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第31話 夕日と海風の中で、山崎さんは言った

 文化祭の片付けが一段落したのは、太陽がもう傾き始めた頃だった。


 ローブを脱ぐタイミングを完全に見失った私は、それを着たまま人の流れから逸れて、屋上へ続く階段を上っていた。


 扉はいつも通り、鍵もかかっていなかった。押し開けると、目の前いっぱいに夕方の海が広がった。


 水平線が赤く滲んで、空はまだ半分だけ青さを残している。階下からは、片付けの喧騒がくぐもって届いてきた。今日一日、椅子に座っているだけの役だったはずなのに、なぜか声を張っていた日より疲れていた。


 すれ違うクラスメイトのほとんどから「魔王すごかったね」と声をかけられた一日だった。数が多すぎて、途中からは頷くだけの反応になっていた。それすらも、今は少し重荷だった。


 フェンスにもたれて、しばらく海を見ていた。


「また一人でいるんだ」


 振り向かなくても、誰の声か分かった。


「……私は常に石ころとして、道端で単独存在するのが最適化された設定です」


 いつもの返答が、いつもよりすんなり口から出てきた。今日は一日中この手の台詞を使い倒していたせいかもしれない。


 山崎さんは笑うでもなく、ただ隣に来て、同じように柵にもたれかかった。


 しばらく、どちらも何も言わなかった。風の音と、遠い喧騒だけがあった。


「今日のお化け屋敷、良かったよ」


「……座っていただけです」


「それが良かったんだって」


「……本当は、燈くんの新曲を脳内再生していただけです」


 言った直後、しまったと思った。また名前を出した。


(また漏れた。魂の個人情報が。今日だけで何度目だろう。防衛システムのどこかに、致命的な穴が開いている気がする)


「燈って、好きなんだね」


 山崎さんは、特に驚いた様子もなく言った。


「……はい」


「前にマリノアで会ったとき、棚の前で名前出してたの、覚えてる」


 覚えていたらしい。何も言えなかった。


「別に、詳しく聞かないよ。言いたくなったら言えばいいし」


 そう言うと、山崎さんはまた海の方を向いた。


 風がもう一度吹いて、ローブの裾が揺れた。夕陽の色が、少しずつ濃くなっていく。


「俺さ、深沢さんのこと最初ずっと謎だと思ってたんだよね」


「……」


「でも最近なんか、謎とかじゃなくなってきた気がして」


(今の発言の解析中。パターンA、罠。パターンB、罰ゲーム。……いや、この人がそういうことをする人じゃないのは、知っている。なんで知っているんだ、私は。いつから、知っていたんだ。考えがまとまらない。頭の中がぐちゃぐちゃで、何から整理すればいいのか分からない)


「なんていうか、謎を解こうとしなくなったっていうか」


「……どういう意味ですか?」


「うまく言えないんだけど」


 山崎さんが困ったように笑った。嘘のない笑い方だった。


「ただ、もっと話したいなって、それだけ」


 沈黙が落ちた。夕陽と海風だけが、そこにあった。


(……期待しちゃダメなのに。傷つくって、分かってるのに。でも――なんで、消えないんだろう、この感覚)


「帰るか?」


「……はい」


 屋上を出て、階段を降りる。踊り場の窓から、片付け途中の中庭が見えた。


 一階に降りると、星野さんが下駄箱の前で待っていた。


「遅い」


「……屋上にいました」


「一人で?」


「……山崎さんも一緒でした」


 星野さんが、目を少し細めた。


「へえ」


「……その『へえ』は何なんですか?」


「別に」


 追及してこないまま、星野さんは靴を履き替えて歩き出した。校門までの道すがら、後ろから声がした。


「深沢」


 桐島さんだった。


「今日の魔王、悪くなかった」


「……座っていただけです」


「知ってる。それでも」


 それだけ言って、桐島さんは別の方向へ歩いていった。短いやり取りなのに、なぜか胸の隅に残った。


 校門の外で、田中さんが自転車にまたがって待ち構えていた。


「のぞみ様……! 今日、三回並びました……!」


「……三回は多いです」


「三回でも足りません……!」


 田中さんは満足げに手を振って、寒川方面へ走り去っていった。


 改札の前で、星野さんが「また明日」とだけ言って別れた。ホームに降りると、潮の匂いがまだ残っていた。


 電車に乗って、窓の外を見た。屋上から見ていたのと同じ海のはずなのに、少し違って見えた。理由はうまく言葉にできなかった。


 スマホの画面に、燈くんの配信通知が届いていた。


(燈くんの声を聴けば、いつもの安全な場所に戻れるはずだ。それなのに今夜は、あの夕焼けのことを考えながら聴く気がする)


 答えの出ないまま、電車は走り続けていた。それでも今日は、答えが出ないことが、そんなに怖くなかった。


 窓ガラスに映る自分の顔を、少しだけ見た。いつもと違う、と星野さんに言われた顔が、そこにあるはずだった。何が違うのか、自分ではまだ判断がつかなかった。判断がつかないまま、電車は茅ヶ崎に向かって走っていった。

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