第17話 ベールが剥がれた日
体育祭当日の朝、私は前髪の最終確認をした。
鏡の前で、眼鏡の位置を2ミリ上げた。前髪が眼鏡のフレームに正しく乗っている。これが私の最終防衛ラインだ。この布陣が崩れない限り、私という存在は「クラスの背景」として正常に機能し続ける。
問題は、今日の会場が海岸のグラウンドだということだった。
(……潮風……潮風という概念がある……あれは前髪を吹き上げる……私の最終防衛ラインを外側から強制解除してくる自然現象であり……今日の天気予報は晴れ、風速3メートル……風速3メートルとは体感的にどの程度の前髪ダメージをもたらすのか……昨夜シミュレーションしたが結論が出なかった……出なかったまま今朝を迎えてしまった……詰み……)
家を出た。
海岸のグラウンドは、思っていたより広かった。
相模湾が正面に広がっていた。砂浜の向こう、水平線がはっきり見えた。空が高かった。こういう景色を見ると一瞬だけ全てがどうでもよくなる気がするが、0.3秒後には「どうでもよくない」に戻るので私には景色を楽しむ適性がない。
開会式が終わった。最初の種目は海岸ランニングだった。
クラス全員で海沿いのコースを走る。距離は800メートル。競争ではなく全員参加の種目だった。つまり逃げ場がない。
(……800メートルの間、クラスメイトと並んで走り続けなければならない……存在を消しながら走るという根本的に矛盾した作業を……潮風の中で……)
スタートの合図が鳴った。
走り出して200メートルほどで、風が来た。
海側からの風だった。強かった。前髪が、浮いた。
(!)
眼鏡のフレームから、前髪が剥がれた。一瞬だった。潮風が横から来て、私の最終防衛ラインを一撃で突破した。
「のぞみ様がベールを……!」
田中さんの声が聞こえた。
(……やられた……前髪という最高機密の封印が解除された……素顔という最高機密情報が全方位に流出した……今すぐ全員の記憶からデリートしてほしい……砂になって砂浜に溶け込みたい……いや砂は踏まれるので却下……波に攫われたい……波に攫われても漂流物として発見されるか……詰み……)
即座に手で前髪を押さえた。眼鏡を押し上げた。3秒以内に原状復帰した。
遅かった。
「深沢さん」
走りながら、横に山崎さんが来た。
前を向いたまま返事をしなかった。
「眼鏡、ちょっとずれてる」
「……直しました」
「あ、ほんとだ」
それだけ言って、山崎さんは少し前に出た。追及もなかった。それ以上何も言わなかった。
(……今、山崎さんは私の素顔を見たのか。見ていないのか。見たとして、何と判定したのか。判定したとして、それを今後どう使う気なのか。どのルートにも「深沢さんって実は……!」という善意の拡散リスクが……いやそれ以前に……)
前を向いて走り続けた。風がまた来た。今度は前髪を押さえながら走った。
走りながら前髪を押さえている人間の姿が客観的にどう見えるかについては、考えないことにした。
ゴールして、星野さんが隣に来た。
「深沢さん、さっき前髪」
「……知っています」
「眼鏡外したら絶対かわいいじゃん」
「……言わないで」
「なんで。事実じゃん」
「……事実かどうかの問題ではないので」
星野さんが少し間を置いた。
「照れてる?」
「……照れていません」
「声、小さくなってるけど」
(星野さん、今すぐ国連の何かに推薦したい。こんなに的確に私の防衛システムの穴を突いてくる人間を私は他に知らない)
「……前髪は私の生命線なので」
「生命線って」と星野さんが笑った。
「眼鏡と前髪があれば私はどこにでも溶け込めます。その2つが同時に崩れた場合、私の存在は周囲に対して過剰な解像度で認識されてしまうため……」
「長い。かわいいって言われたら素直に喜べばいいじゃん」
言い返せなかった。
星野さんが水筒を取り出して一口飲んだ。海の方を見た。何でもないような顔をしていた。
「山崎、さっき何か言ってた?」
「……眼鏡がずれてると」
「それだけ?」
「……それだけです」
星野さんがまた少し間を置いた。
「ふーん」
「……なんですか、そのふーんは」
「別に」
別に、と言いながら微かに笑っていた。何がおかしいのか私には分からなかった。
次の種目のアナウンスが流れた。
前髪を直した。眼鏡を2ミリ上げた。
海風が、また来た。
昼休み、田中さんが来た。
「のぞみ様……! さっきのベール解除の瞬間、私、しっかり目撃しました……!」
「……忘れてください」
「忘れられません……! のぞみ様の素顔が……!」
「……通常の顔です」
「通常じゃないです……! 眼鏡を外したら……!」
「……外していません。今も着用しています」
田中さんが両手を胸の前で組んだ。何かを言いたそうな顔で、でも言葉がまとまらないのか、しばらくそのままだった。
「……のぞみ様は、ご自分が思うより、ずっと」
「……なんですか」
「……いえ、なんでもないです」
田中さんが深呼吸して、持ち場に戻っていった。
(……言いかけてやめた……「ずっと」の先が何なのか確認できていない……データ不足……)
星野さんが後ろから来た。
「田中ちゃん、何て言ってた?」
「……ずっと、と言いかけてやめました」
「ずっと何?」
「……分かりません」
星野さんが少し笑った。
「まあ、いいことだと思うよ」
「……根拠は?」
「田中ちゃんがあんな顔でやめることは、いいことしかないから」
それだけ言って、星野さんは弁当を広げ始めた。
(……いいことしかない……根拠が「田中さんの顔」という非論理的なものだが……星野さんが言うと何故か否定できない……これは星野さんに対する信頼係数が基準値を超えている証拠なのか……)
昼休みの残り時間、海の方から風が来続けた。前髪を押さえながら弁当を食べた。面倒だったが、悪い昼休みではなかった。




