第14話 購買のアイスと、誤差の範囲
購買のパン売り場は、いつも戦場だ。
昼休み、弁当のおかずを一品買い足そうとしただけだった。それだけの、ささやかな用事だったはずだ。列に並んで数歩進んだところで、視界の先に見覚えのある集団を発見して、私は心の中で盛大に舌打ちをした。山崎さんのグループだった。数人が固まって、菓子パンの棚の前で楽しそうに笑っている。
回れ右をしようか、本気で悩んだ。だが後ろにはもう三人並んでいて、今さら列を離れれば、それはそれで「なぜ急に抜けたのか」という新たな謎を生む。前門の陽キャ、後門の行列。どちらに進んでも詰みだった。
(購買という密室に、陽キャの最大勢力が出現した。私という曇り空の発生源がこの空間に混入することで、購買内の陽気な空気が化学反応を起こし、一瞬で低気圧が発生する。今すぐ霧になって逃げたい。いや、霧も視界を遮るという意味では立派に存在感がある。だったら水蒸気になりたい。水蒸気も湿度として感知される可能性がある。もっと根本から、原子レベルまで分解されたい。誰にも観測されない大きさになれば、この列に並んでいるという事実そのものが、この世から消滅するのではないか)
列は無情にも進んだ。逃げ場は、もうどこにもなかった。
「暑いから」
気づいたら、目の前に山崎さんが立っていた。差し出されたのは、当たり付きのアイスキャンディーだった。
私は固まった。
(また来た。今度は何だ。本を差し出してきたときと同じパターンなら、これは取引か、あるいは新手の罰ゲームか。いや違う、罰ゲームにしては笑顔が眩しすぎる。だとすれば善意か。しかし善意にしては渡し方に一切の躊躇がなさすぎる。躊躇のなさは、すなわち私という存在への警戒心のゼロを意味しており、それはそれで軽く傷つく。判断材料が足りない。足りないまま列が詰まりはじめている。後ろに並んでいる人の視線が背中に刺さる。早くしないと購買のレジ待ちの流れを止めた不審者として語り継がれる)
「……ありがとうございます」
五秒の沈黙のあと、そう絞り出すのが精一杯だった。
受け取った手のひらに、アイスの冷たさが伝わった。山崎さんは満足そうに頷くと、列の後ろへ戻っていった。
その背中を見送りながら、私はレジの前でアイスを握りしめたまま固まっていた。
教室に戻ると、田中さんと目が合った。田中さんは何も言わず、じっとこちらを見つめてきた。手にしたアイスの袋から、視線を外さない。
(見られている。この視線は、間違いなくアイスの出所について詮索する視線だ。ここで下手に隠せば隠すほど、後で「あの時、深沢は明らかに何かを隠していた」という証言として使われる。かといって正直に「山崎さんにもらいました」と申告すれば、それはそれで新たな伝説が誕生してしまう。詰み以外の選択肢が見当たらない)
結局、私は何も言わずに自分の席に座った。田中さんも、それ以上は何も言ってこなかった。それが余計に不気味だった。
放課後、星野さんに今日の出来事を報告した。
「山崎さんがまたアイスをくれた」
「それ普通に好意じゃん」
「……誤差の範囲だと思います」
「誤差って何」
「誤差は誤差です。統計的に有意な差ではないという意味です」
「深沢さんの中の統計、絶対おかしいと思う」
星野さんはそう言って、窓枠に頬杖をついた。
「まあ深沢さんがそう思うならそれでいいけど。でもさ、そのうち誤差って言えなくなる回数、来ると思うよ」
「……来ません。統計的に」
「はいはい」
「本当です。母集団のサンプル数が増えれば増えるほど、誤差は縮小に向かうのが統計の基本です」
「なんか反対のこと言ってる気がするけど、まあいいや」
窓の外で、部活帰りの声が遠くに聞こえた。星野さんは荷物をまとめながら、私の手元を見た。
「そのアイスの棒、まだ捨ててないの?」
言われて、初めて気づいた。カバンの脇のポケットに、空になった棒を差したまま忘れていた。慌てて取り出そうとして、指が滑って床に落とした。屈んで拾おうとすると、星野さんも同時に手を伸ばしてきて、頭と頭が軽くぶつかりそうになった。
「危な」
「す、すみません」
「別に謝ることじゃないでしょ」
星野さんが笑った。私はまだ手のひらの中で棒を握ったまま、何と返せばいいのか分からなかった。
「……当たりでした」
思わずそう言うと、星野さんが目を丸くした。
「今そこ?」
「大事な情報だと思ったので」
「まあ、当たりならよかったじゃん」
星野さんは鞄を肩にかけて、教室を出ていった。私はしばらく、当たりの棒を見つめたまま席に座っていた。
帰り道、雄三通りを一人で歩いた。海の方から、夕方の風が吹いてきた。誤差の範囲、と自分でもう一度呟いてみる。呟いてみても、口の中に残る言葉の形だけが、さっきよりも少し頼りなくなっている気がした。




