128話 新学期の朝、忍の隣席
新学期の朝
リビングに下りてきた俺は、ダイニングテーブルを見回して首を傾げた。
「あれ? 忍、陽向先輩は?」
「ああ、陽向先輩なら少し早く登校するとのことですよ」
エプロンを外しながら、忍は何事もなかったかのように穏やかに答えた。
「そうか。珍しいな、あんなに朝寝坊だったのに」
「ふふ、人間誰しも心境の変化というものがありますから。それより兄さん」
「ん? どうした?」
「これを」
忍がポケットから取り出したのは、丁寧に縫い合わされた小さな布の包みだった。
「お守り? ……なんか前にも同じようなのを貰った気がするけど」
「気の所為ですよ。さあ、遅刻してしまいます、行きましょうか」
「そうだな」
首を傾げつつもお守りを制服のポケットへしまい、俺たちは並んで家を出た。
自分の身体の奥底に、陽向先輩そのものがすっぽりと収まっていることなど、夢にも思わずに。
一方、忍のクラスの教室。
朝のホームルームのチャイムが鳴り響き、担任が教壇の前に立った。
「おい、お前たち席に着け。今日は新学期早々だが、転校生を紹介する」
ざわつく教室の中、引き戸が静かに開き、一人の少女がすっと足を踏み入れてきた。
"Nice to meet you all. My name is Arietta Vercelli. It is a pleasure to make your acquaintance."
(「はじめまして、アリエッタ・ヴェルチェッリと申します。よろしくお願いいたします」)
流暢で耳触りの良い、英語の響き。
透き通るような白い肌に、淡く光を帯びたプラチナブロンドの髪。
神話の絵画から抜け出してきたかのようなその美貌に、クラスメイトたちは一瞬で息を呑み、見惚れていた。
「すげぇ……めちゃくちゃ綺麗だな」
「本当、身体が透き通って見えそう……」
教室中の視線を浴びながら、アリエッタは小さく口元に指を当て、悪戯っぽく微笑んだ。
「あっ、いけませんね。失敬、失敬。……これで大丈夫でしょうか? 日本語の発音は、少し難しいですね」
完璧に整った、鈴を転がすような日本語。
彼女は優雅にスカートの端をつまみ、一礼してみせた。
「改めて、アリエッタ・ヴェルチェッリです。よろしくお願いしますね」
「「「うぉぉぉぉぉぉぉぉ——ッッ!!」」」
男子生徒たちから地鳴りのような歓声が上がる。教官が黒板を激しく叩いた。
「静かにしろ! ……さて、席はだな。……西条の隣が空いているな。西条、手を挙げろ」
「はい」
機械的に手を挙げた忍の元へ、アリエッタは軽やかな足取りで近づいてきた。
机の横に立つと、琥珀色の瞳を細め、忍にだけ分かるわずかな温度を声に乗せて囁く。
「西条忍さん? よろしくお願いしますね」
「……はい、よろしくお願いします」
外面通りの笑顔を返しながらも、忍の背筋には氷のような冷気が走っていた。
(……何故、まだ名乗ってもいない私の名前を? まさか)
教室の春の陽気とは裏腹に、二人の間では静かに火花を散らし始めていた。




