第25話 「0.5秒遅い」と言われた件
放課後、星野さんに声をかけられた。
「ちょっと海見てく?」
断る理由を探す前に、もう歩き出していた。最近、こうして海に寄り道することが、いつの間にか当たり前になっている自分がいた。以前の自分なら、断る理由を三つは用意できていたはずだった。今は一つも思いつかなかった。
134号線に出ると、夕方の風が少し湿っていた。今日は雲が多く、海の色もいつもより暗く沈んでいた。
「最近なんかぼーっとしてない?」
星野さんが唐突に切り出した。
図星だった。図星すぎて、変に取り繕う余裕もなかった。
「……感情センサーに正体不明のノイズが混入していて、クリアを繰り返しているんですが、一向に消えません。深刻な状況です」
我ながら、正直に言いすぎた自覚はあった。でも他に言葉が見つからなかった。誤魔化そうとして「別に何も」と返す選択肢もあったはずなのに、なぜか今日はその選択肢を選べなかった。
「それ山崎関係じゃん」
(!!!)
心臓が、一瞬止まった気がした。
「……なんでそう思うの?」
「図星じゃん」
図星だった。だが、ここで認めるわけにはいかなかった。認めた瞬間、何かとても大きなものが崩れる予感がした。何が崩れるのかは、自分でもまだ分かっていなかった。
反論の材料なら、いくらでも用意できる。統計、確率、過去の実績。私にはそれらを組み合わせて、どんな主張も瞬時に構築できる訓練が積まれている。
「図星じゃない。私みたいな道端の石ころが、山崎さんのような明るさの塊みたいな人に感情ノイズを発症するなど、石ころと太陽が同じ土俵に立とうとする根本的な設定ミスであり――」
「長い。でも否定するの、0.5秒遅かったよ」
私は固まった。
(0.5秒。この数字を、最近どこかで聞いた気がする。誰かに、同じ数字を指摘された気がする。誰に――)
思い出せそうで、思い出せなかった。喉の奥に、何かが引っかかっている感覚だけが残った。統計的に処理しようとしても、肝心のデータが欠落していて、答えにたどり着けない。
思い出す前に、星野さんの声がまた飛んできた。
「ちゃんと自分の気持ち、考えてみたら?」
軽い口調だった。軽い口調のはずなのに、その一言だけが、妙に重く胸に落ちてきた。
「……期待値を上げると、その分だけダメージ係数が跳ね上がります。私みたいな日陰の雑草のHPは、元から限界値ギリギリなので、これ以上のデバフは致命的です」
言い終えて、少しの沈黙があった。
星野さんが、少し驚いた顔をしていた。いつものような、からかい混じりの表情ではなかった。
自分でも、今の言葉が今までの自虐とは何かが違うことに気づいていた。いつもの自虐は、逃げ道の一つだった。でも今のは、逃げ道ではなく、本当に怖いと思っていることを、そのまま口にしてしまった気がした。
「……そっか」
星野さんはそれだけ言うと、それ以上は何も聞いてこなかった。追及の代わりに、隣に座り直しただけだった。その距離感が、今の私にはちょうどよかった。
二人並んで、しばらく黙って海を見た。
波の音だけが、一定のリズムで繰り返し打ち寄せていた。何か言わなければ、と思うたびに、言葉の代わりに波の音が耳を満たした。それでよかった。今は何も言わなくていい気がした。
夕方の光が、少しずつオレンジ色を濃くしていく。
隣にいる星野さんの横顔を、ちらりと見た。何も言わずに、ただ海を見ている横顔だった。何を考えているのかは分からなかったけれど、責められている感じは、まったくしなかった。
風が、また一つ吹き抜けていった。
いつもなら、この沈黙を埋めるために、何か自虐か統計の話を差し込んでいたはずだった。今日はそれをしなかった。しなくても、隣に星野さんがいてくれるだけで、十分な気がした。
「そろそろ帰ろっか?」
星野さんが先に立ち上がった。差し出された手を、少し迷ってから取った。砂を払いながら、二人で堤防沿いの道を歩き出した。今日の会話の答えは、まだどこにも出ていなかった。それでも、今はそれでいい気がした。




