20話 兄さんの『聖域』
喫茶店の空気は、氷点下まで凍りついたかのように重苦しくなった。
「どうかな〜、思い出した? 忍ちゃんがいなかった頃のこと」
陽向が章の瞳を覗き込み、核心を突く質問を投げかけたその時だった。
「……っ」
章の表情から、一切の感情が抜け落ちた。
焦点の合っていない虚ろな瞳のまま、章——いや、その身体を一時的に借りた忍は、テーブル越しに陽向の手をガシッと掴んだ。
「あッ、痛い、痛いよ!?後輩くん!?」
陽向が悲鳴を上げる。だが、その手はびくともしない。
章の口元だけが、不自然に微笑んだ。
「……やってくれましたね? 兄さんの記憶の綻びを突くなんて」
「あ……っ……」
陽向の背筋に、死の予感が走る。
忍が操る章の手から、耐え難いほどの圧力が加わっていた。
「……わかっていますよね? 兄さんの『聖域』に土足で踏み入る行為が、どういう結末を迎えるか」
「ビクッ……!」
忍は陽向の顔を冷酷に見据え、決定的な命令を下した。
「今夜、公園へ。……この後はすぐに帰りなさい。……分かりましたか?」
「は、はい……ッ!」
忍が手を離すと、章の身体はガクリと力なく椅子に崩れ落ちた。
「ふぅ……」
数秒後。章がふらりと頭を揺らし、意識を取り戻した。
「あれ……? 意識が……先輩?」
「……後輩くん、ごめんなさい。私、帰ります」
陽向の返事を聞き、俺は呆然とした。
先ほどまでの陽向先輩とは、まるで別人のような……抑揚がなく、魂が抜けたような声だった。
「あ、先輩! 荷物忘れていますよ?」
「……先輩!?」
俺が呼び止めても、陽向先輩は振り返りもせず、機械のような足取りで店を出て行ってしまった。
「あれ……?」
何が起きたのか全く分からない。
ただ、さっきまで確かにそこにいた「陽向先輩の温度」が、どこか遠くへ消えてしまったような、奇妙な喪失感だけが残った。
その頃。
喫茶店から遠く離れた校舎の屋上で、忍はふう、と小さく吐息をついた。
「ふぅ……やはり遠隔操作はあまり使いたくないですね。魔力の消耗が激しくて疲れます」
忍は空を見上げ、満足げに微笑む。
「でも、兄さんを常に監視していてよかったです。あの先輩、感づくのが早すぎましたから」
忍の脳裏には、先ほど「操り人形」にした陽向の姿が焼き付いている。
「さて……あの先輩、どうしてやりましょうか?」




