第20話 翌日、教室の空気が一段階おかしくなっていた
体育祭の翌日、教室に入った瞬間に気づいた。
空気が違った。
具体的に何が違うのかを言語化しようとしたが、0.5秒で諦めた。とにかく違った。私のような「空気の変化に命がけで敏感な生き物」が言うのだから間違いない。
「のぞみ様……!」
田中さんが立ち上がった。朝のホームルーム前、まだ半分しか席が埋まっていない時間帯だった。
「昨日の……昨日ののぞみ様の走りが……夢に出ました……!」
「……夢に」
「もう一度見たくて目が覚めたら朝で……それでまた目を閉じたら……!」
「……寝てください」
「眠れませんでした……!」
(……これは私の体育祭のリレーがトラウマとして田中さんの睡眠を侵食しているということになるが……それは崇拝なのか害なのか判定が難しい……田中さんの顔が輝きすぎていて何も言えない……設計上の欠陥が今日も健在だ)
「……ちゃんと今日は眠れるといいですね」
「のぞみ様に言われたら眠れます……!!」
解決していなかった。
桐島さんが来たのは昼休みだった。
教室の入り口で少し止まって、それからこちらに歩いてきた。特に用があるような顔でもなかった。
「深沢」
「……なんですか?」
「昨日、リレー」
「……はい」
「速かった」
「……たまたまです」
桐島さんが少し間を置いた。
「そうか」
何か言いたそうな顔で、でも何も言わなかった。しばらくそのまま立っていて、それから何事もなかったように行ってしまった。
星野さんが後ろから来た。
「桐島、また来てたね」
「……速かったと言いに来ただけみたいです」
「それだけ?」
「……それだけです」
星野さんが少し首を傾けた。
「ふーん」
「……なんですかそのふーんは」
「別に」と星野さんが笑った。
(……桐島さんが何をしに来たのか分からなくて、星野さんのふーんの意味も分からない。今日は謎が多い)
「桐島ってさ、なんか深沢さんのこと気になってるんじゃないの?」
「……気になるというのは?」
「さあ。でもたまに見てるよ、あの人」
「……分析しきれていません」
「深沢さんが分析しきれてないことって珍しいね」
「……そんなことはありません。判定不能なものは常に一定数存在します」
星野さんがまた「ふーん」と言った。今日何度目かのふーんだった。意味は依然として不明だった。
放課後、山崎さんが来た。
「深沢さん、昨日どうだった?」
思っていたより直球だった。
「……どう、とは」
「体育祭。楽しかった?」
(……楽しかったかどうか……昨夜も考えたが結論が出なかった……悪くなかった、とは思った……でもそれを山崎さんに言うのは何か違う気がする……言ったら山崎さんが「やっぱり……!」と言い始めるのが確定している……それは避けたい……)
「……普通でした」
「普通」
「……はい」
山崎さんが少し笑った。
「深沢さんの『普通』って、たぶん普通じゃないんだよね」
「……どういう意味ですか?」
「なんとなく」
なんとなく、で言っていた。根拠がなかった。なのに妙に確信のある顔だった。
「また何かあったら言って」
それだけ言って、山崎さんは自分の席に戻っていった。「また何かあったら」が何を指しているのか分からなかったが、聞き返さなかった。聞き返したら何か答えが来る気がして、それが少し怖かったのかもしれなかった。
帰り際、星野さんが隣に来た。
「山崎と話してた」
「……はい」
「何て言った?」
「……普通でした、と」
星野さんが少し間を置いた。
「本当は?」
「……」
「悪くなかったでしょ」
何も言わなかった。
星野さんが笑った。声を出さない小さな笑いだった。
「言えたじゃん、昨日は」
「……海だったので」
「海だと言えるの?」
「……分かりません」
「まあいいけど。また言えるといいね」
それだけ言って、先に教室を出ていった。
(……また言えるといいね。次があることを前提にしている。星野さんはよくそういうことを言う)
窓の外、夕方の空が広かった。いつもの空だった。それでもいい、と思った。
翌日の朝のことを考えた。
昨日と同じ教室に行く。昨日と同じ席に座る。昨日と同じ人たちがいる。でも昨日と少しだけ違う何かが、今日は自分の中にある。その「少しだけ違う何か」の正体を言語化しようとして、できなかった。
できないまま、帰ることにした。
廊下を歩いていたら山崎さんとすれ違った。
「帰り?」
「……はい」
「また明日ね」
それだけ言って、向こうへ歩いていった。特に何かを期待した言い方でも、深い意味がある言い方でもなかった。ただの「また明日」だった。
なのに、そのまた明日が、今日一番ちゃんと届いた言葉だった気がした。なぜそうなるのか分からなかった。分からないまま靴を履き替えて、外に出た。夕方の風が来た。
明日もここに来る。来週もここに来る。それが当然だと思えるのは、たぶん昨日の体育祭より前から、少しずつそういうことになっていたのだと思う。いつからかは分からない。でも、なっていた。
バス停の手前で田中さんに追いつかれた。
「のぞみ様……! 今日もお疲れ様でした……!」
「……お疲れ様です」
「昨日からずっと考えていたんですが、のぞみ様のリレーのあの加速は、やはり意図的なものだったのでは……」
「……走っただけです」
「その『走っただけ』が……!」
田中さんが何かを言い続けていた。私は相槌を打ちながら、心の半分でさっきの「また明日」を反芻していた。また明日。当然のように言われた言葉。当然のように受け取った言葉。
「のぞみ様、聞いてますか?」
「……聞いています」
「本当ですか?」
「……走っただけです」
「そこに戻るんですか!」
田中さんが笑った。笑いながら「また明日ですね」と言って、別の方向に歩いていった。
今日、「また明日」を二回言われた。どちらも当然のように言われた。それが今日一番、変わったことだったかもしれない。




