135話 桃色の封書と、凍りつく夕餉
居間のちゃぶ台に荷物を置き、制服の上着を脱ぎながら俺は台所の忍に声をかけた。
「忍?」
「はい、兄さん。どうかしましたか?」
夕飯の味噌汁をかき混ぜる手を止め、忍がお玉を持ったまま振り返る。
「いや、今日下駄箱にこれが入っててさ。……あっ」
学生服の内ポケットから取り出そうとした瞬間、指先が滑った。
淡い桜色の封筒が、ひらひらと宙を舞って畳へと落ちていく。
「キャッチ〜! 後輩く〜ん! これなぁに? 開けていい〜?」
パシッと、信じられない反射神経で封筒をキャッチしたのは、いつの間にか背後に立っていた陽向先輩だった。
「ちょっ、陽向先輩! 私が先に兄さんから受け取ろうとしていたのに……! ……まあ、いいです」
忍がピキリとこめかみを引きつらせ、包丁を握る手に力を込める。
「……陽向先輩? いつ帰ってきていたんですか?」
「う〜ん? さっきだよ〜?」
「全く足音が聞こえませんでしたけれど」
「ふふ〜ん、完全に気配消してたもんね〜! すごいでしょ〜? 撫でて撫でて〜♪」
犬のように頭をすり寄せてくる先輩に、俺は苦笑いしながら手を伸ばした。
「あ、はいはい、すごいすごい」
「えへへ〜♪」
「……それより兄さん、その手紙、何なんですか?」
忍の視線が、先輩の手にある封筒へと突き刺さる。
「いや、俺もまだ中身を見てないんだよ。開けるぞ?」
「はぁ〜い、どうぞ〜」
封蝋を剥がし、中から上質な便箋を取り出す。
そこには、まるで芸術品のように流麗な文字で、こう記されていた。
『ご機嫌よう。アリエッタと申します。
此度、どうしても貴方にお伝えしたいことがありまして、翌日のお昼の時間を少しだけお借りしたいと思います。
どうか、私の胸の丈を受け止めていただけないでしょうか?
屋上でお待ちしております』
ピシッ……!!
畳の隙間から、まるで真冬の霜柱が立つような凄まじい冷気が噴き上がった。
空間そのものに亀裂が入ったかのような錯覚に、陽向先輩が悲鳴を上げて俺の背中に飛びついてくる。
「ひぃっ! こ、こわいよぉ〜忍ちゃんのお顔こわいよぉ〜〜!」
「……どうした、忍? 怖い顔して」
恐る恐る尋ねる俺に対し、忍は張り付いたような極上の笑顔を向け、首を傾げた。その瞳の奥には、一切の光が灯っていない。
「兄さん? ……これ、どうお返事なさるおつもりですか?」
「ん? 明日屋上に行って、ちゃんとお断りしてくるよ」
「! ……それは、その……あの、私もついて行きましょうか?」
「いや、いいよ。大丈夫だ」
きっぱり断ると、忍は珍しく視線を泳がせ、唇を噛み締めた。
「……それよりどうしたんだ忍? 今日はやけに歯切れが悪いぞ」
「いえ……っ。…………はい! 兄さん、とても良いご判断だと思います!」
何か言いたげな喉の引っかかりを無理やり飲み込み、忍は満面の笑みで頷いてみせた。
すると、背中から顔を出した陽向先輩が呑気に手を挙げる。
「じゃあじゃあ、私が代わりに行こっか〜?」
「陽向先輩? う〜ん……相手もわざわざ勇気を持って手紙を書いてくれたんだし、そこは俺が自分の口でちゃんと筋を通したいんだよ」
「そっかぁ! 後輩くんは優しいね〜、わかったよ〜!」
納得して笑顔に戻る先輩の横で、ゴォンッと鈍い音が響いた。
見ると、忍が柱に額を深く打ち付けていた。
「しの、忍ちゃん大丈夫〜!?」
「……はい。少し、陽向先輩の底抜けの能天気さに呆れただけです」
「え〜〜っ! ひどいよ忍ちゃん〜〜!」
騒がしくじゃれ合う二人を苦笑いで見守りながら、俺は手紙を丁寧に折り畳み、ポケットへとしまった。




