幕間 陽向
身体が、妙に軽い。
ゴブリンに引きずられた時の痛みも、数秒前まで全身を襲っていたあの強烈な倦怠感も、嘘のように消え去っていた。
「あれ……? 身体が、軽い……」
「ふふ、私のおかげだね〜!」
隣に並んだ少女が、実体化した身体で得意げに胸を張る。
「……? 貴方のおかげ?」
「うん! 『契約』したから、私の力が静香ちゃんにも使えるようになったんだよ〜?」
「そうなの……?」
「うん!」
半信半疑のまま、私たちは薄暗い洞窟の奥へと歩を進めた。
少し進んだ角を曲がった拍子に、前方からまたあの緑色の皮膚を持つ化け物——ゴブリンが一体、現れた。
「ヒッ……!」
思わず喉が鳴る。鼓動が早鐘を打つ。
「フーフー……」
「落ち着いて、静香ちゃん? 今の静香ちゃんなら、あんなの簡単に倒せるよ?」
少女が私の背中にそっと手を添える。
その手のひらから、温かいエネルギーが流れ込んでくるのを感じた。
「危なかったら私が助けるから〜。頑張って〜!」
「……ええ。やってみるわ」
私は意を決して、岩の影からゴブリンの前へと飛び出した。
「グルァッ!?」
ゴブリンはこちらに気づくと、醜悪な顔を歪めて汚らしいこん棒を振り上げ、一直線に襲いかかってきた。
(……来るッ!)
攻撃を予期して身構える。……だが。
(……え? 遅い……遅すぎる)
ゴブリンの動きが、まるで泥の中を泳いでいるかのように緩慢に見えた。
凶器が私の頭上に迫る。
私はそれを紙一重で避けた——つもりだった。
ドォォォンッ!!
「……痛っ!?」
次の瞬間、私の身体は凄まじい速度で真横に吹き飛び、洞窟の土壁に激しく激突していた。
「あれ……? 私、避けたはずじゃ……」
「わお〜! 一瞬で10メートルも移動しちゃったね〜!」
少女が目を丸くして感嘆の声を上げる。
遅かったのはゴブリンではない。
私の「速度」が、私の認識を遥かに超えて爆発的に上がっていたのだ。
「次は、シュッて手を振ってみて〜?」
壁から身体を引き剥がした私に、少女が身振り手振りを交えて指示を出す。
「こう……?」
立ち上がり、向かってくるゴブリンに向けて、言われた通りに右手を「シュッ」と無造作に振ってみた。
パァァァァンッ!!
乾いた爆音とともに、ゴブリンの頭部が跡形もなく弾け飛んだ。
風圧だけで肉体を粉砕する、凄まじい衝撃波。
「……えっ?」
自分の手が引き起こした惨状に、私は呆然と立ち尽くす。
「すごいね、静香ちゃん! これで上の怪物も怖くないよ〜! 早くここから出よう?」
「……ええ」
唖然としながらも、私は少女に促され、ゴブリンの死体を踏み越えてダンジョンの出口へと急いだ。
数分後。
洞窟の先に、淡い光が見えた。
外へ飛び出すと、夜明け前の薄青い空が広がっていた。
山の向こうから昇り始めた朝日が、眩しく視界を染めていく。
「……朝? 私、そんなに長く気を失っていたの……?」
「ふぅ〜……出られたね〜、静香ちゃん?」
崩落した裏山の斜面の上で、少女が眩しそうに空を見上げて伸びをした。
「……ええ、そうね。まだ、実感が湧かないわ……」
自分がダンジョンに落ちたことも、化け物を倒したことも、隣に人外の少女がいることも、全てが現実離れしていて頭が追いつかない。
「……? 静香ちゃん?」
「何かしら」
「どうして貴方、私の名前を知っているの?」
不思議に思って尋ねると、少女はケロリとした顔で答えた。
「だって、静香ちゃん、定期的に祠に来ては、ずっとお話ししてくれたでしょ〜? だから覚えたよ〜!」
「……そうなの?」
「うん!」
一方的に愚痴をこぼしていただけのつもりだったけれど、彼女はそれをずっと聞いて、私の名前まで覚えてくれていたのだ。
「……貴方の、名前は?」
「……? ないよ〜?」
少女は不思議そうに首をかしげる。
「そうだ〜! 静香ちゃん、つけて!」
「えっ……! 私が?」
責任重大な提案に戸惑う。
……この暗い地下から私を救い出し、光の元へと導いてくれた、太陽のような彼女。
「そうね……。陽向、はどうかしら?」
「陽向……?」
「ええ。太陽みたいな笑顔の貴方には、いい名前だと思うわ」
私が微笑みかけると、少女——陽向は、パァッと顔を輝かせた。
「うん……! うん……ッ! 陽向! 私、陽向! 覚えたよ〜、静香ちゃん! これから、よろしくね〜!」
「ええ……こちらこそ。よろしくね、陽向」
夏の朝。崩れた祠の跡地で、私は生涯の相棒となる少女と、静かに手を繋ぎ直した。




