第15話 リレーのアンカーに就任させられました
「深沢さんにリレーのアンカーをお願いしたい」
山崎さんが言った瞬間、教室の空気が「それだ」という方向に一斉に傾いた。
私は黒板の端の「体育祭種目分担表」を見た。アンカー欄は空白だった。体育祭まであと一週間。クラスの作戦会議は今日で最後だった。
(……待ってほしい……アンカーとは最終走者であり、クラス全員の希望と順位を一身に背負う最重要ポジションであり、そこに私という『空気中のチリ』を配置するのは戦略的に見て完全な誤りであり……いやそれ以前に走ることそのものが……私の存在が全速力で全員の視界を横切るという事態が……)
「深沢さん、どうですか?」
田中さんが前のめりで聞いてきた。目が輝いていた。
(……この目だ……この純粋な目で見られると私は何も言えなくなる……悪意がゼロなので防衛システムが起動しない……これは設計上の欠陥だ)
口を開いた。
「……私のような道端の小枝が走ると、クラスのタイムに深刻なダメージが付与されます。私が走った場合の推定タイムロスは8秒から12秒の間と試算されており、クラスの順位を最下位に引き下げる可能性が87%以上と予測されるため、今すぐベンチという名の側溝に転がり込むことを強くお勧めします」
一瞬の沈黙。
山崎さんが頷いた。
「深沢さんがあえて自分を下げてチームの士気を高めようとしてる……さすが……」
「違います」
「謙虚さが板についてる……」
「違います」
「深沢さん……!」
(……なぜこうなるんだ……私は今、事実を述べただけなのに……)
星野さんが隣で小声を出した。
「ドンマイ……」
「……助けて」
「私にはどうにもできない」と星野さんが切実な顔で言った。
こうして私はアンカーになった。所要時間、約90秒。
放課後、桐島さんが静かに近づいてきた。
「深沢。少し聞いていいか」
「……なんですか?」
「さっきの87%、何だ」
「……フィーリングです」
桐島さんが0.5秒止まった。
「フィーリング」
「……はい」
桐島さんがまた私を見た。何かを言いかけて、やめた。
「……意味が分からない」
「……私もそう思います」
(それは違う意味で言っている)
桐島さんが立ち去った。
星野さんが戻ってきた。
「桐島、また来てたね」
「……何なんですかあの人」
「私も知らない」と星野さんが笑った。
笑いごとではなかった。
「ていうか深沢さん、さっきのアンカーの件」
「……はい」
「本当は嫌だった?」
少し間を置いた。
「……嫌というか」
「うん」
「……87%という数値に嘘はありません」
「そっか」星野さんが笑った。「でも断らなかったじゃん」
何も言えなかった。断らなかったのは事実だった。なぜ断らなかったのかについては、今も答えが出ていない。田中さんの目が輝いていたからかもしれないし、山崎さんが「頼む」と言ったからかもしれないし、ただ言葉が出なかっただけかもしれなかった。
「……判定中です」
「ゆっくりでいいじゃん」
星野さんがそれだけ言って、バッグを持ち上げた。特にそれ以上のことを言わなかった。この人はいつもそうだ。深追いしない。でも全部見ている。
体育祭の練習で、バトンを受け取る練習だけをした。
山崎さんが相手をしてくれた。走り込んでくる山崎さんから受け取る動作を何度か繰り返した。
「深沢さん、受け取り上手いね」
「……受け取るだけなので」
「いや、ちゃんとタイミング合わせてるじゃん」
合わせているというより、相手の動きを読んでいるだけだった。来るものが分かれば避けられる。避けるのと受け取るのは根本的には同じ動作だ。そういうことを言っても伝わらない気がしたので黙っていた。
「本番も頼むね」
「……努力します」
山崎さんが笑った。「深沢さんって面白い返し方するよね、たまに」
面白い、とこの人はよく言う。馬鹿にしている種類ではないことは分かっている。でもなぜそう判定されるのかが毎回分からなかった。分からないまま、バトンを返した。
山崎さんが次の練習に戻っていった。
「受け取り上手いってさ」
星野さんが隣に来た。
「……聞いていたんですか」
「たまたまね。深沢さん、褒められてたじゃん」
「……受け取るだけなので、と答えました」
「そこで『ありがとうございます』じゃないの面白いよね」星野さんが笑った。「でも確かに上手かった。さっきの練習」
「……タイミングを読んでいただけです」
「それを『上手い』って言うんじゃないかな」
言い返せなかった。星野さんがそういうことを言うとき、大体いつも言い返せない。
グラウンドに風が来た。海の方からだった。砂が少し舞った。
体育祭まで、あと2日だった。
翌日、作戦会議があった。
私がアンカーに決定してから、クラスの雰囲気が妙に盛り上がっていた。「深沢さんならいける」という根拠のない確信がクラス全体に広まっていた。根拠を尋ねても「なんか」「絶対」「そういう感じがする」という返答しか返ってこなかった。感覚で動くクラスメイト集団の生態が私には未だに理解できない。
「深沢さん、当日よろしくね」
山崎さんが帰り際にそう言った。
「……できる限りのことはします」
「できる限りで十分だよ」
「……87%の確率で順位が落ちますが」
山崎さんが笑いながら言った。「その87%、どこから出てくるんだろうね毎回」
「……フィーリングです」
山崎さんがまた笑った。笑いながら教室を出ていった。
(……「できる限りで十分」と言った……十分かどうかの判定権は私ではなくクラス全員にあるはずだが、山崎さんは毎回その判定を私に返してくる。なんでそういうことができるのかが分からない)
グラウンドに夕方の風が来た。明後日が体育祭だった。




