138話 妹の矜持と、影の刃
「あっ……」
ドサッと、重い音を立てて忍の身体が非常階段の冷たい踊り場に崩れ落ちた。
指先ひとつ動かすことすら叶わず、荒い呼吸とともに胸が上下する。
四肢を縛るように取り囲んでいた分身たちを炎へと還しながら、本体のアリエッタが艶然と微笑み下ろした。
「ふふ、忍? もう身体が動きませんね? これだけ吸い上げられれば、そうなって当然です」
その時、頭上のコンクリートを震わせるように、微かな地響きと衝撃音が伝わってきた。
アリエッタは琥珀色の瞳を上へと向け、面白そうに耳を澄ませる。
「おや? 上でも戦闘が始まったみたいですね? ……さて、私はもう少し忍で遊びましょうか?」
しゃがみ込んだアリエッタの白い指先が、無防備に晒された忍の胸元へと伸びる。
薄い制服の布越しにその平坦な胸をなぞり、不思議そうに首を傾げた。
「忍? なぜ胸を大きくしないのですか?」
「あっ……!」
屈辱と羞恥に忍の頬が引きつる。アリエッタは耳元へ口唇を寄せ、毒を注ぎ込むように甘く囁いた。
「男性は、大きいほど喜ぶと言いますよ? ふふ、私の豊満な身体を見つめる殿方たちの卑しい目線を見れば、それは明白です。なぜ貴方は、そうしないのです?」
「……兄さんがっ! この姿を、好きだと言ってくれたから……ッ!」
掠れた、けれど芯の通った叫び。
アリエッタは驚いたように丸く目を見張り、次の瞬間、くすくすと喉を鳴らした。
「なるほど? 姿などいくらでも自由に変えられる上位の存在であるはずの貴方が……そんな下らない理由で、わざわざ小さく脆い器に自らを縛り付けているのですか?」
「当たり前です……! 他の誰が何を言おうと、どうでもいい……ッ!」
「ふむ……ふふ、本当に健気な『妹』をやっているのですね、忍は」
「私は……っ! 兄さんの妹で、それ以外の何者でもない……ッ!!」
言い放った忍の喉元へ、アリエッタは愛おしむように再び牙を突き立てた。
カプッ
「あっ……!」
「素晴らしい執着です。気に入りましたよ……もう少しだけ、味わって差し上げましょう」
それから、数分。
すでに忍の全身からは湯気のように希薄な燐光が立ち上るばかりで、指先がピクピクと痙攣するのみとなっていた。
「ふふ……死なない程度、この現世から存在そのものが消えてしまわない程度には残してあげましたよ。さて、それでは私も屋上へ向かいましょ……」
アリエッタが背を向け、一歩を踏み出そうとした——その瞬間。
「……あれ?」
唐突に、視界が天地逆転した。
重力を失ったかのように景色が回転し、地面がぐんぐんと近づいてくる。
コンクリートの床に転がった自分の視界の端に映ったのは——首から上が綺麗に失われ、噴水のように鮮血を吹き上げている『自分自身の背中』だった。
「はぁ……っ、はぁ……っ……。これは……あまり、使いたくありませんでしたけれど」
血の海の向こうで、倒れていたはずの忍の影から、ぼろぼろの和紙で編まれた異形の『式神』が音もなく刃を収めていた。
床に落ちたアリエッタの生首は、驚愕に目を見張りながらも、どこか感嘆したように口元を歪めた。
"I see... A Japanese Shikigami, is it? Truly, you have taken me by complete surprise. It seems... this round is my defeat. Tell me, just when did you—"
(「なるほど……? 日本の式神、ですか。これは一本取られましたね。どうやら、私の負けのようです。貴方は一体、いつの間に……」)
言い終える暇など、忍は微塵も与えなかった。
グシャッッッ!!
靴底で無慈悲に踏み抜かれ、アリエッタの頭部が柘榴のように破裂して消し飛ぶ。
神霊の肉体は紅蓮の炎へと変わり、黒い灰となって階段の隅へと散っていった。
「はぁ……はぁっ……兄さん……っ!」
忍は壁に爪を立てながら、ふらつく足取りで一歩を踏み出す。
視界は激しく明滅し、全身の細胞が悲鳴を上げている。
それでも、濁りきった銀灰の瞳だけは、兄が待つ屋上の鉄扉を狂気的なまでの執念で見据えていた。




