第11話 聖域が汚染されました(屋上発覚事件)
屋上は静かだった。
フェンスの向こうに、海が見える。空が広い。風が来るたびに潮の匂いがした。
ここを見つけたのは入学から3週間後のことだ。昼休みに迷い込んで、誰もいないことを確認して、そのまま居着いた。教室でも廊下でもない場所。誰も話しかけてこない場所。空と海と風だけがある場所。
聖域、と呼んでいた。自分の中だけで。
脳内で燈くんの新曲を再生しながら、フェンスに背中をもたせかけた。先週の配信でフルサイズが解禁されたばかりの曲だ。まだ公式の音源はない。でも耳で覚えているから、大体は再生できる。サビのメロディーが、風の音に重なった。
静かだった。今日の昼休みの中で、唯一まともに息ができている時間だった。
「あ、ここにいたんだ」
声がした。
(……声がした)
振り返ると、山崎さんが屋上のドアから顔を出していた。
(……終わった……終わった終わった終わった……私が唯一の安全地帯として確保していた屋上という領域に、一般人という名の高エネルギー体が侵入してきた……この屋上は今後永遠に『山崎さんが来た場所』というタグが付与されることになり、もはや聖域としての機能を完全に喪失した……今すぐ屋上ごと記憶からデリートしたい……いや屋上は消せない……私の記憶を消す方が早い……でも私の記憶を消すと燈くんの新曲の記憶も消える……本末転倒……詰み……)
「眺め、いいね」
山崎さんがフェンスの横に来て、海を見た。悪気がない。それが一番困る種類の侵入だった。
「深沢さんもよく来るの?」
「……たまに」
「俺も探してたんだよね、こういう場所。教室うるさいときあるじゃん」
(……うるさいと思っているのか……私はてっきり山崎さんは教室の中心にいる人だと……)
「……そうなんですか」
「そうだよ。毎回あのテンションじゃさすがに疲れる」
山崎さんが笑いながら言った。それは初めて聞く話だった。
山崎さんがフェンスの横に座った。私も、少し離れた位置にいた。
「海、近いね。この学校」
「……そうですね」
「茅ヶ崎って、どこからでも海感じるよね」
「……1号線より南はそうかもしれません」
「詳しいじゃん」
「……星野さんに教わりました」
山崎さんが少し笑った。
「星野、地元なんだっけ」
「……そうです」
会話が途切れた。でも山崎さんは立ち上がらなかった。私も動かなかった。それが少し不思議だった。この人はいつも動いている。でも今は、ただ海を見ていた。
風が来た。
強い風だった。目に何かが入った。
(……痛い……砂か何かが……目が……開けられない……)
涙が出た。痛くて出た。指で拭こうとしたが、こすると余計に痛い。目を細めたまま、じっとしていた。
「……深沢さん、泣いてるの?」
山崎さんが振り向いた。
「……」
違う。砂が入っただけだ。でも声が出なかった。首を横に振った。
山崎さんが少し黙った。
何も言わなかった。立ち上がりもしなかった。ただ、前を向いた。
(……なんだろう、この人は……からかうでも心配するでもなく、ただ前を向いて、黙っている……「泣いてるの?」と聞いておいて、それ以上追わない……この人がそういう人だとは、思っていなかった……)
目から砂が出た。涙と一緒に出た。視界が戻ってきた。
「……砂が入っただけです」
「そっか」
山崎さんが短く言った。それだけだった。こちらを見なかった。海を見たままだった。
チャイムが鳴った。
「行かなきゃ」
山崎さんが立ち上がった。ドアに向かって歩いていく。
「深沢さんも来る?」
「……少ししたら行きます」
「わかった」
山崎さんが屋上を出た。ドアが閉まった。
また静かになった。
でも、さっきとは少し違う静かさだった。
(……あの人は……神話とか魔王とか、そういう話をしなかった……ただ「そっか」と言って、前を向いた……あの5分間、私は一度も「石ころ」にも「曇り空の発生源」にもならなかった。ただ隣にいた。それだけだった)
風がまた来た。今度は目を細めて受けた。
屋上のドアを見た。閉まったままだった。
(……聖域が汚染された、と思っていたのに……なんだろう、これ)
海が光っていた。脳内の燈くんの新曲が、もう一度最初から流れ始めた。
チャイムが鳴った。今度は授業開始のチャイムだ。立ち上がって、ドアに向かった。
屋上を出る前に、もう一度だけ海を見た。
聖域かどうかは、もうよくわからない。でも、まだここに来る気がした。
夜、燈くんの配信を見ながら、今日のことを思い返した。
保健室で固まったこと。山崎さんが「そっか」と言ったこと。目に砂が入って、涙が出たこと。
どれも大したことではない。でも、コメント欄に打ち込もうとして、やめた。
うまく言葉にならなかった。それだけだった。




