最終話 私の防衛システムが、あなたの前でだけ起動しない
文化祭翌日の朝、教室の窓から海が見えた。
今日は晴れていた。水平線がくっきり見える。昨日の夕焼けの海とは、まったく違う色をしていた。
思えば、この教室で色々なことがあった。プリント配りで手が震えたこと、保健室の入り口で固まったこと、屋上で砂が目に入ったふりをしたこと。目立ちたくなくて必死だっただけの結果が、なぜか別の意味に変換されて積み重なっていった。積み重なった先に、今日のこの席がある。
昨夜は、いつも通り燈くんの配信を聴いた。安全な場所は、ちゃんとそこにあった。屋上でのことを何度か思い返しながらも、それなりに眠れた。だから今朝は、普通に動けるはずだった。
普通に動ければ、普通にやれる。
そのはずだった。
「おはよう、深沢さん」
山崎さんが来た。
「おは――」
止まった。
0.5秒ではなかった。もう少し長い。二秒か、三秒か。自分でもよく分からなかった。「私のような」と続けようとして、言葉が出てこなかった。いつもそこから始まるはずの前置きが、今朝に限って、入り口で詰まった。
「……おはようございます」
ようやく、それだけ出た。
山崎さんが、少し笑った。昨日の屋上と同じ笑い方だった。困ったような、でも嘘のない笑い方。
「どうしたの」とも「さっき止まってたよ」とも言わなかった。ただ笑って、自分の席に戻っていった。
(笑わないでください。今のを見ていたんですか。私の防衛システムが、あなたの前でだけ、今朝うまく起動しなかったのを。
石ころのくせに、石ころらしくいられない。でも――なんで、修正したいと思えないんだろう?)
チャイムが鳴って、一時間目が始まった。
少し離れた席で、星野さんが今のを見ていた。何も言わず、ただ前を向いていた。口元だけが、少し動いた気がした。
廊下側の席で、桐島さんもこちらを見ていた。何か言いかけるように口を開いて、結局何も言わずに、また前を向いた。
授業が終わって廊下に出ると、星野さんが待っていた。
「今朝、見てた」
「……知っています」
「どうだった、言いそびれて」
少し間を置いた。
「……分かりません」
「怖かった?」
「……怖かったかどうかも、分かりません」
星野さんが少し間を置いた。
「でも、修正しなかったじゃん」
「……修正できなかっただけです」
「どっちでもいいじゃん」
星野さんはそれだけ言って、教室の方へ歩いていった。どっちでもいい、という言葉だけが、廊下にしばらく残っていた。
昼休み、桐島さんが来た。今日も一人だった。
「深沢」
「……なんですか?」
「今朝のやつ」
「……なんですか?」
「いや、別に」
桐島さんは、それ以上続けなかった。いつもよりわずかに歯切れが悪かった。
(歯切れが悪い。桐島さんが言葉を途中で止めるのは珍しい。これはどういう状態なのか?)
「……なんですか、それ」
桐島さんが、少し間を置いた。
「もう、聞くことがなくなった」
それだけ言って、行ってしまった。
(聞くことがなくなった。どういう意味だ。桐島さんが私について確かめたいことがなくなったということか。終わった理由は――)
答えは出なかった。でも、悪い意味ではない気がした。理由は分からないまま、その「悪くない気がする」だけを持って、午後の授業に向かった。
放課後、山崎さんが来た。
「今日どうだった」
「……通常の授業でした」
「そうじゃなくて」
山崎さんが笑った。
「今朝のこと」
「……すみません」
「だから謝らなくていいって」
「……謝るなと言われると、謝るしかなくなります」
山崎さんが声を出さずに肩を揺らした。
「深沢さんって、ほんと面白い返し方するよね」
「……面白くありません」
「面白い」
「……」
「まあ、今朝のやつ、別に気にしなくていいから」
「……気にしていません」
「そう」
「……はい」
しばらく間があった。山崎さんが、窓の外の海に目をやった。
「また話しかけるね」
言い直すように、もう一度続けた。
「また話してね」
「また話しかける」ではなく、「また話してね」。その違いを、私は0.5秒だけ考えて、それ以上考えるのをやめた。
「……はい」
山崎さんが、自分の席に戻っていった。
窓から見える海は、今日は昨日より少し穏やかだった。私はしばらく、その水平線を眺めていた。
帰り道、一人で雄三通りを歩いた。夕方の風が来て、潮の匂いがした。今朝のことを、もう一度だけ思い返した。「私のような」が、入り口で詰まった、あの一瞬のことを。
怖かったかどうかは、まだ分からなかった。
でも。
期待しなければ、傷つかない。
それが私の、唯一の処世術だった。
なのに、どうして。
山崎さんのことを考えるとき、私の「期待しない」センサーは、いつも、ちょうど0.5秒だけ、起動が遅れる。
……バグだ。絶対にバグだ。
でも――もしかしたら、このバグは。
まだ、修正しなくていいのかもしれない。




