第1話 空気になりたかった私が、なぜか「ただ者じゃない」と言われた件
入学式の朝、私はいつも通り起きて、いつも通り制服を着て、いつも通り家を出た。
電車に乗り、茅ヶ崎駅で降り、茅波高校に向かって歩く。潮の匂いがする。空はきれいに晴れている。正直、どうでもよかった。今夜の燈くんの配信は21時からで、それまでの時間をどう乗り越えるかの方がずっと重要な問題だった。
誰も話しかけてこない。誰の記憶にも残らない。
それが私にとっての普通だ。中学もそうだったし、高校もそうなるはずだった。学校というのは、推し活をするために生命を維持する場所である。行って、座って、帰る。それだけでいい。背景のモブ、いや、空気中を浮遊するチリとして、今日も静かに存在を消す。それが私の座右の銘――「期待しなければ傷つかない」――を守るための、唯一にして最強の生存戦略だった。
体育館に集められた新入生は、全部で百数十人ほどいる。
私はその中の一人として、折りたたみ椅子に座っていた。来賓の挨拶が続く。マイクの音が天井に反響して少し聞き取りにくい。隣の席の女子が小声で何かを友人に話している。前の席の男子は式次第の紙をこっそり折っていた。
私には関係のないことだ。
今夜の燈くんの配信は21時から。先週の深夜配信のアーカイブがまだ途中で止まっている。そちらを先に片付けて、それから今夜のリアルタイム配信に備えた方がいい。問題は夕飯をどこで挟むかだ。
校長の式辞が終わった。拍手が起きた。私も一拍遅れて手を叩く。
それが、私の高校生活の始まりだった。
教室に入ると、すでに何人かが席についていた。
黒板の上に貼られた座席表を確認して、自分の席を探す。中央よりやや後ろ、通路側。可もなく不可もない席だ。鞄を置き、静かに座る。窓の外、校舎の向こうに空が見えた。晴れていた。どうでもよかった。
「あ、隣じゃん。よろしく」
左から声がする。
茶髪の男子が、なんでもないことのように笑っていた。名札には「山崎浩太」とある。私は一瞬、自分が話しかけられたのかどうか確認するように周囲を見回した。他に誰もいない。
脳内で警告が鳴り響いた。
(この人は晴れ男タイプだ……私という低気圧が近づくことで、今後の運気に深刻なダメージが発生する可能性が……いや、もうすでに話しかけられてしまった……どう返す……どう返す……!)
「あの」
「うん?」
「私のような道端の石ころが、山崎さんのような晴れやかな方の隣に座るなど、隣という近距離から私の曇り空オーラを直接照射してしまうことになり、本意ではなく心苦しいのですが、すでに山崎さんの貴重な視界に入ってしまった以上、お詫びとして今後一切話しかけないことをここに誓約させていただければ……」
山崎さんが首を傾ける。
「……え、体調悪い?」
私は固まった。
「違います」
「そっか」
山崎さんはあっさり前を向き、教科書を机の上に並べ始めた。私の長広舌を、彼はどうやら「体調不良の人間がうまく喋れていない」と解釈したらしい。
誤読の方向性が、私の想定とまるで違った。これが第一波。被害は最小限。そう思っていた。
ホームルームはひと通り終わった。
私は「深沢のぞみです、よろしくお願いします」と自己紹介して即座に着席した。山崎さんは「山崎浩太です! サッカーやってます、よろしく!」と立ち上がり、クラス中から笑いと拍手を引き出した。同じ人間とは思えない。
クラス委員長を決める段になって、切れ長の目をした黒髪の男子が静かに手を挙げた。桐島蓮という名前だ。反対意見はなく、あっさり決まった。
桐島さんはその後、一度だけ私の方を見た。
視線の種類が、他のクラスメイトとは違う。品定めでも好奇心でもない。何かを確認するような目だ。私はその視線に気づいた瞬間、反射的に窓の外へ視線を逃がした。桐島さんはすぐにノートへ目を落とす。ペンが動いていた。
何を書いているのか、私には見えなかった。
放課後、私は足早に教室を出た。
廊下を進み、靴を履き替えて出口へ向かう。今日の配信前にアーカイブをどこまで消化できるか、頭の中で計算しながら歩いていた。
「ちょっと」
後ろから声がかかった。
茶髪のショートカット。琥珀色の目。同じクラスの子だ。
「星野杏。よろしく」
「……深沢のぞみです」
「知ってる、自己紹介聞いてたから」
なぜ話しかけてくるのか、判断できない。これは第二波。私はすでに、自分の中の防衛マニュアルを開いていた。
「あの、私のような視覚公害に話しかけていただくのはありがたいのですが、近くにいると不運が伝染する可能性があり、星野さんの今後の高校生活に取り返しのつかない影響を与えてしまうかもしれないので、今すぐ塩を肩に振ることを強くお勧めした上で、可能であれば私の存在をなかったことに——」
「長い」
星野さんはそれだけ言った。
「何それ? 普通に話しかけただけじゃん?」
悪意のある笑いではない。馬鹿にする笑いと、そうでない笑いは違う。私の観察眼はその区別だけは得意だった。
(なんだこの人……罠か……新手の罰ゲームか……いや、この笑い方は……)
「何考えてるの?」
「……何も考えていません」
「嘘くさ」
星野さんは「じゃあね」と言って、さっさと別の方向へ歩いていった。呼び止めるでも、連絡先を聞くでもなく、ただそれだけで終わった。
私はしばらくその場に立っていた。
話しかけてきた理由が、最後までわからなかった。第二波は、被害ゼロのまま通り過ぎていった。そのことが、なぜか少しだけ落ち着かなかった。
翌朝、教室に入った瞬間、私はその場で固まった。
「あ、深沢さん。おはよう」
声をかけてきたのは山崎さんだった。にこにこしている。理由がわからない。
「お、おはようございます……あの、何か」
「いや、昨日の話、よくよく考えてたんだけどさ」
山崎さんが腕を組んだ。
「深沢さんが言ってた『関わると運気が下がる』ってやつ、あれ逆だよなって思って」
「は」
「だってさ、普通そんなこと初対面で言わなくない? わざわざ自分の運気を下げてでも俺に注意してくれたってことだろ? 深沢さん、めちゃくちゃ責任感強い人なんだなって」
第三波だ。私の防衛マニュアルには、この展開のページが存在しなかった。
(違う……違う……ただ私が消えたかっただけで……責任感とかそういう高尚なものでは断じてなく……むしろ責任を取りたくなくて先に予防線を張っただけの臆病者の発言であり……)
訂正しようと口を開きかけた、その時。
「ちょっと待って山崎」
横から声が割り込んだ。星野さんだった。机にスマホを置いたまま、呆れた顔でこちらを見ている。
「それただの自虐だから。深沢さん、昨日も似たようなこと私に言ってたよ。『視覚公害』とか『塩を肩に振れ』とか」
星野さん、正解です。完璧な指摘です。私は心の中で深々と頭を下げた。これで第三波は鎮火する。そのはずだった。
「いや、それだよ星野」
山崎さんの目が、なぜか少し真剣になった。
「同じことを俺と星野、両方に言ってるってことは、深沢さんの中で一貫した何かがあるってことだろ。誰にでも平等にそういう注意ができるって、結構すごいことだと思うんだよな」
「は??」
星野さんの声が裏返った。私もたぶん同じ顔をしていた。
「いや待って、平等とかそういう話じゃなくて、これただのコミュニケーション不全というか、深沢さんが自分を下げる癖があるだけというか……」
「それだよ。自分を下げてでも、ちゃんと相手のことを考えて発言する。深沢さんって、見た目より義理堅いんだな」
星野さんの言葉は、訂正のたびに山崎さんの確信を補強する燃料になっていた。火を消そうとして油を注ぐような会話を、私は机の影でただ眺めていることしかできなかった。
「(違う、違う、違う……! 私はただ自分の心臓を守るために予防線を張っているだけの、ただの臆病な背景グラフィック崩れであって、義理とか責任感とか、そんな上等な部品は搭載していない……!)」
声には出せなかった。出した瞬間、また何かの燃料になりそうな気がしたからだ。
星野さんはこれ以上の修正をあきらめたらしく、「……まあいいや」とだけ呟いて、自分の席に戻っていった。その背中に、わずかな疲労が滲んでいた気がする。
帰宅すると、玄関に弟の靴があった。
「姉ちゃん、今日どうだった?」
リビングから声がした。こうきはソファでコントローラーを握ったまま、画面に目をやっている。中学一年生にしては妙に冷静な目つきで、こちらをちらっと見た。
「……話しかけられた」
「誰に?」
「隣の席の人と、帰り際に廊下で。あと今朝、また」
「へえ」
それだけで終わった。深掘りはしない。こうきはいつもそうだ。聞く。でも追わない。
「母さん、夕飯できたら呼ぶってさ」
「……うん」
私は自室に引っ込んだ。
21時になった。
イヤホンをつけ、画面を開く。白銀の髪のアバターがすでに映っていた。天音燈。今夜はホラーゲームの実況らしく、開幕から悲鳴に近い声を上げていた。
「うわ出た出た出た! なんで今! 心の準備が!」
コメント欄が「wwww」で埋まった。私も打ち込んだ。「www」
「あ、なずなさん来てくれた。ありがとうございます〜」
私は少し固まった。
「なずなさん」というのは配信ネームだ。nzmというIDを、燈くんがいつの間にかそう読み始めた。本名ではない。本名とは全然違う。でもそれはたしかに、私に向けられた言葉だった。
脳内の警報は、なかった。
燈くんのゲームキャラクターがまた悲鳴を上げた。コメント欄がまた流れた。私はイヤホンの奥でその声を聞きながら、今日の出来事を順番に思い出した。
山崎さん。星野さん。桐島さん。
全員、私の存在を処理した。無視でも、勘違いでも、観察でも、形は違えど、誰一人私を透明にしなかった。誤読は止まらなかったし、星野さんの訂正は逆に燃料になった。
どうせ誰も話しかけてこない、という前提が、初日から崩れていた。
(現実はバグだらけで……私という背景グラフィック崩れが常に誰かの視界に映り込んでしまうのに……この画面の中だけは……ちゃんと、なずなさんとして……)
燈くんがまた「うわっ」と叫んだ。
私はコメント欄に「www」を打ち込んだ。
今日一番、迷わずに動いた指だった。




