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第16話 最悪のシミュレーションでした

 布団の中で、天井を見ていた。


 寝られなかった。


 原因は分かっている。明日が体育祭だからだ。体育祭という、学校行事の中でも特に「存在を消す」ことが困難を極めるイベントが、あと8時間後に控えている。私は今夜、それを考えることをやめられない。


 脳内シミュレーターが勝手に起動していた。


(……リレーのアンカー……最終走者として全クラスメイトの希望をバトンに乗せて受け取り、私という『日陰の雑草』がその希望をそのまま地面に叩きつける……勢い余って転倒、顔面から砂浜に突っ込み、起き上がった瞬間に眼鏡が砂に半没、前髪が崩れ、砂だらけの顔がスタンドの全員に見られ、田中さんが「のぞみ様ーーー!!」と号泣し、その場面を誰かがスマホで撮影し、山崎さんの「善意のデマ」加工を経てSNSに流出し、クラスの黒歴史として永遠にアーカイブされる……回避不可能。詰み。完全詰み。どのルートを辿っても詰み……)


 転倒せずに走り切れたとしても最悪ルートは別に存在した。


(……無事に走り切ったとして、山崎さんが「やっぱり深沢さんは本気を出してなかっただけで実は……!」と例の解釈を全方位に拡散し、クラスの黒幕神話が新たな段階に突入する……回避不可能の詰みと、拡散確定の詰みの二択しかない……これは構造的な欠陥だ……私が何をしても誰かの望む物語になる……なんなんだこれは……)


 ノックがした。


「……入ってないよ」


「知ってる」


 こうきがドアを開けた。カフェオレの缶を2本持っていた。片方を私のベッドの端に置いた。


「明日体育祭でしょ」


「……そう」


「緊張してる?」


「緊張じゃない。絶望」


 こうきが少し間を置いた。


「まあ、なんとかなるっしょ」


「……その楽観主義のインストール元を教えてほしい。今すぐ全バージョン購入する」


「姉ちゃんが持ってないやつを弟が持ってるのは普通じゃん」


 何も言えなかった。こうきが自分の缶を開けて、壁に背中を預けてその場に座った。部屋に入るわけでも出ていくわけでもなく、ドアの内側にそのままいた。


「リレー出るの?」


「……よりにもよってアンカーに決定した」


「え、なんで」とこうきが笑った。


「なんでかは私が一番知りたい」


 こうきがまた笑った。笑いをこらえているような顔だった。


「まあでも、あれじゃん。走ったらどうにかなるじゃん、姉ちゃん案外速いし」


「案外、ってどういう意味ですか」


「褒めてるんだけど」


「……」


 缶を手に取った。冷たかった。


(……こうきは毎回こういうことをする。解決策を出すわけでも、心配するわけでもなく、ただここにいる。それで私が何かを諦めるかのように会話が終わる。なんでそれが成立するのか、私には未だに分析できていない。同じ親から生まれて同じ家で育ったはずなのに、この楽観係数の差は一体どこから来ているのか。弟に生まれ変わりたいとは思わないが、あの「まあなんとかなる」という感覚だけを抜き取って自分のシステムに移植できるなら今すぐ検討したい)


「眠れる?」


「……シミュレーションが止まらない」


「ふーん」


 こうきが立ち上がった。


「まあ、なるようにしかならないから」


「哲学的な助言をありがとう」


「どういたしまして」


 本当に受け取った顔で、部屋を出ていった。廊下を歩く足音が遠ざかった。


 缶を一口飲んだ。ほんのり甘かった。



 時計の針が22時を回った。


 眠れなかった。当然だった。


 スマホを手に取った。燈くんの配信アーカイブを開いた。去年の秋、ホラーゲームの配信。燈くんが敵キャラに会うたびに悲鳴を上げて、それでも「いや大丈夫です、余裕ですよ」と言い張り続けて、結局90分間一度もクリアできなかった回だ。


(……燈くんは怖いものに向かって、それでも前に進もうとする。諦めるくせに、また試みる。なぜそんなことができるのか私には根本的に理解できないが、見ていると何故か別のことを考えなくなる)


 イヤホンを耳に押し込んだ。


 燈くんの声が、今日もちゃんとそこにあった。


 画面の中で燈くんが敵に突進して、予想通り即死した。


「あーーー! また死んだーーー! なんでなんで!? いけると思ったのに!」


 画面越しの悲鳴が、どうしてか可笑しかった。


(……燈くん、あなたは何十回死んでもまた走り出すので、私は毎回それを見ながら何も言えなくなる。これは推し活として正しい感情の動き方なのか、それとも私が今夜どこかにぶつけたい気持ちの行き先を探しているのか、自分でも判定ができていない)


 チャット欄を開いた。「明日体育祭です」と打ちかけて、止めた。


(……打ち込んでどうする。燈くんはアーカイブだ。返事が来ない。私が送った言葉は0時を過ぎた夜の画面の中に消えるだけだ。分かっている)


 消した。


(……でも。打ち込みかけたということは、誰かに言いたかったということで。言いたかったということは、明日が怖いということで。怖いということは……私は明日に、何かを期待している)


 そこまで考えて、思考を止めた。


 余計なことを考えすぎた。今夜は体育祭の絶望シミュレーションだけをして眠るはずだった。なのに燈くんの配信を見ていたら変な方向に思考が転がった。これは推し活の副作用だ。過剰摂取を反省する。


 ところで「明日が怖い」と「明日に期待している」は、論理的には矛盾しない。傷つくかもしれないのに何かを望んでいる状態というのは、私の座右の銘から完全に逸脱している。座右の銘とは「期待しなければ傷つかない」であり、それを破ることのリスクは私が一番よく知っている。


 なのに。


(……明日、ちゃんと走ろうとしている自分が、今の私にいる)


 その事実だけを、うまく処理できないまま持て余した。



 気づいたら配信が終わっていた。


 時計は0時を過ぎていた。カフェオレの缶はいつの間にかサイドテーブルに移動していた。こうきが片付けたのかもしれなかった。確かめる気力はなかった。


 スマホの画面を消した。


(……明日の最悪シミュレーションは全パターン完了した。転倒ルート、拡散ルート、砂が目に入って涙目になりながら走るルート。全部やった。どれが来てもダメージ係数は織り込み済みだ。私は覚悟している。……たぶん)


 目を閉じた。


 潮の匂いが、窓の外のどこかからしていた。体育祭は海岸のグラウンドだと星野さんから聞いた。砂浜で転倒した場合の砂の粒子が前髪に付着するシミュレーションを最後にもう一周しかけて、やめた。


 やめた。


 眠った。

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