第10話 保健室で、伝説が生まれた
体育の授業が終わった。
今日はシャトルランだった。クラス全員が見ている前で、一定のリズムで走り続ける。私は序盤から周囲の視線が気になりすぎて、ペースがばらついた。記録は中の下だった。それよりも、20分間ずっと「見られている」という感覚が頭にこびりついていた。
更衣室で制服に着替えながら、頭の奥がじわじわと痛いことに気づいた。運動が嫌いというより、自分が何かをしている姿を他者に見られることが苦手だ。見られている間ずっと、全身で余計な存在感を発していた気がして、それが頭痛として出てきたのかもしれない。
「深沢さん、顔色悪いよ」
星野さんが言った。
「……少し頭が痛いです」
「保健室行ってきなよ。次は自習だから」
「……はい」
保健室は、3階の廊下の端にある。行ったことはなかった。行く必要がなかったからだ。頭痛でここまで来たのも初めてだった。
引き戸を開けた瞬間、足が止まった。
先客がいた。クラスの、というより学年の中でも名前が知られている問題児グループのリーダー格だった。ベッドの縁に浅く腰かけ、こちらを一瞥もせずスマホをいじっている。制服のシャツのボタンが上から二つ開いていた。
(終わった……保健室という密室に、私という忘れ物置き場の隅っこのような存在が侵入してしまった……しかも先客は、普段から周囲を威圧している人物……私がここにいることで、保健室の空気が二重に重くなる……今すぐ頭痛ごと消えてなくなるべきでは……いっそ床のワックスの匂いに溶けて拡散したい……でも頭が痛い……)
足がすくんで、それ以上進めなかった。引き戸を開けたまま、入り口で立ち尽くす形になった。頭痛のことも、何のために来たのかも、その瞬間には頭から抜け落ちていた。ただ動けない、という一点だけが世界の全部になっていた。
数秒の沈黙があった。永遠のように長く感じたが、実際には10秒もなかったと思う。
「……な、なんだよ」
先に音を上げたのは、向こうだった。舌打ちに近い声を残して、荷物をつかんで保健室を出ていった。すれ違いざま、こちらを見もしなかった。
保健の先生がベッドのシーツを直しながら、こちらを振り返った。
「あら、深沢さん」
保健の先生が顔を出した。
「どうしたの、入ってきてよ」
「……はい」
ベッドに横になって、冷たいおしぼりをもらった。頭痛は少しずつ引いていった。
「助かったわ、さっき」
先生がカーテン越しに言った。
「あの子たち、いつもああやって保健室にたまっててね。なかなか出ていかないんだけど、今日は自分から出てったから」
「……そうですか」
「深沢さん、何かした?」
「……何もしていません」
「そう」
先生が少し笑った気がした。
私はおしぼりを額に乗せたまま、天井を見ていた。
(……何もしていない。ただ固まっていただけだ。動けなかっただけだ)
少し経って、頭痛が引いた。先生にお礼を言って、保健室を出た。
廊下に出ると、山崎さんが壁にもたれて待っていた。今の一部始終を見ていたらしい。
「深沢さんって、ああいうときも動じないんだね……」
(動じていた……というか、動けなかっただけです……足がすくんで入れなかっただけで、あれは威圧でも何でもなく、ただの石ころが入り口で固まっていただけであり……)
言葉にする前に、廊下の少し先で足音が止まった。振り返ると、田中さんが立っていた。目を見開いたまま、こちらを見ている。
「……様とか、そういうレベルじゃない……これは……魔王だ……!」
声は小さかったが、廊下によく通った。近くにいた何人かが振り返った。
「え、様じゃなくて魔王?」
「たしかに、あれは様呼びで済む器じゃない」
誰かがスマホを構えているのが見えた。何を撮っているのか、確認する勇気はなかった。
昼休みが終わる頃には、クラスのグループチャットで呼び方が変わっていた。
「深沢さんはもう『様』ってレベルじゃないよ……あれはもう、『魔王』だ」
山崎さんが、確認するようにそう言った。誰かがスタンプを押した。それだけで、決定事項になったらしかった。
(様から魔王に昇格した……? 役職が上がっている……なぜ……私はただ怖くて動けなかっただけなのに、なぜか出世している……おかしい……人事評価の基準がどこかで根本的に間違っている……)
5時間目が始まっても、頭の中はまだそのことでいっぱいだった。ノートに書き取った文字が、あとで見返すと半分くらい意味不明だった。
放課後、星野さんに「ちょっと海見てく」と誘われた。断る理由を探す前に、もう歩き出していた。今日という日を、誰かと一緒に処理してもらいたい気持ちが、どこかにあったのかもしれない。
134号線に出ると、風が少し強かった。波の音が普段より大きく聞こえる気がした。
「今日の保健室の件、クラス中で話題になってるよ。『様』から『魔王』に格上げされてる」
「……私はただ足がすくんで固まっていただけです」
「だよね」
星野さんが笑った。
「でもまあ、魔王は言い過ぎだよね」
(言い過ぎです……断固として……)
「でも、田中的には最大の褒め言葉なんだと思うよ」
波が来た。少し遠くで砕けた。
繰り返すたびに、どうしても可笑しくなった。可笑しいと思っている自分も、少し可笑しかった。
「魔王って、どんなイメージ?」
聞いてから、少し驚いた。自分から話しかけた。
「え?」
星野さんがこちらを見た。
「魔王のイメージが、です」
「なんか急に」
「……田中さんが言った言葉なので、どういう意味で使ったのか気になりました」
星野さんが少し考えた。
「強くて、周りを圧倒して、誰も逆らえない感じ、じゃない?」
「……それは私ではないです」
「田中的にはそうなんだと思うよ」
波がまた来た。今度は少し大きかった。
「……魔王、ですか」
「深沢さんは何だったらいい?」
「……空気中のチリです」
「最悪じゃん」
星野さんが笑った。私も少し笑った。
帰り道、鉄砲道を歩きながら、「魔王」という言葉をもう一度頭の中で繰り返した。やっぱり可笑しかった。でも、不思議と嫌ではなかった。




