第19話 魔王、リレーで奇跡を起こす(ただしパニックのせい)
最終種目、クラス対抗リレー。
アンカーという大役を、私は一週間前から呪いのように背負い続けてきた。あの日、教室での撤退宣言が拍手に変換されてしまった経緯を思い出すたび、今でも軽く眩暈がする。
原因は分かっていても、結果は変えられない。
今この瞬間、私はバトンゾーンに立っていた。
太陽はもう傾き始めていた。長かった体育祭も、あとこの一走で終わる。それだけが、今の私にとって唯一の救いだった。
第三走者が今まさにコーナーを回っているのが見える。距離が縮むたびに、心臓の音がどんどん大きくなっていく。周りの走者たちは慣れた様子で腰を落とし、いつでも飛び出せる体勢を作っていた。
一人だけ様子がおかしいのが、自分でも分かった。膝が笑っている。手のひらに変な汗をかいている。もう何度目か分からない深呼吸を、私は繰り返していた。
私はその真似をしながらも、内心では別のことを考えていた。走り出す前に気絶できないだろうか。それが叶わないなら、せめてこの区間だけ地面が割れて、静かに姿を消せないだろうか。
都合のいい想像は、当然ひとつも実現しなかった。
前の走者が近づいてくる。
バトンを受け取る瞬間、心臓が縮み上がった。
手のひらにバトンの感触が伝わった、その一瞬。視界の端、応援スタンドの人混みの中に、見知った顔を見つけてしまった。
田中さんだった。
周囲の人たちに向かって、何かを熱心に説明している。指先が、まっすぐ私の方を指していた。
(見られている。
田中さんが周囲の人間に「あれがのぞみ様です」と紹介している。
紹介された周囲の人たちが、一斉にこちらへ視線を向けてくる。
スタンド全体、いや、もしかしたら保護者席も含めた全方位から、私という存在が観測対象として捕捉された。
これでは体育祭という名の公開処刑だ。
逃げ場はどこにもない。
いや、待て。
逃げ場がないなら、作ればいい。
この状況を打開する方法は、一つしかない。
今すぐ光の速さで走り切って、全員の視界から消えなければならない。
減速は許されない。
振り返ることも許されない。
ただ前だけを見て、今この瞬間、この視線の集中砲火から一刻も早く抜け出す。
それだけが、私に残された唯一の生存戦略だった)
気づけば、私は全力で走り出していた。
風を切る音以外、何も聞こえなかった。腕の振り方も、呼吸のタイミングも、意識する余裕はなかった。ただ、視線から逃げる。その一点だけを目的に、足を動かし続けた。
ゴールテープを切った瞬間、周囲がどよめいた。
「今の、歴代最速じゃない?」
「え、待って、タイム見て」
「深沢さんそんな速かったっけ?」
計測係の声が響いた。クラス歴代最速タイム。信じられない、という顔で、みんなが電光掲示板とストップウォッチを交互に見比べていた。
他クラスの生徒までもが、何事かとこちらを覗き込んでいる。
(違う。これは実力でも奇跡でもなく、ただ視線から逃げたかっただけの結果です。恐怖という燃料が、たまたま最速というアウトプットに変換されただけであり、そこに込められた意志は「全力を出す」ではなく「今すぐ消えたい」でした)
「深沢さんが、本気を出した……!」
誰かがそう叫んだ瞬間、拍手と歓声がグラウンド全体を包んだ。
息を切らしたまま突っ立っていると、山崎さんが駆け寄ってきた。
「深沢さん……ずっと手を抜いてたんだ……」
感慨深そうな顔だった。
「え、あの、それは」
「いや分かるよ、そういうタイプいるよね。普段は力抜いといて、ここぞって時にちゃんと本気出すやつ」
勝手にどんどん話が進んでいく。
訂正しようと開きかけた口は、次の言葉を見つけられないまま、ゆっくり閉じた。
(手を抜いていたのではなく、ただ石ころのまま転がり逃げたかっただけです)
言葉にできないまま、私はただ荒い息を整えていた。
土埃の匂いと、まだ収まらない歓声の中で、田中さんがこちらに駆け寄ってくるのが見えた。
「のぞみ様……っ」
目が赤かった。泣いていた。走り終えた直後に、私の目の前で泣いている人間がいた。
「……なぜ泣いているんですか?」
「だってっ……だってのぞみ様がっ……全力でっ……!」
「……走っただけです」
「それがっ……!」
田中さんは言葉にならないまま、そのまま泣き続けた。私には対処のしようがなかった。山崎さんの「やっぱり……!」も、田中さんの号泣も、コース脇から上がった声も、どこをどう処理すれば正解なのか、まったく分からなかった。
星野さんがゆっくり歩いてきた。
田中さんの肩に手を置く。田中さんが星野さんにしがみついた。
星野さんが私を見た。
「お疲れ」
「……お疲れ様です」
「転ばなかったね」
「……転びませんでした」
「よかった」
それだけだった。山崎さんの感動も、田中さんの号泣も、コース脇の歓声も、全部ではなかった。星野さんの「よかった」が、今日一番小さくて、今日一番ちゃんと届いた気がした。
(……なぜそうなるのか分からない。でも分からないまま、まあいいか、と思っている自分がいる)
帰り道、海沿いを歩いた。星野さんと並んで歩いた。夕方の光が海に当たって、水平線がさっきより赤かった。
「今日どうだった」
「……疲れました」
「それは分かる。他は?」
少し考えた。
「……悪くなかったです」
星野さんが少し笑った。
「それ、深沢さん的にはかなり良かったってことでしょ」
「……否定できません」
「また体育祭やりたい?」
「……二度とやりたくないです」
星野さんが笑いながら言った。
「でも走ったじゃん、ちゃんと」
「……走るしかなかっただけです」
「それでいいじゃん」
波の音がした。潮が満ちてきていた。今日買ったものは何もなかった。それでも、何かが、かすかに違った気がした。
「来年も体育祭あるじゃん」
「……それは」
「また一緒にがんばろうね」
「……また、と言った」
「来年の話だけど」
「……次があることを前提にしている」
「そうだよ」
星野さんが笑った。
「当然じゃん」
当然、と言われた。当然かどうかの判定を私はまだ完了していない。でも今日のところは、当然かもしれない、くらいには思えた。
茅ヶ崎駅が近づいてきた。夕方の光の中に、いつもの改札が見えた。潮の匂いが、まだしていた。
「お疲れ、今日」
改札の前で星野さんが言った。
「……お疲れ様でした」
「また明日ね」
また明日。次があることを前提にした言葉が、今日は二回来た。
「……また明日」
改札を抜けた。ホームに降りると、いつもの潮の匂いがあった。




