない?」
後ろの席から声が聞こえた。
「え、何が」
「深沢さんのプリント配り。見てた? 動きが無駄ゼロだった」
山崎さんだった。前の席に半身を向けて、誰かと話している。
「速かったよね」
「速いとかじゃなくて、動線が完璧なんだよ。最短ルートで全員に届けてた。あれ絶対、日頃から計算してる」
(計算していない。ただ早く終わらせたかっただけだ。呪いの頒布イベントを最小時間で完遂したかっただけで、動線とか最短ルートとか、そういう上等な概念は一切搭載していない……)
「深沢さんって、誰にも気を遣わせないんだよな。なんかすごい」
訂正したかった。でも、訂正するためには声を出す必要がある。声を出すと、その声がまた何かの燃料になる。
私は黙って、教科書を机の上に出した。
山崎さんの話し声が続いていた。聞いていないふりをしながら、耳だけが拾ってしまう。
「いや本当に、あの動き。俺サッカーやってるけど、あのポジショニングの感覚は本物だよ。無意識でできてるのがすごい」
「サッカーと関係ある?」
「あるよ。空間把握能力の話だよ」
「……それはさすがに無理があると思う」
別の誰かが言った。山崎さんは「でもさ」と続けた。
1時間目が始まるチャイムが鳴った。
山崎さんの声が止んだ。助かった、と思った。でも「空間把握能力」という言葉が、授業中もなぜか頭の隅に残った。
3時間目の後の休み時間だった。
廊下に出ようとしたところで、背後に気配がした。
振り返ると、田中さんが立っていた。スマホを両手で持ったまま、少し上目遣いで、こちらを見ている。
(田中さんが……近い……今まで遠くから観察するタイプだったのに……距離が縮まっている……これは接触イベントの予兆……?)
「……」
田中さんが口を開いた。閉じた。また開いた。
「……の、のぞみ様……!」
教室が、一瞬しんとした。
様。
私に、様。
(様……? 私に……様……? 私のような道端の石ころに『様』という敬称を付与するなど、日本語の用法として根本的に誤っており、今すぐ文部科学省に報告したいレベルの言語的異常事態であって、この場で即刻訂正しなければ日本語教育の未来に深刻な影響を……)
「え、様って」
横から声が飛んできた。星野さんだった。吹き出すのをこらえているような顔で、田中さんを見ている。
「田中、お前も気づいたか?」
山崎さんが、なぜか低い声で言った。
「深沢さんには……そう呼ばれるだけの何かがある」
「いや、待って。プリント配るの速いのと『様』は別軸じゃない?」
星野さん!やはりあなたは神だ!私は心の中でそう叫んだ。これで訂正される。されるはずだった。
「別軸だからこそ繋がるんだって。速さと威厳、両方兼ね備えてるってことだろ」
「威厳の話、誰もしてないんだけど」
「田中はしてる」
田中さんは無言でこくこくと頷いた。
「……うん、まあ」
星野さんはそれだけ言って、小さく肩をすくめた。
訂正、しなかった。
(星野さん……? 今の、「まあ」ってどういうことですか……「まあ」じゃないんですよ……「様」はおかしいって言ってください……言ってくれないんですか……)
田中さんは私の顔をちらっと見てから、素早くスマホを取り出した。何かを打ち込んでいる。
(……何を送っているんだ……まさか今の「様」を誰かに報告している……? それはつまり私という存在が「様」付きで他者のタイムラインに流れていくということであって……阻止したいが阻止する手段がない……詰み……)
私はそっと、田中さんの横をすり抜けた。
廊下に出てから、少し息をついた。
5月の廊下は、窓から差し込む光が明るい。端の方のロッカーの陰に入って、壁に背中をつける。ここが一番気配の薄くなれる場所だと、最近わかってきた。
(「様」……。私ののぞみ、に「様」がついた……。のぞみ様……。語感がおかしい。のぞみ様。全くおかしい。文部科学省だけでなく、国語審議会にも報告が必要なレベルだ……)
「何してんの?」
星野さんが廊下に出てきた。
「……気配を消していました」
「ロッカーの陰で?」
「ここが一番薄くなれるので」
星野さんが少し間を置いた。
「……それ、誰かに見られてたら逆に目立つからね」
「……」
気づいていなかった。
「行こ、次の授業始まるよ」
星野さんが先に歩き始めた。私は壁から背中を離して、後を追った。
昼休み、桐島さんが廊下側の窓際に立っていた。
視線が来た。窓の外に戻った。
(……あの人も書いている。また書いている。田中さんも今日スマホで何かを打ち込んでいた。今日この教室で、私に関係することを記録している人間が確実に2人いる……)
桐島さんのノートの表紙が、角度によって少し見えた。何か書いてある。遠くて読めない。
読まない方がいい気がした。
弁当を食べながら、窓の外を見ていた。5月の空は青くて、少し眩しかった。
桐島さんがペンを止めた。何かを読み返している。また書いた。
(……何を書いているんだろう。「深沢のぞみ、今日もよくわからない行動をした」とでも書いているのだろうか……でも桐島さんが私のことをよくわからないと思っているなら、観察を続ける理由もよくわからない……私もよくわからない……)
お互いよくわからない、という点では一致しているのかもしれない。
そう思ったら、少しだけ可笑しくなった。可笑しいと思ったことが、また少し可笑しかった。
放課後、星野さんが「遠回りして帰ろ」と言った。
「……はい」
歩きながら、星野さんが言った。
「今日、田中が……」
「……様、と言われました」
「うん、聞こえてた」
「……訂正しなかったですよね」
星野さんが少し間を置いた。
「だって間違ってないし」
「間違っています。道端の石ころに様はつきません」
「深沢さん、石ころじゃないから」
言い方がさっぱりしていた。反論の余地を与えない言い方だった。
(……私という目の毒の被害者がまた一人増えてしまったということです……今すぐ光になって窓から逃げたい……というかこの人は今、なんでもないことのように「石ころじゃない」と言ったが、それは私への何らかの評価を含んだ発言であって……でもその評価の根拠が……)
「長い」
「……まだ言っていません」
「顔に出てた」
駅に向かう道を、少し遠回りして歩いた。春の午後の風が、ゆっくり通り過ぎていく。
「普通にいいじゃん、慕われてるんだから」
星野さんはそう言いながら、道沿いの自動販売機に向かった。缶コーヒーのボタンを迷わず押す。
私はその背中を見ながら、何も言い返せなかった。
慕われている、という言葉の意味を、どう処理すればいいのかわからなかった。
「深沢さんは? 何か飲む?」
「……いいです」
「遠慮しなくていいのに」
「遠慮じゃないです。お腹が冷えると午後の集中力が下がるので」
「……そういう理由なんだ」
星野さんが缶コーヒーのプルタブを引きながら、少し笑った。
「なんかそういうとこ、面白いよね深沢さん」
「……面白い?」
「うん。普通そんな理由言わないから。聞かれてもいないのに」
(聞かれていない……。確かに聞かれていなかった……。なぜ言ったのか……反射的に出てしまった……私の口は信用できない……)
「……面白いとは思っていません」
「そこも面白い」
星野さんは缶コーヒーをひとくち飲んで、また歩き始めた。
私はその横を、少しだけ早足でついていった。
21時、燈くんの配信が始まった。
今夜は雑談配信だった。リスナーのコメントを拾いながら、ゆるやかに話している。
「今日なんか変なことあった人ー?」
私はコメント欄に打ち込んだ。
「様、と呼ばれました」
「あ、なずなさん。……様? なずなさん、偉くなったんですか」
燈くんが笑いながら言った。屈託のない反応だった。
(偉くなっていません……ただ日本語の用法を間違えた人が一人いただけです……でも……)
(でも、今日一日で「石ころじゃない」と言われて、「面白い」と言われて、「様」と呼ばれた。どれも私への評価として処理しきれていないが……この画面の中だけは「なずなさん」として、ただそれだけとして、呼ばれている……)
燈くんが別のコメントに移った。画面が流れる。
私はイヤホンの奥でその声を聞きながら、「様」という言葉と「石ころじゃない」という言葉を、交互に思い返した。どちらも処理できないまま、でも、なぜか今日はそれが少しだけ悪くなかった。
コメント欄に「www」を打ち込んだ。
燈くんが笑った。画面の向こうで、コメントを拾いながら笑っている。私は今日一日で受け取った言葉を全部、ひとまず保留にしておくことにした。処理は後でいい。今夜は、この声を聞いているだけでいい。




