第22話 感情センサーがバグりました
夜、燈くんの新衣装発表配信があった。
告知を見た瞬間から、私は予定をすべて配信中心に組み直していた。夕食も早めに済ませ、部屋の照明も画面が見やすいように調整し、コメント欄で出遅れないようにアプリを事前に立ち上げておく。準備は万全だった。
画面が切り替わった瞬間、私は椅子から身を乗り出していた。新しい衣装。新しいカラーリング。新しい装飾の一つ一つに、今まで積み上げてきた解釈がすべて上書きされていく。
「えーっと……どう? 似合ってます?」
燈くんが照れくさそうに、けれど本気で分かっていない顔で聞いてきた。天然だった。似合っているかどうかなど、聞くまでもないのに。
私はキーボードに手を伸ばした。
「完璧です」
「尊い」
「解釈一致」
三行、続けて打った。指が止まらなかった。
「なずなさん、ありがとうございます」
燈くんが、少し照れたようにそう言った。
(『なずなさん』……この呼び方だけが、今の私に許された最大の幸福だ。画面越しでも、私はここに確かに存在できている。日常のどこにも居場所がないと思っている日でも、この四文字だけは、間違いなく私に向けられている)
配信が終わったあとも、しばらく画面を見つめたまま動けなかった。胸のあたりが、じんわりと温かかった。
翌朝。
教室に入ると、山崎さんがこちらに気づいて片手を上げた。
「おはよ」
その一言を聞いた瞬間、昨夜と同じ感覚が、胸のあたりに広がった。
(……え)
足が止まった。
(今の、なんで……これ、燈くんの配信を見ているときの感覚と同じ……いや、違う。絶対に違う。似ているだけだ。似ているのと同じなのは、まったく別の話だ。私の感情センサーに、重大なエラーが発生している可能性がある。燈くんへの尊さと、山崎さんへの――)
「……」
(いや、何も言っていない。何も感じていない。今すぐキャッシュをフルクリアします)
「深沢さん?」
「……おはようございます」
一拍遅れて、それだけ返した。声が少し裏返った気がしたが、確認する余裕はなかった。
山崎さんは特に気にする様子もなく、自分の席に戻っていった。何も気づいていないらしいことだけが、せめてもの救いだった。
その日一日、私はずっとキャッシュのクリアを試みていた。
一時間目。数学の授業中、黒板の数式を写しながら、頭の片隅で「クリア完了」の表示を待った。表示は来なかった。
二時間目。古文の授業中、もう一度試した。やはり来なかった。
(おかしい。通常、この手のキャッシュは一晩眠れば自然に消えるはずだ。それなのに、朝の一言でむしろ再発している。バグの再発率が想定よりはるかに高い。設計上、致命的な欠陥がある)
昼休み、弁当を食べながら考えた。
(原因の特定を試みる。仮説一、寝不足による感情の誤作動。可能性は低い。昨夜は八時間近く眠れている。仮説二、燈くんの配信の余韻が長引いているだけ。これはありえる。「なずなさん」の破壊力を考えれば、一晩やそこらでは処理しきれなくても不思議はない。仮説三――)
仮説三を考えかけて、思考にブレーキをかけた。この先に進むのは危険な気がした。危険な理由は、うまく言語化できなかった。ただ、進んではいけない、という警告だけが、頭の奥で赤く点滅していた。
「深沢さん、さっきから箸止まってるけど」
星野さんが向かいの席から言った。
「……考え事をしています」
「珍しいね、深沢さんがそんな顔するの?」
「……どんな顔ですか?」
「なんか、変な機械が壊れてるみたいな顔」
「……的確すぎます」
星野さんが小さく笑った。理由は説明しなかった。説明できる気がしなかった。
放課後になっても、キャッシュは一向にクリアされなかった。
帰り道、雄三通りを歩きながら、私はまだ朝の「おはよ」を思い出していた。何度も再生してしまう。再生するたびに、胸の同じ場所が、同じように反応した。
再生をやめようと思っても、意志の力ではどうにもならなかった。むしろ止めようとすればするほど、再生ボタンが勝手に押される感覚があった。これはもう、私の制御が及ぶ範囲を超えている。
(バグは、まだ直っていない)
家に着いても、直る気配はなかった。
自室のベッドに座って、もう一度だけ試してみる。深呼吸をひとつ。頭の中で「クリア」のボタンを思い浮かべ、力いっぱい押す。
何も起こらなかった。
窓の外はもう暗くなっていた。今夜も燈くんの配信はある。いつも通り楽しみにしているはずなのに、今は少しだけ、別の誰かの「おはよ」の方が、頭の中を大きく占めていた。
それが何を意味するのか、今夜のところは、まだ分からないままにしておくことにした。




