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第12話 聖域喪失の夜と、消えなかった一文

(……聖域が……失われた)


 帰宅してから、ずっとそのことを考えていた。


 電車の中でも考えていた。駅から家まで歩く間も考えていた。山崎さんが来て、5分ほど海を見て、チャイムで帰った。それだけのことだ。屋上は今もそこにある。


 でも何かが変わった。あの5分間の前と後で、屋上の意味が少し違うものになってしまった。


 そういえば今日の昼休み、廊下で桐島さんと目が合った。桐島さんは何か言いかけて、やめた。最近、そういうことが増えている気がする。何を言おうとしているのか、まだわからない。


「なんか今日は特に死んだ顔してる」


 リビングから通りかかったこうきが言った。コントローラーを持ったままだった。


「……聖域が侵略された」


「どこの」


「……屋上」


「学校の?」


「……はい」


 こうきが少し考えた。


「誰に?」


「山崎さん、という人に」


「悪い人?」


「……悪くはないです。それが問題です」


 こうきが「ふーん」と言って、画面に視線を戻した。少し間があった。


「……燈くんの配信は?」


「今夜21時から」


「じゃあ大丈夫だ」


 それだけ言って、リビングに戻っていった。ゲームの音が再開した。


 こうきはいつもそうだ。深掘りしない。でも必ず、一番重要なことだけ確認する。


 私は自室に入った。


 制服を脱いで、部屋着に着替えた。弁当箱を洗って、明日の用意をした。どれもいつも通りの動作だったが、手が自動で動いている間、頭の中では屋上の風景が繰り返し再生されていた。


 夕飯の時間になった。母が用意したものを食べた。こうきがゲームを一時中断して向かいに座った。テレビがついていた。何も話さなかった。それがいつも通りだった。


 自室に戻ってから、21時まで少し時間があった。


 スマホを開いて、燈くんの過去配信アーカイブを流した。先週の深夜配信の残り部分だ。でも今夜は映像があまり目に入らなかった。音だけ聞いていた。



 21時になった。


 イヤホンをつけ、画面を開く。燈くんはゲーム実況の途中だった。難しそうなステージで、しきりに「あ」「あー」と言っている。


「あー! また死んだ〜! なずなさん、見てた?」


 燈くんが笑いながら言った。


 私はコメント欄に打ち込んだ。


「見てました」


「恥ずかしい〜(笑) なずなさんに見られてた」


(……「なずなさん」……また呼んでくれた……この人は私が画面の前にいることを、ちゃんと認識している……現実では私という背景グラフィック崩れが空気になることすら、なぜかうまくいかないのに、ここでは確かに私は「なずなさん」として存在できている……ここが私の本来の解像度だ……)


 燈くんが次のステージに進んだ。コメント欄が流れていく。


 私はイヤホンの奥でその声を聞きながら、今日の屋上を思い返した。


 山崎さんが「そっか」と言って前を向いたこと。チャイムが鳴るまで余計なことを何も言わなかったこと。


 コメント欄に打ち込みかけた。


「今日、山崎さんが隣に座ってきました」


 指が止まった。


(……何を打ち込もうとしているんだ私は。これはどういう情報であり、なぜ燈くんに伝えようとしているのか。今すぐキャッシュをクリアします……)


 消した。


 でも、打ち込もうとした事実は消えなかった。


 燈くんが「よし!」と言った。ステージをクリアしたらしい。コメント欄に「おめでとう」が流れた。私も打ち込んだ。「おめでとうございます」


「ありがとうございます〜! なずなさんも見ててくれてたんですね」


 燈くんが笑った。


(見ていました。でも今日は画面にあまり集中できていませんでした。ごめんなさい)


 打ち込まなかった。


 消えなかった一文のことを、もう少しだけ考えてから、イヤホンの音量を少し上げた。窓の外、夜の茅ヶ崎は静かだった。


(……山崎さんが隣に座ってきた、というのは、そんなに特別なことではない。屋上にいたから、隣に来た。ただそれだけだ。伝える必要もない情報だ。なのになぜ打ち込もうとしたのか……)


 燈くんの声が続いていた。次のステージに入ったらしく、また「あ」と言っていた。


 私はイヤホンを外さないまま、天井を見た。


 わからない。でも、わからないということ自体は、今夜の私にとってどうでもよかった。燈くんの声が聞こえている。それで十分だった。


 配信が終わったのは23時過ぎだった。


 イヤホンを外して、スマホを置いた。部屋が静かになった。


 窓の外、夜の茅ヶ崎は暗い。海は見えないが、風の音でそこにあることがわかる。


 明日も学校がある。屋上がある。山崎さんがいる。星野さんがいる。桐島さんが時々こちらを見る。田中さんがスマホを操作する。


 それが今の私の学校だ。入学したての頃に思い描いていた「誰も話しかけてこない学校生活」とは、かなり違う。


(……違う、が……)


 悪い、という言葉が出てこなかった。


 出てこないまま、目を閉じた。

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