第26話 星野の直球と、言い返せなかった私
翌日の放課後、教室にはまだ半分くらい人が残っていた。
帰り支度をしていると、星野さんが向かいの席に座った。鞄をまだ持っていない。帰る前のタイミングではなかった。
「ねえ」
「……なんですか?」
「山崎のことどう思う?」
来た。
(……来た……この質問が来た……昨日の海沿いの話の続きが今日ここで来た……準備ができていない……いや、準備というものが原理的に存在しない質問だ……罠か。いや、この人はそういうことをしない。でも安全と断定するのは――)
考えている間に、口が勝手に動いていた。
「……なんとも思ってない。私みたいな自己評価が地の底な存在が、山崎さんのような明るさの塊みたいな人に感情を持つなど、道端の石ころが太陽に向かって『私も光りたい』と主張するような根本的な分際の誤解であり、石ころは石ころとして側溝に転がっているのが本来あるべき姿であって――」
「長い。でも否定はするんだね」
「……え」
「否定するってことは、意識はしてるじゃん」
(……また……この構造だ……私が否定するたびに、否定という行為自体が意識の証拠として使われる……どこから否定しても囲まれている……詰み……)
「……そんなことは」
「ない?」
「……」
言い返せなかった。生まれて初めてだった。星野さんに、完全に言い返せなくなったのは。
椅子を引く音がした。窓から夕方の光が入ってきた。残っていた何人かが帰り始めていた。
星野さんが少し前のめりになった。
「私はさ、深沢さんのことちゃんと見てるから」
「……」
「だから深沢さんも、自分のことちゃんと見てあげてほしいな」
サバサバしていない声だった。星野さんがこういう声を出すのを、私はあまり聞いたことがなかった。
声が出なかった。出ないまま、少し経った。
「……ありがと」
言ってから、敬語じゃなかったことに気づいた。
星野さんが少し間を置いた。
「……うん」
それだけだった。それだけでよかった。
鞄を持って、二人で教室を出た。
「今日、寄ってく?」
「……どこにですか?」
「海」
「……昨日も行きました」
「毎日行っていいじゃん」
理不尽な理屈だった。それでも、言い返せなかった。
「……うん」
星野さんが少し笑った。声を出さない笑いだった。
階段を降りて外に出ると、夕方の風が来た。海の方へ、二人で歩き始めた。
しばらく歩いていたら、向こうから山崎さんが来た。こちらに気づいて、軽く手を上げる。
「二人で帰り?」
「……はい」
「いいな」
それだけ言って、山崎さんは通り過ぎていった。
(……「いいな」……今の「いいな」は何の意味だったのか……羨ましいという意味なのか、それとも単なる相槌なのか。分析中)
星野さんが何かを言いかけて、やめた。
「なんですか?」
「別に」
星野さんが笑った。また「別に」だった。星野さんの「別に」は、大体何かある。
「……教えてくれないんですか?」
「深沢さんが自分で気づく方が面白いから」
「……面白いかどうかは私が判断します」
「そうだね。でも教えない」
理不尽だった。言い返す言葉が出なかった。
海沿いの道に出た。風が来た。潮の匂いがした。波の音が戻ってきた。
「さっきの『ありがと』、ため口だったね」
「……気づいていました」
「直さなかったじゃん」
「……直せませんでした」
「どっち?」
少し間を置いた。
「……どちらかは分かりません」
「まあいいじゃん、どっちでも。出たなら出たでいいじゃん」
出た、という事実。それについては反論できなかった。
「深沢さんってさ、いつも自分を低く見積もりすぎじゃない?」
「……87パーセントの計算には根拠があります」
「フィーリングって前も言ってたじゃん」
言い返せなかった。以前、同じことを桐島さんに指摘されたときと、まったく同じ状況になっていた。
「……判定中です」
「ゆっくりでいいよ」
星野さんはそれだけ言って、海の方を向いた。水平線がはっきり見えた。「いいな」という一言が、まだ耳の端に残っていた。
海沿いの道を歩いていると、向こうから自転車を押した田中さんが歩いてきた。
「のぞみ様……! 星野さんと一緒だったんですか……!」
「……星野さんと、少し寄り道していただけです」
「星野さんと……」田中さんが、じっとこちらを見た。「なんか、のぞみ様、雰囲気変わりましたよね」
「……変わっていません」
「変わってます。前より、笑ってる時間が増えた気がします」
田中さんは自転車のサドルにまたがると、軽く手を振って、寒川方面へ走り去っていった。その背中を見送りながら、変わったかどうかを考えた。答えは出なかった。それでも、田中さんがそう言うなら、何かが変わったのかもしれなかった。




