143話 神威の余波と、駆けつけた妹
ゆらめく陽炎の中から現れたレクシアは、手負いの暗殺者の肩にそっと手を置き、甘く囁きかけるように目を細めた。
「久しぶりに、神にすがりたい気分でしょうか?」
「……そうだな。それもいいかもしれねぇな」
男は吐き捨てるように笑いながらも、その視線は着物と羽衣を纏った陽向から寸分たりとも外せないでいた。
だが、レクシアは冷ややかな真剣さを瞳に滲ませ、男の耳元へ口唇を寄せる。
「ですが……ここは引きますよ? あれは——『覚醒体』です」
「かく……?」
「気づいていらっしゃらないのですか? 先ほどから、貴方からも、私からも、少しずつ魔力が奪われ続けていますよ。……あのような者を目にするのは、二千年前以来でしょうか。久しぶりに見ましたね」
「……そうか。お前でも、やれないのか?」
「はい…彼女には、私では到底勝てませんね」
悪びれもせず、けれど有無を言わせぬ絶対の確信を込めて断言するレクシア。
男は数秒の沈黙の後、奥歯をギリリと噛み締め、ナイフを鞘へと収めた。
「……そうか。分かった、引くぞ」
「ええ、賢明で素晴らしいご判断です。後で傷の手当てをして差し上げながら、ゆっくりとお話しして差し上げますね?」
レクシアが艶やかに微笑みながら指を鳴らすと、紅蓮の残り火が二人を包み込み、陽炎の歪みとともにその気配は屋上から完全に掻き消えた。
冷たい風だけが吹き抜ける屋上。
金糸銀糸の衣をたなびかせていた陽向先輩が、ふっと息を吐くと、その神々しい装束は光の粒子となって霧散し、いつもの制服姿へと戻っていった。
「後輩く〜ん、帰っちゃったね?」
「……そう、ですね」
へたり込みそうになる膝に力を込めながら、俺は深く息を吐き出した。
全身を巡っていた尋常ではない熱が、徐々に引いていく。
「大丈夫〜? 怪我してない?」
「はい……先輩のおかげで、なんとか無事です」
「う〜ん、私なんて大したことしてないよ〜? 後輩くんが頑張ったんだもん!」
いつもの能天気で愛嬌のある笑顔に戻り、えへへ〜と頭を掻く先輩。
だが、俺の胸の中のざわめきは消えなかった。
あの敵が言っていた言葉。『覚醒体』、『二千年前』、そして——忍と先輩が『神』であるという事実。
(それで……か。だから、俺の身体がさっき……)
疑問の渦に呑み込まれそうになった、まさにその瞬間だった。
バァァァンッッッ!!!
屋上の重い鉄扉が、弾け飛ぶかのような凄まじい音を立てて蹴破られた。
「——兄さんッッ!!」
立ち込める鉄錆と砂煙の向こうから、悲痛な叫びとともに飛び込んできた人影。
制服の肩口は無残に引き裂かれて鮮血に染まり、首筋には無数の痛々しい噛み跡。
血の気の引いた蒼白な顔で、肩を激しく上下させながら駆け寄ってくる少女。
「……忍!?」
俺は思考の全てを投げ出し、傷だらけの妹の元へと駆け出していた。




