131話 空蝉の残像と、保健室の傀儡
「立てますか?」
差し出されたアリエッタの白い手を掴み、今泉はようやくよろよろと立ち上がった。
「うん! でも本当驚いたよ! 私、完全にやっちゃったかと思ったもん!」
「ふふ、忍者です。日本の……『かわり身』、でしたか?」
「すごい! どうやってやるのそれ!?」
「それは秘密です」
「えーー! ケチ! 教えてよ〜!」
無邪気に騒ぐ今泉を優雅にいなしながら、アリエッタはふと視線を転じ、腕を組んだまま壁際に佇んでいた忍を見据えた。
「ふふ……忍? 見ていましたか?」
「はい。とても素晴らしかったですよ」
声のトーンも表情も一切乱さず、完璧な優等生の笑みで応じる忍。
アリエッタはわずかに首を傾げ、獲物を値踏みするように目を細めた。
「……なるほど?」
「どうかしましたか、アリエッタさん?」
「いえ? 手合わせは、なさらないのですか?」
挑発するように向けられた誘い。
忍はわずかに眉を寄せ、わざとらしく腹部に手を当ててみせた。
「……その、急にお腹が痛くなってしまいまして。私は遠慮しておきます」
「まあ! それは大変です! 今泉さん? この学園には『保健室』なるものがあると聞いています。彼女を連れて行ってあげてくださいますか?」
「えっ! 忍ちゃん大丈夫!? 早く行こう!?」
「……はい」
慌てふためく今泉に肩を借りながら、忍は静かに演習場を後にした。
背中に刺さるアリエッタの視線が、どこまでも冷たく絡みついていた。
保健室の引き戸をガラガラと開けると、消毒液の匂いが鼻を突いた。
「大沢先生! 忍ちゃんが!」
「あらぁ〜、どうしたのぉ〜?」
白衣を着た大沢先生が、どこか焦点の合わないとろんとした笑みを浮かべて振り返る。
「忍ちゃんがお腹痛いって!」
「は〜〜い、ベッドでゆっくりしていってねぇ〜」
「今泉さん、私はもう大丈夫ですから。授業に戻ってください」
「うん、分かったよ! お大事にね、忍ちゃん!」
今泉がパタパタと廊下へ駆け戻り、扉がピシャリと閉まる。
足音が完全に遠のいた瞬間、忍の表情から一切の人間味が抜け落ちた。
痛がっていたはずの腹部から手を離し、背筋を真っ直ぐに伸ばす。
「……アリエッタさんについて、何か分かりましたか?」
忍が低く命じると、先ほどまで呑気に笑っていた大沢先生の表情が、能面のように凍りついた。
濁った瞳には光がなく、ただ忍の声にだけ反応する操り人形と化している。
「……いいえ。詳しい情報はありません」
「使えませんね」
冷酷な忍の吐き捨てに、大沢先生は感情のない声で頭を垂れた。
「……すみません」
「はぁ……。では、学園内外で怪しい目撃者などは?」
「……それなら、あります。最近、学園の結界や周辺に何者かが術式を仕掛けている形跡が多発しており……教員側でも警戒を強めています」
「なるほど……やはり、彼女の仕業でしょうか?」
忍は黒い瞳をスッと細め、兄の元へ潜り込ませた陽向の気配を意識した。
「では、引き続き調査をよろしくお願いしますね?」
「……はい。分かりました」
深々と一礼する傀儡の養護教諭を背に、忍は保健室のベッドに浅く腰掛け、次の手を冷徹に巡らせ始めた。




