第27話 魔王、夏の終わりに自分のHPが回復していることに気づく
深夜、布団の中で天井を見つめていた。
エアコンの音だけが、規則正しく部屋を満たしている。今日一日にあったことが、順番も脈絡もなく頭の中を巡っていた。眠気は、まだ遠かった。
窓の外はもう真っ暗だった。夏休みも、あと少しで終わる。日中の蝉の声は、いつの間にか数を減らしていた。何かが少しずつ終わりに近づいている気配だけが、はっきりと感じられた。
こういうときは、燈くんの配信を流すに限る。イヤホンを耳に入れて、アプリを開く。今夜は雑談配信をやっていた。ゲームの話、最近見た映画の話、特にオチのない話が、ゆるい笑い声と一緒に流れてくる。
いつもなら、これだけで十分だった。画面の中の声を聞いているだけで、一日の輪郭がすっと丸くなる。今夜も、そのはずだった。
「なずなさん、今日もいてくれてありがとうです」
チャット欄の中の名前を、燈くんが読み上げてくれた。何度も聞いてきたはずの、いつもの一言。
(『なずなさん』……燈くんは私が画面の前にいることを、いつも当たり前みたいに受け入れてくれる。ここでは私が存在していることが、誰かの迷惑にならない。この安全な場所がある限り、現実でどれだけバグを起こしても大丈夫なはずなのに……
なんで今夜は、この声を聞いていても、別の場所がちらつくんだ……)
海沿いの道。放課後の教室。ため口が出た瞬間の、あの短い沈黙。
思い出そうとしたわけではなかった。それなのに、燈くんの声の合間に、いくつもの光景が勝手に割り込んでくる。
私は枕に顔を埋めた。
(……期待しなければ傷つかない。それが私の処世術なのに……
でも山崎さんのことを考えるとき、私のそのセンサーが……0.5秒だけ……)
0.5秒。星野さんに指摘された、あの数字。桐島さんも似たようなことを言っていた気がする、あの数字。今、自分の中でも、同じ数字が鳴っている気がした。
期待しなければ、失うものもない。傷つく前提を最初から取り除いておけば、何が起きても大丈夫なはずだった。今までずっと、そうやって自分を守ってきた。守れていたはずだった。
小学生の頃からそうだった。仲良くなりかけた相手に裏切られるくらいなら、最初から誰とも仲良くならない方がいい。そう決めてから、傷つくことは確かに減った気がしていた。減った代わりに、何かも一緒に減っていたのかもしれないが、それについては深く考えないようにしていた。
それなのに、この夏の終わりに、その防衛線のどこかに、小さなひびが入っている気がした。
不思議なのは、そのひびを、悪いものだと感じきれないことだった。怖いはずなのに、どこかで、少しだけ息がしやすくなっている自分もいた。今までの自分なら、こんな感覚を持て余して、もっと深く沈み込んでいたはずだった。今夜は、そこまで沈んでいなかった。
沈まない代わりに、何か別のものが胸のあたりに残っている。名前をつけるのが怖くて、まだそのままにしていた。名前をつけた瞬間、それが本物になってしまう気がした。
(……もしかして、少しだけ、回復しているのか。私の何かが)
理由は分からなかった。分からないまま、燈くんの声はまだ流れ続けていた。
コンコン、とドアの外から音がした。
「姉ちゃん、また唸ってる」
こうきの声だった。壁が薄いのは、今に始まったことではない。
「……うるさい」
「はいはい」
こうきは笑いながら、それだけ言った。
「おやすみ」
足音が遠ざかっていく。私は枕に顔を埋めたまま、しばらくその静けさの中にいた。
燈くんの配信は、まだ続いていた。いつもと同じ声、いつもと同じ笑い方。それなのに、今夜だけは、その声の向こう側に、別の誰かの気配が薄く重なって聞こえた。
その重なりを、今夜はもう、無理に振り払おうとしなかった。
イヤホンから流れる声を聞きながら、目を閉じた。すぐには眠れなかったけれど、さっきまでの息苦しさは、少しだけ和らいでいた。夏が終わる。それだけのことのはずなのに、今年はなぜか、その一言がいつもより重く胸に残った。




