↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
11/32

第11話 聖域が汚染されました(屋上発覚事件)

 屋上は静かだった。


 フェンスの向こうに、海が見える。空が広い。風が来るたびに潮の匂いがした。


 ここを見つけたのは入学から3週間後のことだ。昼休みに迷い込んで、誰もいないことを確認して、そのまま居着いた。教室でも廊下でもない場所。誰も話しかけてこない場所。空と海と風だけがある場所。


 聖域、と呼んでいた。自分の中だけで。


 脳内で燈くんの新曲を再生しながら、フェンスに背中をもたせかけた。先週の配信でフルサイズが解禁されたばかりの曲だ。まだ公式の音源はない。でも耳で覚えているから、大体は再生できる。サビのメロディーが、風の音に重なった。


 静かだった。今日の昼休みの中で、唯一まともに息ができている時間だった。



「あ、ここにいたんだ」


 声がした。


(……声がした)


 振り返ると、山崎さんが屋上のドアから顔を出していた。


(……終わった……終わった終わった終わった……私が唯一の安全地帯として確保していた屋上という領域に、一般人という名の高エネルギー体が侵入してきた……この屋上は今後永遠に『山崎さんが来た場所』というタグが付与されることになり、もはや聖域としての機能を完全に喪失した……今すぐ屋上ごと記憶からデリートしたい……いや屋上は消せない……私の記憶を消す方が早い……でも私の記憶を消すと燈くんの新曲の記憶も消える……本末転倒……詰み……)


「眺め、いいね」


 山崎さんがフェンスの横に来て、海を見た。悪気がない。それが一番困る種類の侵入だった。


「深沢さんもよく来るの?」


「……たまに」


「俺も探してたんだよね、こういう場所。教室うるさいときあるじゃん」


(……うるさいと思っているのか……私はてっきり山崎さんは教室の中心にいる人だと……)


「……そうなんですか」


「そうだよ。毎回あのテンションじゃさすがに疲れる」


 山崎さんが笑いながら言った。それは初めて聞く話だった。


 山崎さんがフェンスの横に座った。私も、少し離れた位置にいた。


「海、近いね。この学校」


「……そうですね」


「茅ヶ崎って、どこからでも海感じるよね」


「……1号線より南はそうかもしれません」


「詳しいじゃん」


「……星野さんに教わりました」


 山崎さんが少し笑った。


「星野、地元なんだっけ」


「……そうです」


 会話が途切れた。でも山崎さんは立ち上がらなかった。私も動かなかった。それが少し不思議だった。この人はいつも動いている。でも今は、ただ海を見ていた。


 風が来た。


 強い風だった。目に何かが入った。



(……痛い……砂か何かが……目が……開けられない……)


 涙が出た。痛くて出た。指で拭こうとしたが、こすると余計に痛い。目を細めたまま、じっとしていた。


「……深沢さん、泣いてるの?」


 山崎さんが振り向いた。


「……」


 違う。砂が入っただけだ。でも声が出なかった。首を横に振った。


 山崎さんが少し黙った。


 何も言わなかった。立ち上がりもしなかった。ただ、前を向いた。


(……なんだろう、この人は……からかうでも心配するでもなく、ただ前を向いて、黙っている……「泣いてるの?」と聞いておいて、それ以上追わない……この人がそういう人だとは、思っていなかった……)


 目から砂が出た。涙と一緒に出た。視界が戻ってきた。


「……砂が入っただけです」


「そっか」


 山崎さんが短く言った。それだけだった。こちらを見なかった。海を見たままだった。


 チャイムが鳴った。


「行かなきゃ」


 山崎さんが立ち上がった。ドアに向かって歩いていく。


「深沢さんも来る?」


「……少ししたら行きます」


「わかった」


 山崎さんが屋上を出た。ドアが閉まった。


 また静かになった。


 でも、さっきとは少し違う静かさだった。


(……あの人は……神話とか魔王とか、そういう話をしなかった……ただ「そっか」と言って、前を向いた……あの5分間、私は一度も「石ころ」にも「曇り空の発生源」にもならなかった。ただ隣にいた。それだけだった)


 風がまた来た。今度は目を細めて受けた。


 屋上のドアを見た。閉まったままだった。


(……聖域が汚染された、と思っていたのに……なんだろう、これ)


 海が光っていた。脳内の燈くんの新曲が、もう一度最初から流れ始めた。


 チャイムが鳴った。今度は授業開始のチャイムだ。立ち上がって、ドアに向かった。


 屋上を出る前に、もう一度だけ海を見た。


 聖域かどうかは、もうよくわからない。でも、まだここに来る気がした。


 夜、燈くんの配信を見ながら、今日のことを思い返した。


 保健室で固まったこと。山崎さんが「そっか」と言ったこと。目に砂が入って、涙が出たこと。


 どれも大したことではない。でも、コメント欄に打ち込もうとして、やめた。


 うまく言葉にならなかった。それだけだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。