140話 空への跳躍と、能天気な救世主
周囲を見渡すが、身を隠せる遮蔽物も、盾にできるような頑丈な物も何一つない。
そもそも、目の前の男から一瞬でも視線を逸らせば、その瞬間に首を刈り取られるのが目に見えていた。
死の恐怖で全身の筋肉が強張る。
——その時だった。
頭蓋の奥、脳髄に直接語りかけてくるような呑気な声が響いた。
『後輩くん? ジャンプだよ〜?』
「……!?」
陽向先輩の声!?
混乱する思考よりも先に、なぜか身体が勝手に反応した。
地面を蹴りつけた瞬間、足の裏から爆発的な推進力が弾け飛ぶ。
ドガァッ!!
コンクリートに蜘蛛の巣状の亀裂が走り、重力そのものが消失したかのような強烈な浮遊感。
次の瞬間、俺の視界は屋上の給水塔すら遥か下に見下ろす、上空数十メートルの青空へと突き抜けていた。
(な、なんだこれ……!?)
見下ろせば、さっきまで自分が立っていたまさにその場所へ、低く踏み込みながら凶悪なナイフを突き出しているあの男の姿があった。
もしあのまま突っ立っていたら、確実に心臓を貫かれていた。
だが、安堵する暇すらない。
最高到達点に達した身体が、猛烈な勢いで地面へと落下し始めた。
「ちょっ……落ちる、落ちるッ! 死ぬッ!!」
「は〜〜い、キャッチ♪」
落下速度がゼロになり、ふわりとした柔らかい感触と甘い香りに包まれる。
目を開けると、宙に浮いたまま、俺をすっぽりと腕の中に抱きとめている少女の顔があった。
「あ……え? 先輩!?」
「うん! お姫様だね〜、後輩くん!」
嬉しそうに目を細め、満面の笑みを浮かべる陽向先輩。
「い、いや……あの……!?」
「ん〜? なぁに?」
「一体、いつからそこに?」
「えへへ、さっきからだよ〜? すっごく高く飛べたでしょ〜? あれ、私の力なんだよ! 褒めて褒めて〜!」
空中に静止したまま、すりすりと頬を寄せてくる先輩。
事態がカオスすぎて脳の処理が完全に追いつかないが、命を救われたことだけは紛れもない事実だった。
「……? よ、よく分かりませんけど……ありがとうございます、先輩」
「うんっ! どういたしまして〜♪」
満足げに喉を鳴らす先輩の頭上から、冷ややかな咳払いが一つ、屋上のコンクリート越しに響き渡った。
「……コホン」
ゆっくりと地面へ着地すると、ナイフを構え直した男が、底知れぬ警戒心を露わにしながら二人を睨みつけていた。
"Who the hell are you...?"
(「……おい。お前、何者だ?」)
威圧感たっぷりに投げかけられた英語。
しかし、陽向先輩は小首を傾げ、能天気に手をひらひらと振ってみせた。
「……? 飛鳥陽向だよ〜、よろしくね〜?」
その場にそぐわない無邪気すぎる自己紹介に、男の眉間には深い深い皺が刻まれた。
男は唾を吐き捨てるように、焦燥の混じった悪態を零す。
"Another God...? There's a second one lurking around here? Nobody told me about this, dammit..."
(「もう一人、神がいたのか……? 聞いてないぞ
おい、どうなってやがる……」)
男の額から、一筋の冷たい脂汗がゆっくりと滴り落ちていた。




