第2話 窓際の磔刑台に就任させられました
入学から2週間が経った。
クラスの中で、グループというものが少しずつ形を作り始めていた。話しかけてくれる人の顔と名前が一致するようになった子たちが、昼休みに固まって笑っている。私にはまだ関係のない話だが、それが普通の高校生活の速度らしかった。
のぞみにとっての2週間は、ただの「乗り越えた日数」だった。行って、座って、帰る。推し活のための生命維持は、今のところ順調に続いている。
朝のホームルームで、担任が紙くじの箱を教卓に置いた。
「はい、今日は席替えやるぞー。出席番号順に前出てくじ引いて」
教室が一斉にざわめいた。歓声と悲鳴が同時に上がる。私にとっては、ただの処刑宣告だった。
震える手で箱に指を入れる。紙を一枚引き、開く。書かれた数字を確認した瞬間、視界がすっと暗くなった。
一番後ろ、窓際の列。
(終わった……終わった終わった、完全に終わった……。アニメや漫画なら主人公が座る特等席らしいが、現実の私にとっては違う。先生の視線が一直線に届く特等席であり、指名という名の公開処刑が真っ先に行われる磔刑台であり、クラス中から「あいついつも後ろで何してんの」とヒソヒソされる観測拠点でもある……!)
私は黒縁眼鏡の位置を直し、猫背をさらに深く折り曲げ、泥のようにその席へと沈み込んだ。
(存在感を消さなきゃ。息を吸うな、私。背景の壁紙になりきるんだ……いや壁紙にも失礼か……床の模様くらいに溶け込むんだ……授業中、1ミリも動かず、視線を黒板の1点に固定し、一切の生気を絶つ……)
次の時間は、数学の鬼頭先生だった。
入学してしばらくで、この先生の評判はクラス中に知れ渡っていた。当てられたら最後、答えられないと追加で3問出される。一番後ろの窓際は、教壇からの見通しが良すぎる。ここで指名されて「わかりません」などと言おうものなら、クラス中から白い目で見られるに決まっている。
(来る……先生の視線、チョークを持つ指の角度、解けない生徒をあぶり出そうとするあの空気……確実にあいつは、今一番目立っているこの窓際最後列の私を狙っている……!)
指名される確率、ほぼ百パーセント。私の過剰な被害妄想、もとい危機察知能力が、ピンポイントで破滅の未来を検知していた。
作戦は一つしかなかった。
私は推しの配信アーカイブを脳内で完全再生しながら、黒板の一点に視線を固定し、四十五分間、一ミリも動かないことに全集中した。瞬きの回数すら最小限に抑える。これは授業を聞いているのではない。気配を殺しているだけだ。
「よし、この問題、誰か解ける奴は……ん?」
鬼頭先生の視線がクラスを見回し、私の席でピタリと止まった。
心臓が跳ね上がる。
終わった。やっぱり磔刑台だったんだ。
「……深沢。お前のその、一切の妥協を許さない視線。素晴らしい集中力だ。よし、お前が分かっているなら、この問題は他の奴に当てよう」
へ。
先生は満足そうに頷き、別の生徒の名前を呼んだ。
私は机の下で激しく膝を震わせた。
(危なかった……完全に目を付けられてる……いや待って、これは目を付けられたんじゃなくて、見逃されたということか……? わからない……わからないが、とにかく今日のところは生き延びた……)
冷や汗を拭いながら、心底「命拾いした」と胸をなでおろした、その時だった。
「すげえ……」
前の席から、山崎さんが感心したような顔で振り返った。
「あの鬼頭先生が、深沢さんの集中力だけで指名やめるなんて。クラスのみんな、当てられるかもって凍りついてたのに、深沢さん一人でピリッと空気変えてくれたな。マジでカッコいいわ」
ま、眩しい。
(違う。騙されてはいけない。私のような日陰の雑草を「カッコいい」などと持ち上げるなんて、絶対に裏で何かの罰ゲームが行われているに決まっている。ここで嬉しそうに返事をしたら思うツボ……私は私の尊厳——もとよりマイナスではあるが——を守る……!)
「いえ、あの。私のような日陰の雑草が、皆様の貴重な授業時間にこうして黒板を凝視するという奇行を晒してしまい、教室全体の平均輝度を下げてしまったことを心よりお詫び申し上げます。今すぐ床の模様に溶け込みたい所存です……」
「ちょっと、それただの自虐だから」
横から声が飛んできた。星野さんだ。机に頬杖をついたまま、呆れた顔でこちらを見ている。
「深沢さん、ただ気配消そうとして固まってただけでしょ。山崎、それ集中力とかじゃなくて、ガチで存在消そうとしてたやつだから」
星野さん、神。今すぐ表彰台に立っていただきたい。私は心の中で勝手に拍手を送った。これで誤解は鎮火する。そのはずだった。
「いや、それだよ星野」
山崎さんの目が、なぜか少し真剣になった。
「存在を消そうとしてまで、教室の空気を壊さないようにしてたってことだろ。自分が目立つことより、周りが気まずくならないことを優先したんだよ。それって、結局すごい集中力ってことじゃん」
「は? いや論点ずらされてる気がするんだけど」
「ずらしてないよ。むしろ筋通ってるだろ」
星野さんの訂正は、訂正のたびに山崎さんの確信を補強する燃料になっていた。火を消そうとして油を注ぐような会話を、私はただ眺めていることしかできなかった。
(違う、違う、違う……! 私はただ指名されたくなかっただけの、ただの臆病なドット絵以下の存在であって、空気を壊さないようにとか、そんな上等な動機は搭載していない……!)
声には出せなかった。出した瞬間、また何かの燃料になりそうな気がしたからだ。
星野さんはこれ以上の修正をあきらめたらしく、「……まあ、いいけど」とだけ呟いて、机に視線を戻した。その横顔に、わずかな疲労が滲んでいた気がする。
昼休みになっても、噂は止まらなかった。
廊下を歩いていると、すれ違いざまに知らない生徒たちの会話が耳に入る。
「あの子だよ、一年二組の。鬼頭が初日から認めた子」
「窓際のクールビューティーってやつ?」
私のことらしい。誰のことだ。私はそんな人間に心当たりがない。
教室の隅、自分の席に戻ろうとしたとき、視線を感じた。
振り返ると、田中さんが、こちらをじっと見ていた。視線が合うと、彼女は慌てたように目を逸らし、こっそりスマホを操作し始めた。
(……何だろう、今の。睨まれているわけでも、馬鹿にされているわけでもない……むしろ、観察されているような……いや、考えすぎだ。考えすぎだ。考えすぎるのも私の悪い癖の一つだ……)
私はそのクラスメイトのことを、特に気にも留めずに自分の席に戻った。
帰宅すると、玄関に弟の靴があった。
リビングに入ると、こうきはソファでコントローラーを握ったまま、画面に集中していた。
「姉ちゃん、今日どうだった?」
画面から目を離さずに聞いてくる。
「……また、なんか変なことになった」
「また?」
短い間があった。
「……母さんが夕飯できてるって」
「……うん」
それだけで終わった。深掘りはしない。こうきはいつもそうだ。聞く。でも追わない。私はその素っ気なさに、今日だけは少しだけ救われた気がした。
21時。イヤホンをつけ、画面を開く。
燈くんは雑談配信中だった。今日あった不思議な出来事を視聴者から募っているらしい。
「今日なんかよくわからんことあった人ー? コメントで教えてください」
私は少し迷ってから、コメント欄に打ち込んだ。
「話しかけた理由がわからない人が2人いました」
「あ、なずなさん来てくれてた。……2人! 気になりますね、どんな人なんですか?」
燈くんが身を乗り出すような声で言った。天然そのものの反応だった。
(どんな人、と言われても……。一人は私の自虐を体調不良と解釈した人で、もう一人は「長い」と言って去っていった人です……でも、今日一日でいろんな人にいろんな呼ばれ方をされた中で、「なずなさん」だけが、ちゃんと私に向けられた言葉だった……)
脳内の警報は、なかった。
燈くんがまた何か面白いことを言って、コメント欄が流れていく。私はその流れの中に「www」とだけ打ち込んだ。
今日一日、誰かに何かを言われるたびに身構えていた指が、ここでだけ、迷わず動いた。




